2年前、実家大阪の祖母が96歳になろうというときに、生まれて初めての四国参りを試みた。家族親戚の反対を押し切って、だ。おりしも、台風が近づいてくるという初夏のある日、四国までのアクセスを事前に下調べし、徳島についたら自分でタクシーをチャーターし、道中うどんをすすりつつ、実に二十数ヶ寺をたったひとりでまわった。しかし不運にも途中の寺院(香川県の屋島寺)で階段から転げ落ち、救急車で強制入院。無念の帰阪。そして、無理がたたって数ヵ月後、心臓の病で倒れる。いっときは寝たきりに。その後、リハビリに励んで、日常生活を自力で送るまでに回復した。寿命を縮めてでも見たかったお寺とはどのようなものであるのか。祖母が転落した階段をみよう、ふつふつと好奇心が沸き、この10月に2泊3日で四国に行ってきた。
事典をひもとくと、お寺めぐりというのは、12世紀ごろに西国三十三ヶ所がブームとなり、その後、空海(弘法大師)ゆかりのお四国八十八ヶ所をまわる風習が生まれたという。それが一時のはやりでなく、今でも老若男女、あらゆる人が毎年大勢お参りしているのは、なにか特別な魅力があるに違いない。おばあちゃんの例のお寺に行くことを有限会社の社長につげると、お参りセット一式、白い装束(おいずる)、肩掛けかばん(山谷袋)、もろもろを貸してくれた。
和歌山港から13:15発のフェリー(4m以下7400円)で徳島の小松島港まで渡ること2時間。まずは第一番の霊山寺へむかった。ここで、スタンプラリー帳のような「納経帳」を購入してからがスタートだ。ところが、何度も来たことのある徳島をなめてかかったのが大間違い。港から国道55号と11号を北上し、徳島市内を抜けて寺に行くまでに標識がなく、迷いに迷う。自家用車で四国めぐりする人の多くは当然、和歌山経由でなく阪神、淡路島経由で来る。「“りょうぜんじ”はどこですか?」と道を聞いても、50代以下の人は「それってなに?どこ?」という感じ。“野生の勘”を駆使して、畑の細道をぐるぐるめぐり、ようやく4時前ごろ霊山寺へたどりついた。「みやげ屋」のようなところで「納経帳」を買おうとするが、肝心の「納経帳」という単語がとっさに出てこない。てきとうな冊子をつかんで無言でレジに向かう。が、購入後に中を開けると、すでにスタンプが押してあるではないか。まだ、お参りもしていないのに、終了スタンプ!こりゃあかん。あわててレジのお姉さんに「まだ拝んでません」と正直に言うと、「先にスタンプを押したものしかおいてありません。これでいいんです。今から拝みに行ってきてください」と言われてしまった。すでに、同じ日本にいながら、言葉が通じず習慣の違う海外へ、旅しているような気分だった。
そう、先に結論を言うと、四国参りというのは、身近で安価でありながら、装束を着て寺めぐりを始めた瞬間に、場所と時代を飛び越えたような非現実の世界へといざなう、不思議な旅なのである。いまどき、欧米に海外旅行に行っても、スーパーやコンビニ、ファーストフードは世界共通で、無言で物を買ったら日本とほぼ変わらない。韓国と台湾なら、歩いていても外国人と気づいてもらえない。異文化に来たと思えるのは、社会主義国の中国とか、旅行者にもイスラムの習慣を守らせるイランに行った時くらいだ。そのくらいの大きなカルチャーショックを、たった2時間の「船旅」で味わってしまえるのだった。
霊山寺は大きく広く、トイレの場所、本堂を探すのにも迷った。ツアーのあとにくっついていけばなんとかなるやと思っていたのに、静かで、参る人もちらほら。実は、参るマナーもあまりよくわかっていなかった。手を洗って、ろうそくと線香を立てて、納め札という自分の名前を書いた御札を入れ、とりあえず般若心経を唱えてみる。明日こそは誰か手本を探すぞ!本堂の隣の太子堂でも同じようにろうそくをともし、拝む。今度は白衣にスタンプを押してもらおうと、ふたたび土産物屋のような建物(納経所というそうな)に戻ると、スタンプの人のところには人だかりが出来ていた。みな、手に手に山のように白衣などをかかえている。私の番が来た。白衣を取り出すと、手際よく着物をたたみ直し、朱色の3つのハンコをつくと、よごれないようにと古新聞をはさんで包んで返してくれた。まるで、ビザをもらいに大使館で並んでいる気分だ。見る物聞く物、すべてわけのわからないことばかり。時計を見るともう4時半だった。これから香川県の屋島寺に行って、8時には徳島に戻り、予約してあるビジネスホテルに入らねばならない。時間はぎりぎりだ。
車に戻るとすぐに、屋島寺に向かった。高松市の中心近くの国道11号沿いらしい。50kmは離れている。あまりよく考えずに東に向かって走り、国道11号を北上していくうちに、ふと、霊山寺からまっすぐ北上していれば30分は得をしていたことに気づいた。まあ、迷うのも旅の醍醐味か。夕日に向かって、11号をひた走る。夕方の5時にもなると道路が渋滞し始め、高松市内に入ったのは6時前だった。なれない道で、目を凝らしても標識を見落とす。助手席に誰もいないので、運転と、地図と標識を見るのを1人でしなければならない。ようやく屋島寺に向かう有料道路を見つけ、登って着いたときには日も暮れた6時半だった。漆黒の瀬戸内海に浮かぶ小豆島と瀬戸大橋の明かり、まばゆい高松市内の街の灯。360度がロマンチックな夜景だった。まわりはお遍路のへの字もなく、カップルばかりだった。懐中電灯を袋にしのばせ、屋島寺にむかった。近代的な美術館のような建物から本堂まで、それはそれは立派な建物が続き、これが祖母の目指した寺だったかと納得がいった。石段を探そうという勇気も失せる暗さになてきた。ここで、石段を踏み外して転がれば、孫も一緒にお遍路中断という不名誉になってしまう。しかも、たったの2つめの寺で。ひとっけのない真っ暗なお堂にろうそくをともすと、あたりも心も明るくなる。拝む前にろうそくの理由が納得。ハンコはもらえないけれど、確かに行ったしるしにお札を置いてくる。いつまでも感慨に浸っていられない。早く、徳島に戻らなくては。チェックインの時間まで2時間を切った。
途中、高松自動車道、白鳥大内―鳴門間900円を使い、ぎりぎり8時にビジネスホテルMay upについた。駐車場を見ると、他の車は大阪ナンバーの高級車ばかりだ。インターネットで予約したので素泊まりたったの5250円。駐車代500円。フロントもそっけない対応。ところが、車のキーを預け、ホテルの人が私の車を動かしたときに、車中の金剛杖と輪袈裟を見たのだろう。夕食をとりにホテルを出ようとしたときのフロントの態度が一変した。急に私は「うさんくさい一人宿泊者」ではなくなり、いきなり「一流の上客」扱いされたのだ。まるで、水戸黄門の印籠を見せたような効果だった。そのかわり、部屋でビール飲むなどの行為が“やましい”様な気になってしまった。その後、白装束を着ているとまるでイスラム教のターバンかベールをかぶっているかのように、「私は敬虔な仏教徒」と世間へ宣言してしまっているような錯覚に陥った。
2日目、5時半おきして、早朝のトラック群の走る間を抜けて2番目の寺へ向かう。先客がいた。自家用車のグループが数組。これで、お参りのしかたを学ぶぞ!と思いきや、彼らのほとんどは普段着で、御札と納経帳しか持っていないことが多かった。賽銭を入れて拝むと、建物やお庭を見る間も惜しいように、そそくさと去っていく。休暇のうちにまわれるだけ寺をまわろうという人たちだ。足の悪そうな男性が、走り去った皆のあと、ゆっくりと歩きながらつぶやいていた。「寺は逃げん。逃げんぞお~」。
3つ目の寺は近くてわかりやすい。行くと、2番目の寺で出会った面々が帰りかけている。4つ目の大日寺は迷った。高速道路から離れた山のふもとにあり、なかなか風流な寺だった。6つ目の安楽寺でようやくツアーの観光バスと出会ったが、これもほとんど普段着のご一行で、拝み方はあまり参考にならなかった。徳島市内は、平野が広く水田が広がり、まるで新潟か兵庫県かどこかの米どころを走っているような感じだった。10番目の切幡寺についたのは11時だった。おなかが空いてきた頃に、30段以上の長い石段がつぎつぎと待ち受けていた。これまで、平野のお寺がほとんどだったので、歩き応えがある最初のお寺になった。これをあの高齢の祖母が登ったのかと思うとぞっとした。お寺参りは高齢者のイメージだったが、若く元気なうちに行くべきだ。心臓に悪い。
ここまでが吉野川の北岸沿いにあるお寺で、比較的まとまっており、ここからお寺とお寺の間隔が離れていく。国道318号沿いにはいってすぐ、スーパーの近くに、セルフサービスのうどん屋があり、290円くらいの釜揚げと100円くらいのてんぷら2つを頼んで昼食にした。好天の上にお経を唱えっぱなしで、ビールを飲みたいくらい喉が渇いているのだが、車で来ているので水で我慢する。あまりに道がややこしいので、迷う時間が増えてこの先思いやられる。ついに、本屋で道路地図を購入した。購入してから気づいたが、道が多くどこからでも目的地に行けてしまう市街地よりも、郊外のほうが一本道で運転が楽だった。和歌山で慣れた起伏の多い道が続く。11番目と12番目の間は峠越えの道で、自然の中のドライブは楽しかった。13番目の大日寺に行く途中、お遍路の観光バスが自転車の子供と接触したらしく、パトカーに止められているのに遭遇した。けが人はいなかったのだろうか、ツアーの人たちはこのあと無事に日程をこなせたのだろうか、ちょっと気になった。14番目のお寺へお参りしたあと、再び最初の霊山寺の近くに戻り、「鳴門市ドイツ館(ベートーベン第九の日本発祥の地)」に行き、第一次世界大戦の俘虜(ふりょ)の墓を参った。収容所の跡地は、ゴミであふれた公園と古い公営住宅になっており、遍路でにぎわう寺とは、対照的にとてもうら寂しかった。秋の行楽シーズンにしては四国のお寺はとても空いていた。が、道路は朝夕混んでいた。鳴門市ドイツ館の帰り、ビジネスホテルのチェックインまで時間があったので、次の寺の下見に出かけたら渋滞にはまった。幸い、道路地図があったので、裏道をつぎつぎ縫うようにして15、16、17の寺をまわった。2番目のビジネスホテルは、センチュリープラザホテル。フィットネスと温水プール、インターネットつきが売り物の新しいホテルだ。夜7時にチェックインすると、プールなどの受付は7時までですと言われてがっかり。プールについている大浴場が目当てだったのだが。今夜もシャワーで我慢だ。前夜のホテルは眉山の繁華街にあったので、少し歩くと手打ちうどん屋があったりと便利だった。今度は国道55号沿いで、車がないと動けない。しかたなく、ホテル1階の喫茶でサンドイッチを食べて夕食を済ませる。地下には日本料理レストランがあったが、10月はマツタケ料理フェアという旗がひらめいており、豪華すぎて行く気がしなかった。せめてインターネットくらいするかと部屋のパソコンらしきものの電源を入れると、目が点。光ネットのテレビだった!自分のノートパソコンを持ち込めば、ホテルの部屋で利用出来たらしい。有限会社に、メールの代わりに電話にするっか。歩いて公衆電話を探すと、コンビニの前にあった。夕食、コンビニで買えたんだなあ。ははは。
3日目の朝。コンビニで買ったコーヒーとサラダを食べる。サラダのドレッシングを買い忘れた。ぱさぱさで半分しか喉を通らず、15番目の寺に向かう。ここ国分寺は徳島で一番お気に入りのお寺となった。15番目と言われなければそんな有名なお寺に見えない。特別庭が美しいわけでもなく、本堂が大きく豪華なわけでもない。住宅街の中の何の変哲もないごく普通のありきたりの寺で、もちろん“お守りグッズコーナー”らしきものもない。その寺の納経所に朝7時過ぎに行き、ブザーを押すと、まだ着替えを済ませていない御住職がぶつぶついいながら出てこられた。「こんなはよう、どっからきたんや。このペースなら、室戸岬まで今日は行けるで~」まったく商売っ気もかざりっけもない、率直な御住職にいちばん僧侶らしい惹かれるものを感じた。いろいろな寺を見て、何が楽しいと聞く人がいたら、私は千差万別の寺と千差万別の僧侶を見比べるのが楽しいと答えるだろう。旅館のような豪華な宿坊を抱える寺、賽銭箱のまわりにお守りや寺のロゴ入りグッズの並ぶ寺、無作法で無礼な参拝者を高飛車にしかりつける寺、低い物腰で温かい言葉をかけてくれる寺、家族経営のこじんまりした寺から、若い修行僧をたくさん抱える学校のような寺、、、ひとつとして同じ寺はなかった。
静かな寺で、あるいは観光客だらけの騒々しい寺で、お経を唱えるのは結構勇気がいる。最初に口を開くたびに、度胸試しをしているような緊張感が走る。日常生活で、これほど緊張し、集中する機会はまずない。このスリルもまた、やみつきになる。お経で鍛えた肺活量と、緊張をコントロールする感覚は、きっと役に立つことだろう。
18番の恩山寺に行こうとする朝の8時台も大渋滞で、これまた地図で調べた裏道を使って国道55号に出た。19番の立江寺は商店街の中にあり、寺経営の離れた有料駐車場300円に対し、個人経営の200円の駐車場が寺の門の正面にあるのがおもしろかった。普通の観光地は近いほど高いはず。個人のお店は、お参りの人からあまりお金をとらないように気配りしているのだろうか。19番から20番にかけて、ここ徳島県勝浦町勝浦川沿いはみかんの畑が広がり、まるで有田川周辺のようであった。ここで初めて給油する。ここまで有田から420km走った。自慢の日産パルサーは燃費がよくて助かる。20番の鶴林寺は、標高が屋島寺よりも高い山中にある。仁王門の中につるらしき鳥があった。21番目の太龍寺にいたっては、標高500mほど。立派なトレッキング系の山だ。風景は龍神村のような感じ。近くを流れる那賀川は、四国最高峰、標高1955mの剣山から流れてきている。ロープウェーもあるが、まだお昼前で時間があったので、車で中腹まで行き、1kmほど歩いた。
時間の感覚がゆったりとながれ、穏やかな気持ちになりつつ、心が真っ白になったようで新しい出来事がしみこみやすい、感受性の高まる感じもする。非日常の装束で、非日常の文化に浸りながら歩くと、外国人になったかのように、日本についていろいろなことを考えさせられる。こうして、農作業や学校での授業という“現実の世界”から切り離されるほど、有田での暮らしばかりが歩きながら思い出される。義兄をはじめ、現実世界に残してきた人々のことがいっそう身近に感じられる。さらに、時間の感覚が失われ、済州旅行とか、他の旅行中の記憶と交錯したりする。たった3日でこうなのだから、歩いて八十八ヶ所をまわるということは、旅の目的が何であれ、かなりの修行になるのだろう。普通の旅行とは違う魅力、海外旅行よりも感じる異文化の世界。瀬戸内海、紀伊水道、太平洋。水田の平野から果樹園まで、飽きのこない変化ある風景。お参りした人が、「ええで、いっぺん行ってみな」と周りに勧めたくなる理由、体験してみて納得した。
23番のお寺までは、紀南の海岸を走っているかのような風景であった。刻々と黒潮に近づいている感じだ。道のカーブは多いが峠越えはない。確かに行こうと思えばこのまま室戸岬まで行けそうだ。しかし、帰りを考えるともう戻ったほうがよい。16:35の徳島小松島港発のフェリーを目指して55号を北上する。道が狭く3時でも車が多い。港に着いたのは4時過ぎだった。乗り場前のケーキ屋で23番到達祝いのビターチョコレートケーキ(オペラ、ガトーショコラ風)、を買い、乗り込んだ。特別な達成感もないが、途中で帰る寂しさがこみあげてくる。なんだかんだいって、作法が面倒で緊張感あふれる寺めぐりは楽しかったのだ。旅というのは何事も新鮮で面白いもので、やみつきになる。それが、現実から切り離されればされるほど、心地いいのだ。海外旅行よりも現在日本社会から遠ざかるたび、お遍路。お遍路の伝統が現在にも続く理由は、これなのだろうか。あれほど懐かしく帰りたかった現実世界に帰れるうれしさも本物ならば、まだ続きを体験したい、という欲も本当の気持ちだ。
弘法大師に守られて、無事に行って来られた事をよろこび、さて、次の高知はいつにしよう。もしかしてお四国にはまった!?
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