2011年5月28日土曜日

2006年6月カナダ人ドーンの帰国

今度こそ、カナダ人のドーンさんのはなしである。柔道をしつつ、有田でお世話になった大勢の人々と再会するのが彼女の目的だ。彼女は、タイでの人間関係(同僚の女性に嫌われていた)に疲れきっていた。その1年前の20041226日に、彼女がリーダーでALTがタイ旅行に行った際、地震と津波があり、そのときにまつわる諸々のことも彼女の心に影を落としていた。そして、タイのボランティアの後、西洋人ばかりが集まって出かけたプチ旅行にも疲れていた(タイからカナダへ帰国する途中に、パプアニューギニアと日本に寄った)。パプアニューギニアそのものはとても楽しいところで、現地の方もいい人たちばかりだったらしいが、一度に大勢と付き合って人疲れしてしまったらしい。息せき切ったようにしゃべるかと思えば、「タイでの私、変だったでしょう?ごめんね」と落ち込むなど、心身ともに思わしくないようだった。我々は、出来るだけドーンさんを静かに見守った。折りしも、近所のピアニストの女性、かおりちゃんと、フレンチかイタリアンのコースを2人だけで(私のおごりで)食べに行く予定であったが、「来月来るはずの外国人が急に来たから、申し訳ないが3人で食事でもよいか?」と彼女に尋ねたところ、「知らない人に気を使うから止めておく」と言われ、落胆のあまり、ドーンと食べに行くこともあきらめ、家で簡素な食事を取った。2回ほど一緒に温泉に連れて行った後、韓国、済州島のハルラ山登山に旅立っていった。その間は、我らが“離れ”を気楽にコンドミニアムのように借り切って自炊しているはずであった。ところが、帰国してみると、疲れがどっと出たのであろう。風邪をこじらしてひっくり返っていた。その間すべて、有限会社の社長が面倒を見てくれていた。
帰国すぐに熊野古道、海南―宮原間を歩く予定だった。菰池は済州から帰国したてで疲れていたし、彼女も病み上がりだった。古道歩きは中止して、かわりに社長の勧めで「和歌浦のお茶会」に出ることになった。ドーンさんは社長にとても恩義を感じ、まるで親子のように信頼していたので、「お母さんに喜んでもらおう!」とおお張り切りだった。社長も、かわいいドーンさんのために、おしゃれなサンダルをプレゼントすることにした。というのも、登山用の大きなトレッキングシューズしか持ち合わせていなかったからである。いくら外国人とはいえ、着物で正装している人が多い中、ドタ靴では笑われる。日本語ぺらぺらのドーンさんは、お茶会では人気の的だった。つぎつぎと和歌山県のお茶界のおえらがたが挨拶にみえ、にこやかに会話する様子は、まるで、カナダから来た“大使”のようだった。
殿様が使ったという茶碗を見せてもらった。茶碗へ、亀が3匹と殿様自身が描かれていることなど、詳しい説明をしてもらえるのも、ドーンさんとくっついていたご利益だ。日本らしいお庭でたくさん写真を撮った。なぜかドーンさんは着物女性の後姿ばかりを好んで撮った。本人は、帯の柄だけを撮りたかったらしいが、モデルの女性陣は、自分の顔が写らないので怪訝そうだった。後日、柔道の練習で、「ドーンさんはお茶会で“カナダ大使”だった」と言うと、真顔で「ドーンさんのお父さんは知事なのか、市長なのか」ときく人があり、勘違いに気づくまで私は、知事や市長に相当する英単語を思い出そうとして、必死になってしまった(後で大笑いした)。
人気ぶりは近所でも発揮された。近所の50代の○さん(ニックネームはネコちゃんcatman)は娘くらいの年のドーンさんに酒の飲み比べを申し込んだ。しかし、2戦とも彼女の勝ちであった。日本に来るまでビールが嫌いで、学生時代はあまりお酒を飲まなかった彼女も、酒好きの我々のお陰で、すっかり日本酒と焼酎のファンになっていた。しかも、ドイツ系の強い肝臓のため、鍛えるほど強くなっていたのだ。負けた○さんは、「かわいいドーンちゃん」のためにイカを釣って来て、自ら目の前でさしみやてんぷらにして振舞ってくれた。ドーンさんも、手作りクッキーでお返しした。
もちろん柔道も、週に3回、6時半から10時まで練習し、まるで柔道を仕事にしているようででかけていた。新しく入った小さな子ども達ともすぐに仲良くなった。ドーンさんと滝川柔道場に久しぶりに行くと、私のことを忘れてしまった道場の子どもたちに聞かれたものである。「あなたは何人(なにじん)?」「日本語うまいね」ドーンさんの流暢な有田弁に惑わされ、2人とも外国人と勘違いしているのだ。確かに、外国人の片言日本語の域をすでに超えていた。そして、一ヶ月のうちに私はそのたどたどしいしゃべり方を、かなりうつされたんだと思う。
その後、ドーンさんは帰国を612日に決めた。自分の誕生日を日本とカナダで2回祝おうという魂胆。まだまだ、誕生日がうれしいお年頃らしい。そして和歌山は、66日にたつことになった。その1週間前、私達は一緒に熊野古道を歩いたり、龍神温泉にキャンプに出かけたりした。龍神はちょうど蛍が見頃で、静かな山道を月明かりの中、2人で一緒に散歩するのはなかなか“おつ”であった。日本に来るまで、歌も彼女の苦手のひとつだった。自分は下手と思い込んでいて、あまり人前で歌おうとしていなかっただけなのだろう。お気に入りのアメイジング・グレースを繰り返し歌ううちに、歌がみるみる上手になっていった。カナダにいたころの彼女は、内向的で失敗を恐れて積極的にはチャレンジしない性格だったようだ。日本に来て、音痴と方向音痴が直り、酒に強くなり、明るく社交的に変身した。きっと、カナダのご両親とお友達は、彼女の変身ぶりに驚くことだろう。
最後の日、お好み焼き屋へみんなで出かけた。私たち家族4人のほか、一番の仲良しの2人、そして湯浅の近所の“おばあちゃん”2人もかけつけてくれていた。仲良し2人組は、手作りのアルバムをプレゼントしていた。3週間の日本の思い出がぎっしり詰まっている。おばあちゃんたちは、和風の巾着をプレゼントした。そういえば、前回の日本訪問のときも、浴衣を2着もらったり、いろいろ持ち帰れないほどもらっていた。皆がドーンさんに好意を抱いていた。ところが、私達はといえば、何も用意していなかった。誕生日が近づいていることを知っていながら、少々白状だったかもしれない。宿と食事を提供しているからいいや(事実、毎日魚を大量に買い込んだため、定期預金の100万円を解約して、食費や交際費にあてていた)と、記念に残る物を何も考えていなかったことを後悔した。お好み焼きを食べたその足で、和歌山駅まで行き、東京行きの夜行バスを待った。ドーンさんが空港行きのバスを見るなり、真剣な顔で私と義兄にハグをし、お別れの言葉をいった。さあ、乗り込もうとするので、そのバスは違うよというと、顔を真っ赤にして散歩に出かけてしまった。最後まで、おっちょこちょいでサザエさんのような人だ。本物のバスが来て、彼女はもうお別れは言ったからと、だまって乗り込んでいった。おもちゃ箱をひっくり返したような彼女との生活(毎晩2時や3時まで飲み明かした日々。実際、彼女が居候した部屋は、足の踏み場もないほどだった!)が、ゆっくりと去っていく。落ち着いた日常が戻ってくることが信じられない。ドーンと相思相愛になった義兄は、この3週間で英語がぺらぺらになっていた。私はといえば、説明のために日本語と柔道が上達した気がする。彼女が滝川柔道場にもたらしたものは、計り知れない。孫のような彼女の帰国を一番悲しがっているのは、きっとそう。滝川先生に間違いない。    

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