またまた柔道のお話。全国大会に行ってきた5年生の女の子の結果である。小学生の体重別個人戦で優勝し、和歌山代表で四国に行った彼女は、長野代表と佐賀代表とリーグ戦で戦った。そして結果は1勝1敗。惜しくも決勝リーグに進出ならなかったものの、滝川道場の力を全国に示してきたのだった。すごいぞ滝川柔道場!しかし四国から戻ってこられた先生は、意外にも皆の前で「負けたのは先生の教え方のせいかもしれない」と謙虚なコメントであった。理想の師匠としては当たり前の態度と言ってしまえばそれまでだが、今の時代なら、自分に非があっても逆切れ!ひらきなおって言ったもの勝ちといった風潮。「こんな負けかたして、おまえらもっと練習せんか!」とすべて子ども達のせいにもできるのに、あるいはようやった、1勝したのはワイのお陰やと恩を売ることもできるのに、したでに出たら、子供や保護者になめられるといばる大人の多い中、それをなさろうとしない姿勢に打たれた。最近、なかなか目にすることがないだけに、あまりに自然になさる姿にどきっとする。
さらに先生は、柔道精神について、あらためてお話された。それはここでは詳しくは書き切れないが、要約すると、相手への思いやりだ。行動を起こす前にいろいろよく考えること。人生は自分の思い通りにならないこともあるが、だからといって他人を傷つける子どもにはなって欲しくないとおっしゃった。趣味にもいろいろあり、伝統芸能や伝統スポーツにおいては、ただ技術を極めるだけではダメな部分が大きい。柔道の先生と言うのは、学校の先生や企業の上司のようなリーダーシップに加えて、倫理的に正しい、お坊さんのような尊敬されるに値する行いが求められているのかもしれない。そして、それは道場の先生になると急に身につけるものではなく、小さな子どものころから、柔道を通じて学ぶものなのであろう。確かに、武術というのは、本来は戦い方の練習をしているわけで、他人を襲う動作を、仲間内で怪我せずにいかに身につけるかという矛盾にみちたスポーツだ。自分と相手をよく知り、相手が怪我しないように気遣いながらする練習。リーダーとはどうあるべきかと言うことを、自然と学んでいるのではないか。つまり登山のリーダーにも、通じるところは大きいであろう。経験や知識プラス人柄が、メンバーから尊敬され慕われるようなリーダー。メンバーの力量を見破り、ベテランは新人をひき立て、若者は年配者をいたわり、危険な状況でも互いの協力によって安全に努める。他のメンバーや他のグループに迷惑をかけないよういたわりあう気持ちは、山の世界でも通じるのではないか。柔道も山も未熟な私だが、互いのあるべき姿はみえるようなきがする。
滝川先生がこのように子ども達に語りかけるのは、この数年のうちに2人も若者を失ったからだと言う(ひとりは荒れた波を見に行ってさらわれ、一人はバイク事故で)。その若者たちに、こんなことも言っておきたかった、あんなこともしてやりたかったと言う思いが、今の子ども達への思いと重なっているのだろう。説教を聞く子どもらの多くは、今すぐ先生の言葉の意味はわからないかもしれないが、きっと、近い将来、その言葉に支えられたり、救われることがあるにちがいない。そのとき、亡くなった若者らの尊い命は後輩に生かされ、先生の思いは結ぶのだろう。
学校の先生が、道場の先生のように、人の生き方というものを身をもって教えることができたならば、どんなにすばらしいことかと思う。それを妨げているのは何なのであろうか。教師のリーダーシップは、企業の上下関係とは違うと聞いたことがある。一般の世界では、黒いものを白といってたとしても、白として全員が従うのが正しい人間関係だが、教師の場合は白は白、黒は黒として生徒に教えなければならない。平等、真実を追究するのが教室での正しい人間関係だとしたら、それをそのまま社会に持ち込むと、杓子定規な人、人の和を乱す人ということになってしまう。実際子ども達が社会性を磨くのは、同級生との会話だとか、クラブでの人間関係のほうが多いことだろう。授業中ではないのではないか。
いろいろな地域社会、家庭環境で育った子ども達に、社会の普遍的なルール、いろいろな価値観や家族観を学んでもらうのが、「学校」だと私は思っている(知識を詰め込むのは、その手段である。語彙や知識がないと、自分で考えたり他人に考えを語るすべを持たなくなってしまう。数学を学ぶのは数学的思考の訓練、理科は人間を含めた自然の摂理を、英語は英語圏など異文化の考え方を理解するためでもあるのではないか)。それには、先生は同質である必要はないと思う。独身の先生、子どものいる先生、孫のいる先生、離婚や再婚経験のある先生、教育学部を出た先生、会社勤めをした事のある先生、自営業の経験のある先生、いろいろな先生がいるほうがいい。お坊さんとか道場の先生と違って、もっともっと人間くさい、考えの偏った人が集まって自分はこう思うといろいろ述べたほうが、子ども達の刺激になると思う。もちろん、生徒も、いろいろな家庭環境の生徒がいたほうがいいと思う。
農家や漁師の子どもも、大会社の重役の子どもも、親子2人暮らしの子どもも、大家族の子どもも、両親が外国人の子どもも、いろいろいたほうがいい。そんな異質の人間の集まる学校の平等と言うのは、どんな宗教からも干渉されず、親の地位職業にかかわりなく学べることが平等であり、決して先生と生徒の立場が平等であると言う意味ではないと思う。先生が子どもに生き方を教えにくい理由は、教師側に時間がない、余裕がないといったこと以外に、先生はお坊さんのように道徳的に正しく同質であるべきだという周りからの圧力、「対等な」先生から家庭の問題を干渉されるようなきがして、説教めいた言葉に子どもが(実際は保護者が)反発してしまうことにあるのではないか。さらに、調子のよくお世辞のうまい子どもは増えたが、相槌のうまい「聞き上手」な子どもが減ったためではないか(道場の子ども達は、聞き上手である)。
家庭も学校も、完成された理想を実現したとすると、それは本当に人間にとっていいものなのだろうかと思うことがある。仏様のように、いつもにこにこして子どもが何をしてもまったく心を乱さない親や教師がいたとしたら、本当にそれで子どものためになるのだろうか。あるいは、そんな仏様のような夫は妻にとって、妻は夫にとって本当によき伴侶であるのだろうか。むしろ、家族の一挙一動を心配し、感情に任せてあるときは泣き、あるときは怒るのが、人間らしいのではなかろうか。いかがなものであろう、ご感想をお聞かせ願いたい。
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