新聞によると、最近の日本の子どもたちは出世欲がないそうである。人を蹴落としてまでがんばりたくないというのは正常な感覚の気もする。しかし一方で、あの山を登ってみたいとか上達したいとか、しんどい思いをするのを嫌うのは子どもながら“年寄り”くさく、寂しい気もする。紀峰山の会や他の山岳会では、年々体力が低下して登りたいところに行けないと嘆く声がきかれるが、今の多くの若者たちよりも、上達したいという欲があり、山登りをする体力と根性がある“お若い方”が多いように思う。
知り合いがこんなことを書いていた。「学習塾をしているが、ほとんどの子どもが人に言われたから(しかたなしに)来ている……新しい課題を与えると、成績の上位の子供でも、問題を読まずに、わかりませんと頼ってくる……1時間あまりの時間でさえ集中できない子どもが多い」などである。私も同感だ。子どもたちは忙しすぎて自分でじっくり考える時間がない。原因とその結果をよくかみしめるまもなく(日ごろ考えたこともないので、どれが「原因」でどれがその「結果」かを混同してしまう子も少なくない。よって、反省も精神的成長もできない)、親切な大人が手順と答えを用意してしまう。なにかに疑問を持った“正常な”子どもがいても、先生に質問するような目立つ行為はひんしゅくを買い、友達にいじめられる(だから、人前では不真面目を演じ、努力するなら影でこっそりするようになる。友達には気を使い、神経をすり減らし、大人の前でたまったストレスを発散、暴言を吐いて気ままに振舞う子どももいる)。植木ひとしの演じるような、“口から先に生まれた無責任男”のほうが、「普通の人」の世の中だ。子どもは大人を映す鏡だとよく義兄言うが、そのとおりだ。
だが、幸いなことに、こんな子どもたちが増えているのも本当なら、課題にじっくり取り組み、人より上手になろうと努力を惜しまない子ども達が今なおいるのも本当である。そう、われらが滝川道場にはイノシシどもが何匹もいるのだ。練習でも、猛烈に突進していく子ども、大人相手でも真剣に投げようとかかっていく子ども達。どうやったら勝てるか自分の頭で考え、さらに技を磨こうと、日々努力を惜しまない。以前の道場なら、たらたらと練習していた子どもが多かった。試合でもたんたんとして、有田の気質かなあなんて勝手なことを日記に書いたものだった。今、その言葉を否定しなくてはならない。近頃の道場は、以前に増して活気がある。彼らの上達はおもいのほか速い。この子たちが茶帯になったら、さらに黒帯になったら、どんなにいい選手になることだろう。楽しみだ。そう思うと、自分の柔道はさておいて、そばで見守っていたくなるのだった。
思い返せばこの2年、柔道にできるだけはやく復帰しようとかなり力んでいた。3年のブランクということが頭の隅にこびりついていた。いまさら2年も3年も、よく考えれば変わらないのだ。元通りに完全復活しなくったって、新しい自分になればいいのだ。小さいころからしていたわけでないから、何十歳で再開しようが、たいしたことはないのだった。失われた貴重な試合勘や、大学生にも負けない体力は、もはや元には戻らないが、、、今のところ、茶帯や黒帯と普通に練習できる。ぼちぼちと、でもじわじわと練習するぞ!いつの日か、一生を振り返って、私は一生懸命に生きていて良かったと思うのだ。たとえ、自分自身は出世もせず、1番になれなくてもいいじゃん。私が存在したために、私のムキになる性格が刺激となって、周りの誰かがすごいことを成し遂げてくれたら、十分に存在価値があるじゃないか。この復活日記などを読んで、何ぞ成し遂げてくれたらうれしい。踏み台にでもなんでも使ってくれ!というひらきなおった感じだ。
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