この10月は、沢部のT氏とT姫と3人で、四国の石鎚山に登った。T氏が企画する山行計画はいつも、お楽しみが盛りだくさんで、例えば、花見や紅葉狩りをかねていたり、おいしいものを食べたり飲んだりするのだが、今回も「秋祭り」の西条市観光つき。そして沢部らしく、登山前には宿周辺の渓谷散策が加わり、コース料理のような華やかさだった。四国と言えば、昨年の10月に、四国お遍路の旅で行ったきり。ちょうど丸1年になる。ひとり車で2泊3日を旅した思い出が、次々と湧き出てきた。それがまた、余計な遠回りをもたらすのだが、、、
10月6日の土曜日の朝、フェリー乗り場へ向かう途中でT氏を拾う。ここでは、ぜんぜん違うところで待ち合わせていて、会えるまで10分ほどロスする。和歌山港ではT姫が、すでに乗船手続きをすましており、菰池カーの駐車場の確保もしてくれたので、時間通り徳島港についた。懐かしの徳島氏市内。巡礼最初の寺、霊山寺のそばに、ベートーベンの「第九」の“博物館”があったのを思い出した。歴史好きの菰池にはどの展示も刺激的で、古い手書きの楽譜をまじまじと観察したり、第一次世界大戦当時の、日本の音楽史の一ページを紐解くのはとても興味深かった。T姫も一緒に第九合唱団で歌っているので、“博物館”のことを話したところ、インターに近いなら行きたいとの事。しかし大きな間違いがあった。前回は1日目は、徳島市街地図を持たずに“寺めぐり用”の略図と勘でうろうろしていたのだった!徳島インターから寺まで約10km、寺から“博物館”まではさらに10kmもあったのだ(10kmといえば有田では日頃、ちょっと近くの郵便局や銀行に行く距離である。信号のない田舎ではせいぜい時速60kmで10分くらいの移動距離だ。しかし大阪市では市内の端から端の距離であり、信号が多すぎて、バスや原付の移動に1時間近くかかってしまう。たとえそれでも、田舎では「たったの1時間」の距離である。電車も、逃したら「10分も待つ」とあわてるのが大阪市内。有田では電車を逃したら次は30分後、特急なら2時間後。こうして、時間通り杓子定規に学校や会社が動くほど、車社会が加速していく)
そうともしらず、3連休のいつもより混雑した徳島市街地をうろうろ。そしてついた博物館は「第九」の映画公開直後の去年までと違って、地元坂東との歴史と、本来の「ドイツ館」のネーミングにふさわしいドイツ地ビール&ドイツ特産品会場!思ったよりも時間がかかってしまい、菰池は2人に申し訳なく、宿で飲むドイツワインを買い込んだ。大勢で行くときはやはり、下調べが肝心であります。すみません。
秋祭りのほうは、私と違い、T氏が前もって下調べしただけあって!さすが見ごたえのあるすばらしいものだった。東予丹原の出口近くの、とあるスーパーの駐車場で、4~5mはあろうかという大きな神輿(2m以上もある大きな山車だが車輪が無く、途中まで台車で運び、広場で大勢で担いでいる)が8台勢ぞろい。それぞれデザインが違い、集落ごとのちょうちんとはっぴを着込んだ10代の若者~50代が、1台につき30~40人くらい碁盤の目にならび、囃子歌とともに肩まで担いで練り歩く。他の台にけんかをふっかけては、さらに両手で万歳するまでもちあげる。上手なグループは、息もぴったり見事水平に持ち上がるのだが、へたくそな集落では、だれかがいそいで万歳するせいで、担ぎ損ねたほうに神輿が傾き、それはそれでスリルがあってみていて面白いのだった。神輿には大阪のだんじりのように1階にお囃子の太鼓、2階の屋根の下にバランスを取る身軽な若者がいて、大きく傾いたときの彼らはとても哀れであった。あるときは観客の停車中の自動車にぶつかりそうになったり、他の神輿との間に挟まれそうになったり、あやうく、バランスを崩して下敷きになりかかったり、それでもすぐそばまでベビーカーで見ている親子もいて、地元の子どもは見慣れたもの、ちっともビビらずに一緒に眺めている。われら3人はアドレナリン出まくりで、その後の道中、テンションあがりまくりだった。
石鎚山から流れ出る面河(おもご)渓のとりわけきれいな川原のそばに、国民宿舎はあった、に泊まる。どう美しいかと言うと、あたりはカルスト地形の白い大きな岩。そこに上流からながれてきた青や緑などの小石がちりばめられ、鉄分を含んだ赤い水が白い石を赤く染め、いつもならそこにブナ、カエデ、クリといった落葉広葉樹の紅葉がさらに色を添えるのである。深い淵などは、トルコブルー、エメラルドグリーンの宝石のようであった。残念ながら今年は暑さで紅葉のほうはまだだったが、木々の淡い緑の濃淡のそれは、それでまた美しい風景だった。国民宿舎には、大勢の家族連れが泊まっていた。ある、広島から来た御夫妻は、我々に駆け寄ってくると、「和歌山の方ですか?わたしも和歌山出身なんです!」聞くと御夫妻の夫は、菰池の暮す有田の近所の集落、奥様のほうはT姫とおなじ川辺出身であった。奥様とT姫は「○○さん、ご存知?」などローカルな話題で盛り上がっている。転勤で広島に定住し、娘夫婦は松山に暮らしていて、孫と一緒に泊まりに来たと言う。お互い、奇遇に驚いた。あとで奥様のほうが、広島の住所を手にして、「広島に来たときはいつでも泊まりにきてください」といってくださった。もう一人、宿で忘れられないのが、調理場のお兄ちゃんである。ドイツ館で購入したワインやビールを、厨房で冷やしてくれた上に、焼酎のロック用にと、大量の氷をプレゼントしてくれたのだ。服装や顔、外見ばかり“格好がいい”のではなく、中身も“かっこよく”“やさしく”、このスマートな気遣いの兄ちゃんがいるなら、また来たいと思わせてくれる。旅館業というのは、やはり、どんな高価な立派な設備より、心遣いと気配りだ。
今回は、メジャーなロープウェーのコースではなく、最近流行らしい石鎚スカイライン経由。宿から登山道まで、車で標高1400くらいまでのぼり、ほとんど起伏のない整備された道を4kmほどいき、ロープウェーコースと合流した後は、傾斜がすこしずつきつくなっていく。最後のほうに2つのルートがあり、本来の修験者のためのルートは、垂直に近い岩のくさり場を60mほど登る。もうひとつのルートは、下山路も兼ねた、鉄の網でできた人工の廊下と階段道。山頂には石鎚神社がそびえている。連休中のため、登山道はにぎわっていた。朝はお遍路さんの格好の家族連れ。3~4才くらいの子供が、白装束に輪袈裟でおばあちゃんの手にひかれ、元気よく「おはようございます!」と大きな声で一人ずつに挨拶する様子と歩く姿がかわいかった。個人の家族連れもたくさん見かけた。それに対して、夕方は大手旅行者の団体さんが何十人も次々と登ってきた。あるいは、ちょっと散策のつもりで、上等の革靴の“おねーさん”や、空身手ぶらで歩く“おじさん”、屋台のプラスチックパックを手に歩く“おばちゃん”など、そのまま登ったら遭難しかねないような人々も登ってきて、本当に大丈夫だろうかと気をもんだ。
神社のある山頂は、台風が近づいているせいで、晴れたり雲がかかったりで、眺めは最高とはいえなかったが、たまに天狗の鼻のような岩がくっきりと目の前に現れ、遠くに瀬戸内海が、青空の一部のようにかすんでみえた。ひと休憩した後、“天狗の鼻”の岩のほうに歩いていくことにした。左側はきりたった断崖、右側は比較的緩やかな、緑の牧場のような風景の上に、赤々と燃える紅葉がせまる。標高1900以上はもう、秋だ。みると、岩の上で確保している人物が。左の断崖の下をのぞくと、セカンドの男性が、ヌンチャクを回収しつつ、リングにアブミを交互にかけているのが見えた。この絶壁を登ってきたのもすごいが、絶壁のとりつきまで、1m以上の笹薮を藪こぎしてきたその気力に敬服してしまった。私が面白がって崖下を覗きこんでいると、そばにいたおばちゃん達数人が次々といっしょに見下ろし始め、「いやあ、かっこいいわあ!」「映画見てるみたい!」と黄色い声を上げるので、登っている人はギャラリーの多さに、きっと余計に緊張しているんやろなあと、心中を察してしまった。こうして、石鎚登山は、ほとんど雨らしい雨も降らず、暑すぎず寒すぎず、無事に終わった。
和歌山への帰りは面河を通らず、宿の人にきいた、広くて楽な道というルートを使うことになった。山道大好きの菰池が、T姫の車の運転を買って出た(松原氏や、浅井氏、玉置淳子氏らと信州など、遠出するときは、菰池が運転していた。連続4時間以上ハンドルを握ったこともある)。ギアが脚のそばではなくハンドルの横についているAT車。このタイプに乗るのは初めてだったが、何とかなるだろうと思った。ところが、その広い道に出るまでの林道がくせもので、車2台がようやくすれ違えるかどうかの道幅。そのうえ、ほとんど霧がかかっており、対向車が見づらいのである。2速にシフトダウンしてエンジンブレーキを利かせながら走っていたが、しょっちゅう対向車をよけるために、ドライブやバックに入れることになり、それがまた、操作慣れていないので、思うところのギアに入らない。みかねたT氏が横からギアを入れてあげようと手を伸ばしてくる。こんなことは、生まれて初めてだ。
びっくりして視線がT氏の手に行った瞬間、右から対向車が霧中から飛び出してくるなんてこともあり、前日の秋祭り並みにとてもスリルのある!?ドライブとなった。T氏もT姫も、自分で運転するほうがよっぽどいいと思ったに違いない。こんな山道で、後ろからあおってくるカップルがあり、菰池が道を譲ってあげると、颯爽と飛ばしていった。あまり進まないうちに、ききっと音がした。前方でカップルの車が、左カーブで対向車と危うく接触しかかっていた。道の中央を走ってきた対向車は、スポーツカーで、車幅が広く後ろが見づらい。この対向車のほうが、気を利かせてカーブをバックして道を譲ろうとして、不運なことに、対向車のスポーツカーが後輪を溝に落した。ところが、譲ってもらった若者カップルは、これ幸いに、そそくさとそばを通って去っていってしまった。唖然とする我々。それはないやろう、とT氏。菰池がスポーツカーのそばを通り際に「大丈夫ですか」と声をかけると、低い車高を道にすりながら、なんとか自力で脱出していった。ちなみにその若者カップルはこれに懲りたらしく、その後はあまりスピードを出さなくなった。そのテールランプの後をついて走るのは、霧の中でとても楽になり助かった。
気が付けば、林道は高知県内を走っており、どうやら、ひどく遠回りしているらしい(霧や、通行止めなどのせいで、かなり遠回りしないと帰れなかった)。そのうえ、ようやくたどり着いた南北の広い道は、標識がわかりにくく、どちらに愛媛の西条市があるのか、迷ってしまった。暫く行くと、高度が下がっていることに気づき、さすがに菰池は変だと気づいた。T氏に引き返すと提案。案の定、西条へ抜けるトンネルに出会った。あのまま戻らずに進んでいたら、危うく今日中に和歌山にたどり着けないところであった。途中、T氏に交代してもらうものの、その後も運転を続け、フェリー乗り場についたのは6時半、ぎりぎりだ。この後、フェリーのなかで、浅田真央や安藤のフィギアスケートの放送をじっくり楽しんだ。10月7日のその後。目的地の石鎚山は天気も持ってくれて、楽しい山登りになった。残念なことに、帰りのフェリーの中で、緊急の電話がかかって紀州山友会の事務所に向かうことになってしまった。その事務所では、下山時刻を過ぎても連絡がないと、大騒ぎしているという。しかも、信州で岩を登っているそのグループというのは、県連の救助隊長の義兄らのグループなのだ。各山岳会をまとめ、救助隊を率いる救助隊長がいないため、留守本部はどうしてよいかわからずに、話がだんだんと大きくなって行ったと思われる。
和歌山市にいるのが好都合と、T姫と別れ、9時半ごろ、フェリーを下りたその足でT氏と2人で事務所に向かった。事務所では、男女十数人の会員がかけつけてくれていた。なにやら、張り詰めた雰囲気。いままで実際に、このような招集がかかったことがないのだそうだ。とりあえず、菰池が、現在の状況を知るべく、経過を留守本部(登山計画書には、下山報告を受ける人を、緊急用に一人決めてある)の男性に聞く。山友会から3名と紀峰から3名、計5名が穂高の屏風に登っていて、7日16時が下山予定、19時の最終時刻を過ぎても帰ってこないので、松本署や横尾山荘に、なにか事故や遭難の情報がないか聞いてみたという。これからすぐに信州に行くべきという意見もあったが、菰池が
「本格的なアルプスの登攀では、予定より1日遅れることはよくあること。明日の10時まで待とう」
と提案し、すぐに出発しようとしているのを引き止める。山友会のメンバーが、「誰か、信州に行ってくれる人はないか?」と募集をかけたが、人があまり集まらない。自営業のT氏は、「明日の月曜の祭日は空いているが、平日の火曜日がダメ」と言う。M高校の非常勤講師の菰池は、たまたま火曜日が、学校の行事の代休で休みであったので、そのことを伝えると、信州行きの有力候補に挙がった。菰池が、「現地に向かうまでに数時間かかる。それよりも、今、信州で登山している仲間に携帯で連絡を取り、彼らを見かけたかどうか、情報収集をしてもらう方が早い」と提案した。その場で、行動力のある人が、次々分業していった。穂高にいるはずのメンバーの携帯にかけ続ける人、メンバーの家族に電話をかける人、装備を用意する人、資金を用意する人など。紀峰のT氏にも、すでに涸沢にはいっている重栖氏に現場で情報収集してもらおうと、携帯電話でH氏に連絡を取ってもらう。「家族に電話するのは明日にするか、夜中に聞いたら心配するから」と山友会のメンバーの一人が言う。「そやなあ」「これからはかかってきた電話は、時間と内容をノートに記録しよう」と、菰池。ところが、「記者会見に備えるんか?」「警察に言ったらすぐ記者会見やろ」「まだ、警察に捜索願いは出してない!」。急な召集で集まった人々は、だんだん悪い方に考えるのか、話がすぐにそれて大きくなる。
冷静になってもらうには、まず、飲食して落ち着くのが一番である。近くのコンビニに出かでかけ、差し入れのペットボトルと紙コップを数本購入すると、レシートを山友会の人に手渡し、「これから、購入したものは、別のノートに記入し、レシートを取っておいたほうがよい」と助言する。そして、お茶やジュースを飲んで一服しながら、「全員起きてつめていても仕方が無いので、電話番は交替で行い、時間と内容をノートに記録して、情報を共有し、他のメンバーは休めるときに休むように」とも助言する。和歌山の県連に救助隊ができてから、一度も召集や出動はないが、今回の経験は、組織作りのとてもいい実体験となることだろう。
こうしてもろもろの役割分担、手順が決まった後、明日の7時に事務所集合ということで、夜11時過ぎに一度解散。我々は朝の出発までに下山報告の電話の来ることを祈りつつ、帰宅した。すると、夜中の12時半ごろ、菰池が自宅で信州行きの荷物をつめていた最中に、下山報告の電話があったと留守本部の男性から連絡があった。連休で混んでいて、ルートの順番待ちなどでおそくなったらしい。わざわざ有田まで、この留守本部の男性から電話(救助隊の一員としての連絡)と、義兄と同行している山友会の男性から電話(おそらく、全員にかけるよういわれて、留守本部に救助隊として詰めていたと知らずにかけてくれたのだろう)を、それぞれ下さった。こうして、朝5時に起床して、渓流散策、石鎚山登山、霧の林道恐怖のドライブ、カーフェリー内での浅田真央と安藤のスケート鑑賞、会事務所に緊急招集、信州への荷造り夜中の12時半、、、と長かった一日が終わった。
0 件のコメント:
コメントを投稿