2011年5月28日土曜日

2006年5月20日韓国済州道ハルラ山登山

今回は、再びカナダ人のドーンさんの話、と言いたいところであるが、しばしお待ちいただきたい。タイからカナダへ帰る途中に、日本の和歌山までわざわざ寄ってくれるドーンさん。連絡がないと思ったら、翌日の5月15日にようやく来た。成田についてすぐに乗るはずの高速バスに、乗りそこなったらしい。あわてて、受け入れ準備を始める。まだ、帰国日を決めていないという。おそらく、6月前半まで日本にいるらしい。しかし、我々はすでに他の予定を入れていた。韓国、済州島のハルラ山登山である。沢部のそうさんが音頭をとって、11人もの参加者のあったツアーであった。原さんは登山道の資料を集めたり、尾埜さんはツアー会社を調べ、義兄は格安飛行機を調べる。日程に土日を挟むのがご希望の会社員もいたので、5/20から4日間、大韓航空で行くことが決まった。
済州島は、韓国の南西に位置する香川県ほどの大きさの島で、中心に1950mの休火山、ハルラ山がそびえている。関空からたった1時間半、まるで国内旅行のような近さだ。実際、韓国籍のそうさんにとっては、方言の違いこそあれ、母国語の島へ行くので国内旅行のようなものであるし、我々は親しみある済州に「帰る」といった気分だった。私と義兄は2度目の済州旅行で、前回は信州の友人(元波田町町議と脳性麻痺で車椅子の行田氏)と4人で食い倒れた。そのときに泊まった民宿のおじさん、高明俊氏とは、メル友となっている。さらに大阪の生野区育ちの菰池にとって、済州(チェジュ)は特別なところだ。同級生の何割かが、済州出身の2世や3世だからである。友達付き合いの仕方も、お互いの思うことははっきり言う、けんかして仲良くなっていく感じ。他人と意見や習慣が違うことはさほど悪いことではない。他の小中学校よりもずうっと、多文化が尊重されていたように思う。そして、みんな精神的に大人だった。私がどんなに金持ち風を吹かし、教師の息子と言うことで自己中心的に振舞ったとしても、仲間はずれにすることなく、それなりに付き合ってくれる包容力、度量があった(初めて生野区以外にある府立住吉高校に通ったとき、同じ日本であるのになぜかカルチャーショックを受けた)。田舎に帰省した友達に済州のお土産をもらったり、簡単なハングルを教わったり、学校で朝鮮半島の歴史や歌を習ったり、済州に行ったことはなかったものの、小さい頃から自然に慣れ親しんできた。
その“古き思い出”の済州に、私は20日に降り立った。そのころ、日本は5月とは思えないほどの涼しさだった。ところが、済州はすでに夏だった。さわやかな暑さで、これは山登り日和だと思った。ところが、天気予報は下り坂だという。3日目は雨で登れないかもしれない。2日目に登ろうということで全員一致した。1日目、とりあえず近所の散策、ということで、宿のホテル周辺や市場を見て回った。魚市場は、和歌山の黒潮市場を思わせる、太刀魚の並んだ風景。名物のあわびもたくさん見られる。食料品の市場は、まるで生野区の鶴橋を大きくしたよう。どちらも活気があって、お客さんでにぎわっている。市場を掃除するにいちゃんが、店のおばちゃんたちに「うわあ、むっちゃひさしぶりやなあ」と言って周りのおばちゃんらを笑わせていた。おそらく、昨日かあるいはさっき来たばかりなのに、冗談で言っているのだろう。大声でわっはっはとわらうおばちゃんは、まるで「大阪のおばちゃん」みたいで親しみがわく。前回、済州に来たときも、ゲートボールをするおばちゃんたちの笑い声に驚いたものだった。日本では、ゲートボールというと勝ちたい一心で怒鳴り散らすイメージがあるが、済州では敵も味方もみんなニコニコ、お互いのプレーに大笑いしながら楽しくやっている。
元銀行役員のそうさんの通訳に、快適な気候についつい名所をめぐっていくうちに、われわれはすっかりくたびれてしまった。明日に備えて寝よう!と思ったら、宿はオンドル部屋。5月というのに床暖房だ。頭が暖まって寝れなくなる人も続出。さらに共同の風呂、トイレ、洗面でおおぜい雑魚寝。まだ初日というのにわれわれの疲労は早やピークになった。
翌日、ハルラ山に登るためにタクシーをチャーターした。誰がどのタクシーに乗るかで時間がかかった。3台のタクシーのうち、日本語が話せる運転手は一人きり。ハングルの出来るそうさんが残り2台のどちらかのタクシーに乗ることになった。ホテルとタクシーの運ちゃんのお勧めで、ツツジの美しいコースを登ることになった。当初の岩場のコースは標高差1500mだったが、ツツジのコースは1000mほど。私は術後初の登山にわくわくだった。普通の観光よりも地元の人と交流できるところが登山のいいところだ。気候のよい土日ということもあり、登山道は半島からの旅行者で数珠繋ぎだった。お年寄りや子どもも多かった。途中で、果物やきゅうりなどをくれる人もあった。道はきれいに整備され、枕木が階段状に積まれていて、サンダルでも登れそうな感じだった。まるで、上高地の河童橋周辺のようだ。本格的にザックを担いでいったわれわれは、少し浮いていた。
肝心のツツジはまだまだで、ただの枯れ木野原だったが、かわりに、開山祭のようなお祭りを見ることができた。伝統的な衣装に身を包み、踊ったり、お茶をたてたり、山の神にお供えしたりする。まるで、NHKのドラマ、「チャングムの誓い」の世界だった。くだりも人の列について歩くばかり。結局、岩登りらしいところはなく、普段、けわしい山に登りなれている面々には少し物足りないものになった。「まだ、歩くのに余裕がある!」私は、ひざの回復に自身が持てて、満足だった。下山してから、竹平さんらと近くのサウナに行ってきた。サウナといっても、いろいろな温度の蒸し風呂、石の風呂、砂の風呂などがあり、老若男女、服を着たまま家族皆いっしょに楽しめるところだ。この日の夜は、オンドルを切ってもらったので、みんな眠りやすかったようだ。サウナでうたた寝し、湯冷めした私はちょっと寒い夜になった。
3日目、もう一度登山したい人と観光したい人と、それぞれ別行動の予定だったが、やはり雨の心配があると言うこと、さらに3日目の宿がまだ決まっていないなどの理由から、結局、全員で観光することに決まった。 “12時”にある済州市を出発し、島を時計回りに東側を観光する。そして、“6時”の位置にある西帰浦(ソギポ)市に泊まるのだ。洞窟やカルデラなど、火山地形を堪能したり、ドラマや映画のロケ地をめぐったりする。そうさんの通訳のお陰で、普通のツアーでは出来ない細やかな心遣いの旅となった。途中、突風と大粒の雨に見舞われたが、観光を満喫できた。夕方になり、前回に泊まった民宿のおじさんのところに寄った。メールも電話もつながらず、なんだかいやな予感がしていた。近所の人に聞くと、家族が入院して、しばらく帰ってきていないと言う。それも、済州市にいると言う。入れ違いだ。もう、会うのは無理かもしれない。置手紙をし、別の宿を探そう、そう思ったとき、一台の車が止まった。助手席にあの、民宿のおじさんが乗っていた。偶然にもわれわれは、10日間の入院から退院してきたところに出くわしたのだ。まるで、約束をしていたかのように!映画のような、涙の再会だった。おばさんの腰が悪く、入院していたらしく、二人ともお元気そうだった。われわれ11人は、おじさんの民宿に泊まることになった。今度は、3部屋取ってもらったので女性が2部屋使わせてもらい、広かった。ただ、青唐辛子を丸呑みした竹平さんの体調がどんどん悪化していて、とても苦しそうだった。無事に日本に帰れるか、皆、今度はそちらが気がかりだった。
4日目、最後の日。上野さんの看病の甲斐あって、竹平さんの体調は持ち直してきたようだった。がんばって皆と島の西側の観光に行くという。有限会社の私と義兄は、同じくみかん仲間である民宿のおじさんの畑を見せてもらいに、べつ行動をとることにした。民宿のおじさんは、もと高校の英語教諭で、定年後に済州で温州みかんをつくっている。メールでも農薬のやり方だの、熱心に質問がある。まず、おじさんのご自慢のみかん畑を見に行った。除草剤を使わず、牧草(なぎなたがや)が一面に生えている。花の季節だが、花がほとんどない。聞くと、去年の豪雪で収穫が出来ず、生らせっぱなしにしていたと言う。果実は傷んでジュースにしかならなかった。さらに木からはいっせいに新芽が吹いた(みかんは、2年目以降の枝に花芽がつき、実がなる。1年目の枝は葉のみ)。だから今年は新芽に負けて花がつかないのだ。この様子では、今年の収穫も期待できないだろう。2年連続の凶作では、おじさんの手間賃は出るのだろうか、心配になった。Aコープのようなスーパーや、共同選果場も見せてもらった。セトカという、赤くて清美よりも甘い品種が、箱詰めされていた。農業視察のようで、とても面白い体験だった。おじさんは、本当は農業よりも済州がいかに発展しているかなど、都市化の部分を見てほしかったようだ。西帰浦市(そぎぽし)と有田市と、どちらが大きいかと聞くので、「(和歌山県の)有田市にはこんなにたくさんホテルが建っていない、西帰浦のほうが大きい」と答えておいた。実際、西帰浦市周辺の一部は大手のホテルや観光施設が並び、ハワイのようにリゾート化している。かつてサミットが開かれたのもおじさんの自慢だ。2002年には、サッカーのワールドカップが開催され、大きなスタジアムもある。古くは朝鮮半島の人々から差別され、日本占領後、戦争後は日本人から差別されてきた済州の人の、誇りのよりどころは美しい自然でなく、こうした“はこもの”だ。ガラス張りのコンベンションセンターは、国際会議が開かれるよりも、観光客へのアピールといった要素が強いようだ。「ここは、あなたがたの第二の故郷です」おじさんが言う。親切なおじさん夫婦が住んでいる限り、巨大ビルはなくても私にとっては済州は自慢の“故郷(コヒャン)”だ。出来るだけ多くの人々に訪れてほしいところだ。
夕方、観光グループと合流。みんな、名所に買い物に時間がたつのがあっという間だったようだ。帰国すると、体重が増えていた。焼肉、さしみがしっかり身に付いたようだ(筋肉になってくれたはずである)。柔道はやりやすくなった。ふふっ!

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