復活復活と唱えながら、何に復活すんねん?!とお戸惑いの皆様。私、菰池 環の場合の“復活”というのは、病気や怪我で中断していた生活、人生を取り戻すことです。具体的に書きますと、膝の手術のあと日常生活に復帰できたことがまず一つ。そして、勉強やスポーツ、芸術活動を再び開始したことなのです。というわけで今回のテーマは“復活”。
この日本がやり直しのきく社会かどうか、あるいはやり直しはきかないように、うわさ通りに変わってきたのか。いろいろな方向からチャレンジして確かめてきた、菰池。
「何に復活すんねん?」というのは、私の個人の問題でもあり、はたまた日本の問題でもあり、たいそうな言い方ですが、人類共通の問題でもある!新聞をひもとくと、「まともな社会」への“復活”を期待する記事が多い。「まともな仕事へ“復活”!―景気がよくなって欲しい。非正規社員の者、失業中の者、子育て中の女性が正規雇用の再就職を夢見ている記事。経済格差が広がっているから、差を無くそうと呼びかける」。「まともな家庭へ“復活”!―少子高齢化を考えよう。子育てや介護のノウハウ記事。どんどん結婚して、出産して、少子高齢化を緩和しようと呼びかける」のか。何がまともで、どうあるべきなんだろう。
実際は、正規雇用されつつ、結婚して子どもを持つと、自分の夢はあきらめて子どもに託し(勉強のしりを叩き)、自身は非人道的な長時間労働にあえぐことになるのだが。日本は進んだ模範的な国として、世界に貢献することを期待されているというのに、今頃「まともな社会」への“復活”をみんなが期待する羽目に陥っているのは何故なんだろう。
大人たちは、子どもの成長に必要な健康的な食事のための金を惜しむ一方で、子供たちに高額な携帯電話を与え、有害なホームページに気軽に立ち寄らせる。「先生、●●の国の人って、首を絞めても死なないんだって!」と真顔で答える子どもに出会った。「ぼく、確かに何かでみたんだ!」といってきかない。戦前から続く外国の人々に対する差別的感情が、教育により正しく導かれるのではなく、間違った情報でゆがみ、悪化しているらしい。「それは、マジックかなあ?白人も黒人も、みんなからだの仕組みは同じなんだよ。もちろん、首の細い人と、ボブサップのようにトレーニングした人とでは違うかもしれないけど、それは民族の違いではないよ」というと、ようやく納得した。彼は特別な子どもではないと思う。学力に関係なく、子供の知識は偏り、実体験よりもテレビや雑誌、ネットの世界のほうにリアルさを感じている。レベルの高い私立に行かせれば、全てが解決すると信じる裕福な保護者たちは、将来自分の子供がどんなふうに育つことを夢見ているのだろうか。あまり裕福でなく、勉強の出来る子と出来ない子が両極化していく公立学校の子どもたちは、過酷な競争社会の中に、どんな希望を抱くのだろうか。
これまでの世の中は「進んでいる」というのと「遅れている」という意識が重要らしい。進んだ地域というのは快適な生活が出来て、かっこよくて、遅れた地域はそれをまねて学ばねばならないらしい。日本はアジア、アフリカの多くの町や村より「進んだ地域」として期待されていて、新鮮な水や食料が手に入るよう、医療が受けられるよう、自然を保護するよう、農業や工業を発展させるよう“教える”ために海外に出かける。じゃあ、振り返ってみて、和歌山は?菰池の暮らす有田を例に持ち出そう。日本一便利で豊かと信じられてる東京よりもずいぶん暮らしやすそうだ。東京より自然豊かで、新鮮な食料が手に入る。公害や交通渋滞もほとんどなく、子ども達もまっすぐ育ちやすい環境にある。特急と高速道路とインターネットのお陰で、物資や情報も手に入れやすくなった。東京の人が思いこんでいるよりずうっと、有田は快適でかっこよい「進んでいる地域」のはずである。問題は、有田は年々快適さを失っているのではないかということだ。有田に来て今年で10年になるが、地元の新鮮な水や食料がいっそう手に入りやすくなっただろうか。医療は充実しただろうか。自然は豊かになっただろうか。産業は発展しているだろうか。振り返ってみると、「道路が拡張されて便利になった」→「信号が増えたぶん移動に時間がかかる。交通量が増えて子どもやお年寄りの事故が増えたかもしれない」。「農業の大規模化で大量生産、大量選果、大量出荷」→「農作物の値段は下降傾向」。「漁業は立派な船に魚群探知機を備えた」→「肝心の魚は減りつつある」。そして近年、人々の間の教育の格差、経済の格差が東京と同様に、この有田にも襲い掛かっている。これらのことは、有田も地球レベルの環境破壊や世界規模の競争社会(機械化と人件費の削減のあらし)に巻き込まれていることを意味している。戻るべき「まともな社会」をここで見失わないために、世界と我が家を二つの目で同時に見つめていこう。
大阪生まれの菰池が、各地の引っ越し先で心がけてきたことは、地元の言葉を使い、地元の文化を尊重しつつ、より質の高い生活を送ることであった。質が高いというのは、物の無駄のない生活、趣味の豊かな生活、人権の守られる生活であり、私の思う進んだ生活である。
いきなり失敗例から書こう。環境問題は刻一刻を争う状態にある。温暖化で温州みかんのできばえも変わってきた。美しい水と空気を手に入れるのに、お金がかかるようになってきた。理想を言えば、人類、生き物、地球全体のことを真っ先に思えたらいいのだが、まず、自分の足元、我が家から。菰池はかつて信州で一人暮らしをしていた学生時代、洗濯に風呂の湯を使ったり、米のとぎ汁を植木にやったり、家庭排水に気を使っていた。家の周りに大きくなる木を植えたり、窓のそばに影になるつる植物を植えたりし、光熱費を浮かし、緑化を計ろうとした。今でもごみを減らすために、食料は大入りのものをまとめ買いし、買い物袋の持参をこころがけてはいるが、便利さに慣らされ、以前ほど環境を心がけなくなった気がする。物の無駄のない生活、環境にやさしい生活をまずは“復活”したい。(具体的なお話については、クマコラムにお譲りいたします)。
いろいろな学校で、非常勤講師していると、いろいろな家庭の子どもに出会う。この、豊かなはずの日本で、文具代に困る子どもがでてきたとわかったとき、そのことを知っていても家庭の問題として講師の先生はなにもできないということがわかったときは、昔の日本社会のほうがやさしかったなあと思う。寺子屋があり識字率の高かった日本。貧しかったり戦争のために教育を受けられなかった子どもがいても、受け止めて育てる心が残る社会。誰でも学び、学びなおせる世の中から後退していないだろうか。子どもの教育がひもじくなったのは、働きたい親に適切な仕事がない(または労働に見合った給与のない)家庭、逆に仕事があるが長時間労働のため、幼児期のしつけに時間をかけられない家庭との両極化がすすんだせいかもしれない。子どもの権利が踏みにじられている原因に、大人の労働者の権利が守られていない現状があるということか。子どもの問題の真の原因は、国際競争力をつけるために行った、人件費削減(海外進出も)、機械化、コンピュータ化が大きい。人間らしく学び、働ける国に“復活”したい(農業はその点おすすめである。子沢山の家が多く、子育ての時間がある)。
国外では、人口増加の抑制と、貧富の差を縮めるために、女性の経済的自立、産む産まないの決定権をもてるよう、女性の教育が進められている。女性や障害者、老人の権利が守られている「進んだ国」にするために。幸いアジアでは、年長者を大切にする風習が残り、ところによっては(おうちによっては)カカア天下も続いている。学校や会社では男女差別が目立たなくなってきているのに対し、日本の家庭では、逆に女性の選択肢が狭まってきている気がする。働きたいのに家庭で子育てしか選択できない女性、産みたいのに経済的に苦しかったり、子育ての時間がなく産めない女性。客自身がカードを選んでいるつもりになって、実は意のままのカードを引かされている「マジック」のようだ。農家の女性もそうだ。昔に比べて生活の自由は増えた。一方で、豊かな農家ほど子どもをたくさん持つ経済力がある。昔は子育てしながら農作業するのがあたりまえ、今は、農作業せずとも子育てしながら外で働くのがあたりまえ。日本中の女性が、自分で生き方を自由に選択できたらもっと幸せになれる。社会がもっと元気になるのにと思う。
有田で暮らす農家のお年よりは、いくつになっても自分に見合った仕事があり、生きがいを感じつつ大切にされてきている。みかん産業が衰退したときは、これらお年寄りの人権も侵害されてしまうだろう。スタートの時点で不平等なまま、高齢者も障害者も、日本でも海外でも、同時に「平等に」競争させられている。平等という名の元に生じる不平等。人らしく生きる権利については年々退行していると思う。人権の守られる生活を、“復活”させて欲しい。和歌山は和歌山のやり方で、誰しもが尊重される世の中になって欲しいと願う。自然を守りつつ、第一次産業を大切にし、程よくローテクで続けていく国。子どもも大人も夢のたくさん抱ける国に“復活”して欲しい。
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