一昨年の10月に、四国お遍路に行ったが、続きをこの4月に行くことになった。今度は高知県だ。祖母のふるさとであり、徳島の寺のちょうど続きということもあり、とても楽しみである。前回は車で手探りの一人旅。今度は町内の「大師講」という団体のツアーで、本格真っ白装束。せっかくであるので、普段も着れそうな白ジャージや白トレーナーを買うべく、大阪の某格安チェーン店と、泉南のアウトレットモールに出かけ、上から下までそろえた。職場のスーツの下に合う白セーターやフリースを買ってしまったため、ついつい授業で着ていってしまい、すでに着古した状態である。当日、本当に真っ白のままであるのか、多少、不安になってきた。お遍路ツアーはもちろん観光バス。寺ごとの“ハンコ”も係りの人がもらってきてくれる。楽チン旅行のかわり、寝食すべてが修行。お作法を一から教えていただき、般若心経だけでなく本格的にさまざまなお経を唱えることとなる。1月20日に顔合わせがてら集会に参加したところ、大歓迎を受けてしまった。優しそうな方ばかりで、居心地がよさそうなのがとても気に入った。お遍路にも年代の流行があるようで、60歳前後の人はすでに四国を一周してしまっているのでかえってツアーの参加が少なく、まわり始めた50歳前後とベテラン70-80歳の女性が多い感じである。
あらためて思うのが、合唱や登山。50、60代の方が多いのは何故だろうか。人口比率が大きい、子育てが終わって時間の取れる人が多い、という説のほかに、戦後の合唱、登山ブームのためだという説もある。安くて皆で楽しめるため、学校の授業でも合唱、趣味でも合唱。週末はお弁当を持って近くの山へハイキングというのが、流行っていたというのだ。その世代の人たちが、昔懐かしく、山や音楽へ帰ってきているのではないかという。もし、その説が正しければ、今の40代の人はグループサウンド世代、少人数のフォークやロックバンド。30代では、ブラスバンドなど、多人数のバンド。スポーツは男子は野球、女子はバレーの時代が過ぎ、多様化しつつある世代。こぞって合唱や登山をしに入会してくれそうな気配はない。それでも、まだ、希望がある。いまの孫世代を、ハイキングや合唱へ連れ出すのだ。殺伐とした子ども同士の関係を離れ、大人の中で伸び伸びと自分らしく過ごす。小さな頃の楽しい思い出が、大人になってから入会を促してくれることだろう。さあ、ターゲットは運動不足の保育園児や小学生。お菓子やジュースを持って、トトロの「歩こう、歩こう、私は、元気~……」などの音楽をかけつつ歩いたり、ちょっとした岩場を忍者ごっこ、探検ごっこと称して登ったり、水遊びがてら沢に行くと面白がってくれそうだ。学校の体育、音楽の成績が上がります。お受験に備えて体力をつけませんか?クラシックで情操教育はいかがでしょうか?20代~40代の親もついでに会員になってくれるかも!?そうなると、子ども部でなく、親子部をつくれるだろう。紀峰の仲間に、子どもさんの絵や作文が載るのもいい。さあ、いざ勧誘だ!
おっとっと、お遍路のお話にもどらねば。前夜発、4泊4日の旅は、深夜12時半に始まった。それは、まだ肌寒い3月31日。Tシャツにタートルネック、セーターにヤッケを着込み、最後にはっぴのような白衣「おいずる」を羽織る。有限会社社長に借りた肩掛けかばん(山谷袋)を斜交いにかけ、小さなキャスターつき旅行かばんを後ろに引きずり、義兄に付き添われながら5分前に集合場所につくと、すでに女性2人が寒そうに震えながら立っていた。暗闇ながら、2人が持っている杖が目に入った。しまった、金剛杖だ!忘れないよう、2週間も前から玄関に立てかけてあった。日常風景と化してしまったらしい。玄関においてきてしまった。「すみません、すぐ戻ります!」とその場に荷物を置き、走って取りに帰る。杖を手に集合場所に戻ると、もうバスが待っていた。出発早々迷惑をかけてしまった。謝りつつ、26人乗りのマイクロバスに乗り込む。マイクロといっても、普通の観光バス並みの広さで、とてもゆったりとしていて居心地がよい。1日の疲れも手伝い、座席についたとたん、すぐにうとうとし始めた。すると、横に座ったHさんがつっつく。Hさんというのは同じ集落の方で、初心者の私にいろいろ教えるよう周りから仰せつかった先輩だ。そのHさんが、(心経を唱える)準備をするようにと教えてくれているのだ。深夜の1時半、全身白装束の集団23人がもくもくと唱える(普段なら、その異様さに驚く風景)。バスに乗り込んだ瞬間から、そこはすでに現代日本ではなく、時空を超えた巡礼の旅の中にいることを、しっかり区切りをつけるための“導入”なのだった。案内人は先達さんたちだ。
またもやHさんのつっつきで目が覚めると、もはや明るい朝であった。バスは大阪湾をぐるりと廻って淡路を抜け、徳島の海岸を南下し、道の駅「宍喰(ししくい)温泉」に停まっていた。東には伊勢志摩のような風景が広がり、緑の島々と青い海と道路わきの桜が美しかった。顔を洗いに洗面所へ向かい、朝日を浴びながら取りとめのないことを語り合う人々。その先、室戸岬までの道中は天気もよく、眺めがよい。アザラシにとびうお、とんびにウグイス、動物たちも春を謳歌している。わくわくする気持ちが高まっていった。しかし、我々はお遍路。ただの旅行気分ではいけないのであった。門で一礼し、仁王さん方に左右真ん中と3礼し、水汲み場で手と口を清める、、、橋の上で杖をついてはいけない、、、とお作法はいろいろあって、とても一度では覚えきれないので、見よう見まねすることに決める。岬の上のほうに最初の寺、24番最御崎寺があった。お寺ごとに本堂と太子堂の2箇所で、お線香を立てたり、ろうそくに火をともしたり、名前と願い事を書いた「納札(おさめふだ)」という長く白い紙を箱に入れたりする。大勢なので、空いているところへ蜂の群がるように押し寄せて、大急ぎですませると、全員でそこの菩薩なり、如来なりにあわせた言葉を3回唱え、般若心経を3回唱え、それを2セットするとようやく一つの寺が終わりである。それをその日1日で8つの寺で行ったのだった。巡礼は思いの他体力の要る旅なのだ。
27番の寺は、亡き祖母のふるさとの近くで、数年前に父と祖母と3人でお参りした、思い出の地である。町内の「賢大師講」という団体のツアーで訪れた祖母のふるさと高知県。気候も言葉も和歌山に近く、海の幸が豊富だ。180度太平洋の室戸、足摺岬、ナスのハウスの広がる平野、田植えの終わった田んぼ、、、今はかつおと桜の盛りで、絶好の行楽日和。そこで花見酒もなく、博物館や見学もなく、ひたすら祈るお遍路の旅である。
高知市の東で室戸岬との間、祖母の思い出の寺、神峯寺は安芸市近くの山頂にある。道が狭いため、タクシーに乗り換えて向かう。庭のきれいな境内。高く長い石段。右手の湧き水。どれも懐かしい。心臓の悪い祖母が参りたい一心で登ったあの石段を、今度は20人以上の団体でぞろぞろと登る。ガイド兼運転手の2人は、一部の先達さんとともに「納経所」と呼ばれるところに向かい、皆から預かった荷物に寺のスタンプを押してもらう。スタンプを押すところは、「納経帳」と呼ばれるスタンプラリー帳だったり、あるいはお棺に入れてもらうときに着る白い着物、または、床の間に飾る掛け軸だったりする。寺の人が判を押しやすいように、本をひろげたり、着物をたたみなおしたり、とても忙しく大変な役目だ。うっかり紛失しようものなら、お詫びしようにも、同じものを2度と買うことのできないのだ。神峯をタクシーで降り、マイクロバスの中で昼食となる。バスから見上げると、歩き応えのありそうな急斜面の中腹にピンクのさくらの塊があった。同じ集落のHさんが、土産屋で寺のパンフレットがもらえると教えてくれた。店の中を探すがない。店の人に言うと、レジの後ろからごそごそと出してくれた。どうも、買い物をした人だけにわたすらしい。
申し訳なく思い、手近のお茶を購入し、バスに戻る。暑い上にお経を唱えるので、とても喉が渇く。しだれ桜の国分寺にみとれつつ、今日の最後、竹林寺でインドの仏像を拝む。そばの注釈に、仏陀の生い立ちが書かれていた。しげしげと眺めていると、寺の僧侶がそばに来て、説明してくださった。インドからわざわざ複製を取り寄せたそうだ。悟りを開いて初めて説法を説く若い仏陀の姿だ。中国をへた馴染み深い顔ではなくエキゾチックでしょう?と僧侶。表情も着物も写実的である。また、イランの宮廷画のように優美でもある。その夜、桂浜の宿では、お釈迦さんの話で盛り上がった。これもまた、普通の旅ではありえないシチュエーションであった。
4月2日、次々と厳粛に参る寺が続く。手描きの天井絵のきれいな寺やご本尊が5つもある寺など、変化がありみていてあきがこない。32番の禅師峰寺は石段が不ぞろいの自然の石でできており、登るのに注意が要った。青龍寺近くの食事どころで豪華な昼食をいただく。おいしくあいそもよく、また、いつかいきたいと思ったが、肝心の店の名前を写しそびれたのが残念でならない。道中は、個人の勝手な行動が許されないため、立ち止まってメモをとることもままならないのである。やがて、宿坊にとまる最後の寺にやってきた。日もくれかかった夕方、清める水汲み場がすぐに見つけにくい寺で、その日最後のお勤めをしていると、とんとんと背中を叩く人がいる。ガイドさんだ。外国人とご住職の会話の、通訳をしてほしいという。立派な身なりのご住職がそばにこられて言うのに、「コロンビアとかの女性で、片言の英語がよく通じない。ここはただで泊まれる。お金は要らないと伝えてくれ。それから、なにもないが、ふとんはあるとも言ってくれ」とのことだった。事情はよくわからなかったが、案内された納屋のようなところに行くと、小柄で身なりのよい女性が、畳の上で泣き臥せっていた。「ハロー」と声をかけると、大粒の涙をつぎつぎと流しながら顔を上げた。褐色の肌をした20歳前後の娘。インド系のような感じ。だいじょうぶ?どうしてほしい?ときくと、「わたしは歩き疲れただけ。宿を断られつづけてここまできた。心配しないようにと彼に伝えて欲しい」のようなことを流暢な英語でいう。先ほど頼まれた住職の言葉をそのまま伝えると。「わかった。ところでシャワーが使いたい。トイレはどこですか?」ときく。そばに立っていた住職はトイレは建物のそば(数十メートル先)にあるが、シャワーはないと答える。もちろん、宿坊の中にはトイレも風呂もあり、宿泊者には食事も出るのであるが、素泊まりの彼女には出さないということか。彼女はがっかりした様子で再び泣き臥せってしまった。たくさん歩いて汗をかいているだろうに。部屋はさみしく、とても寒そうだった。「私は近くの建物にとまっているから」と言い残して荷物を置きに宿坊へ入ったが、後で心配になり戻ってみると、「ARIGSTO」という置手紙とともにキャンディが5~6個残されていた。まだ、遠くにいっていないはず。すぐに追いかけると、リュックを背負い遍路傘をかぶった彼女に追いついた。「寒いし、シャワーを浴びたいので、旅館を探す」という。もう、あたりは暗くなり始めていた。近くの町まで十数キロはあるだろう。そこまでついていこうかというと、大丈夫という。大丈夫といいながら、その両目からは相変わらず涙があふれて止まらない状態であった。もし、見つからないときは戻ってくるようにといって、別れた。ツアーでなければ、一緒に民宿まで行って言い添えてあげられるのに、勝手な行動ができない身分がつらかった。
宿坊に戻り、食堂に案内されると、絶句した。寺とは思えない豪勢さ。刺身が山盛りのさわち料理。揚げ物にすしにと、豪華なご馳走がこれでもかと並んでいる。お遍路の作法どおり、それぞれが皿のひとつにお大師様にお供えをと自分の分をわけてよそい、それからいただく。食べても食べても無くならない料理。結局、4~5人分もの料理が余った。彼女の泣き崩れる姿が脳裏に焼きついているだけに、むなしくなった。ああ、この料理を彼女に分けてあげられたならどんなに心が楽になれたことか。大部屋に布団を20個並べて眠るとき、この中に彼女一人くらい泊めてあげることができたのではと思うと、へたくそな通訳が悔やまれた。我々のすぐそばで、同じお遍路の彼女は、ひとりさみしく、宿も見つからずにこごえているかも。ご住職とどんな行き違いが生じてしまったのかわからない。ご住職は、“文無し”で軒先でもとすがってきた彼女に布団を差し出したおつもりだった。あとでおにぎりの差し入れまで持って行かれたが、入れ違いだったそうだ。彼女のほうは、私はお金を持っている、ちゃんと支払いたいと2度も私に訴えながら、おにぎりが来るまで待てずに泣きながら飛び出してしまった。本当は素泊まりでなく、宿坊に泊まりたくて尋ねて来たのだろうか。日本へ旅行に来るくらいなら、きっといいお家のお嬢さんなのだろう。若い女性一人で、夜のお寺の片隅に泊まるのは、さぞかし心細かったのだろう。かわいそうなことをしてしまった。どうか日本を嫌いにならないで欲しいと思う。最後の日に、弘法大師ゆかりの橋に行ったときも、胸が痛む思いであった。かつて、大師が四国をまわった折、寺に断られ、しかたなく野宿したという。この「十夜ヶ橋(とやがはし)」の話を聞いてすぐに思い浮かんだのが宿坊を泣きながら去って行った彼女の姿である。大師とイメージが重なる。お遍路というのは弘法大師と一緒に歩くことであるという意味が、なるほどと納得できてくるのである。歩く人一人ひとりが、行いをなぞっている。
4月3日は長距離移動が続き、あまりたくさんのお寺を参ることができなかった。しかも途中で、舗装をしていない山道を通って「ありがたいお水」を汲みに行くことなり、山地主の案内で向かったのだが、大きなバスで行くのは無理があった。木を切り出すための私道は両側が雨水で流されて深い溝となり、タイヤの幅ぎりぎりしかなく、ときどきタイヤが半分はみ出てずり落ち車内は騒然。きゃーきゃーと悲鳴が上がったらしい。山道になれているはずの運転手が、もう二度とこんな道を通りたくないという難所だったそうだ。私も乗っていたが、熟睡してしまっていてまったく覚えていない。あの揺れるバスの中で熟睡できるはずがないといわれるのだが、一度熟睡すると蹴飛ばされても起きない菰池は、首が鞭打ちになりそうな車内で頭にうちみをつくりながら本当に熟睡してしまっていた。ちなみに、持って帰ってきて飲んでみると、確かに甘くておいしい水であった。どうしても欲しい方は、四輪駆動の軽トラにまっさらのタンクを積んでいかれたほうがよろしいかと思います。ただし、山地主のありがたいお話を聞き、健康食品をたくさんすすめられること請け合いです。
最終日、十夜ヶ橋にも立ち寄ったが、寺では43番の明石寺だけをめぐり、すぐさま紀州への帰路へつく。瀬戸内海沿いを高速道路で一気に徳島、霊山寺まで。一昨年秋にひとりめぐった最初の寺だ。あの時は、何の変哲もない寺に見えたが、こうして43箇所まわってみると、寺や庭の立派さ、観光客の多さなど、目に付くところが違って見える。2周目でさえそうなのであるから。何周もまわってみると、行く度また違った旅になるのであろう。ツアーの引率者、先達の人々は、4周以上しているそうだ。四国の石鎚山に登った話をしてくれた人もいた。わたしも紀峰山の会の人と登った話しをしたところ、とても喜んでくださった。あのとき石鎚山では、登山者として訪れたが、同じ場所に行っても、岩登りの人の眼で見るのと、観光客の眼で見るのと、お遍路さんとしてみるのでは、まったく違った風景になるのかもしれない。おおっぴらに旅行にいけない硬いお家の人や、交通の不便な昔の人にとって、四国参りは教養を深める数少ない娯楽のひとつだったのかもしれない。同じ四国参りでも、参加する人によって、感じるものは違うであろう。同じ私の体験し、感じた四国参りであっても、年齢を重ねるごとに、見えてくる風景は違うかもしれない。それでも、それぞれが何かを感じ、得てくるというところは共通しているといえるのだろう。いよいよ奥の深さを感じる、菰池であった。
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