2011年7月27日水曜日

魔女と孫悟空の共通点、棒をつかんで飛ぶとは?

魔女と孫悟空の共通点、棒をつかんで飛ぶとは?


口述で見たこともないものを伝承すると、どうなるか。獅子や龍、麒麟、象。イヌのような身体にネコの頭のライオン、牛のような身体に長い鼻と大きな耳のゾウ、想像で書かれた絵を見ると、一生懸命に絵師に見たままを伝えようとした、人々の思いとそれを汲み取ろうとして必死で想像した絵師のやりとりが目に浮かぶようだ。
戦争など、命に係わるときに見聞きしたことは話が大きくなりやすかったことだろう。
また、平和な時代には、遊び心のある人が、話を面白く脚色することもあったであろう。
また、人間、自分を正当化するために、ありもしない妖怪や魔法を登場させることも多々あったことであろう。


西洋の魔法使い伝説。
古い医術や文化を受け継ぐ家系に伝わる、棒を使った空の飛び方とは?
棒にしがみつく魔女の後ろには、箒のような噴射装置がある。煙なのか。
まさか、ロケットにまたがったわけではあるまい。
どうやって、棒にまたがって空を飛んだのだろうか。
投石器に槍を備え付け、それにまたがった人間が、
パラシュートで着陸して敵陣に集結などというのは、第二次世界大戦ではあるまいし、
危険が大きすぎたであろう。
安全に、棒を使って、塀や堀を乗り越える方法があったのではないか。

孫悟空は、自在に伸びる棒を手に、空を飛ぶ。雲よりも高く、雲に乗って飛ぶ。あれも、発射装置の噴煙なのか。人間が雲に乗れるのか。自在に伸びる長い棒を持って飛ぶとは?
棒を使って敵陣に乗り込み、飛びながら戦うというのは?
金髪のサルのような人種が使う、空を飛ぶ秘術というのが、西洋の魔法使い伝説とルーツが同じだとすれば、それは、古代ローマ時代にそんな戦術があったのか。ローマ以外の国に、あるいは、ローマ自身に。

陸上競技の多くは、古代の兵士のトレーニングと思われる。
人間の力のみで、より早く走り、長く走り、より高く飛び越え、より幅の広い堀を飛び越える。
また、道具も使う。円盤やハンマー、鉄球を投げる、そして、そう、棒を使って、より高く飛ぶ競技もある。あの競技のルーツはいつ、どこで始まったのか。あれを脈々と、日本の忍術のように、特別の家系に代々受け継がれていたとすれば、一般人から見れば、魔法に思えたことであろう。
敵が棒高跳びをつかって、堀をわたり、塀を乗り越え攻めてきた。負けた将軍が「敵が魔法を使って攻めてきたので、どうしようもなかった」と言い訳はしなかったであろうか。不意打ちを計るため、煙幕を張って攻める中、「煙を吐く棒にしがみついて追いかけてきた」など、うわさが大げさになってはいなかっただろうか。その戦術を、中国も取り入れ、あるいはその技術を持った黄色い髪の人々を通訳として、シルクロードを西に行くことはなかったのか。
あえて、敵を欺くために、走り高跳びと知りながら、敵国には「わが国には空を飛ぶ棒がある」と、新兵器についてうそぶいてはいなかったであろうか。

日本の忍者も、不思議な道具を使って、堀や塀を乗り越えたというが、案外、その技というのは近代オリンピックにも秘密があるのではなかろうか。
 

2011年7月8日金曜日

わのくに「やまと」と「かわち」

Today's suggestion1 わのくに「やまと」と「かわち」

「やまと」ブーム。戦艦大和映画、宇宙戦艦大和アニメ。
だんじりで有名な岸和田、河内弁。関東の人が思い浮かべる、映画の関西弁、やくざ言葉。信州に行くと、関西弁こわい、関西人やくざみたい。といわれて驚く。
しかし、泉北、泉南が河内国でないのはなぜか、
言葉が和歌山県の紀州弁とそっくりなのはなぜか、不思議であった。

信州、京都、和歌山(有田)、大阪(なにわ)、高石、泉大津、兵庫(尼崎)に住んだ20年。
ようやく、小学校で学んだ、聖徳太子の四天王寺から法隆寺に続く古道、寺、
中学、高校で学んだ日本史、世界史、生物史が、頭の中でつながろうとしている。

猿人、原人、そしてホモ・サピエンスへ人類の進化。
旧石器時代(洪積世)のドイツネアンデルタール人(旧人)、フランスクロマニョン人(新人)。野尻湖など東日本を中心に日本各地に人が住み、貝塚を築く。
新石器時代(沖積世)、縄文時代。塩尻や和田峠。東京の大森。黒曜石や讃岐石(サヌカイト)の交易で、すでに街道が栄えていたという。
そして、弥生時代。青銅器(ブロンズ)……銅と亜鉛、錫の合金と、鉄器が普及。
縄文時代より狩猟採取、農耕を行っていた部族を、新兵器により制圧して行った。

パプアニューギニアのような、少数部族の交易で栄えたところへ、九州を経て弥生文化が海岸沿いに押し寄せ、少数部族を山間や内陸の僻地へと、追い立てていったことだろう。
もともと、平野部で水田、漁業を行っていた海洋民族も、山間部においやられ、仕方がなく狩猟採集中心の粗食へと文化を変えていったことだろう。

わの付く地域。和泉、和歌山(若山)、和歌浦、大和、若狭?
自分のことを「わ」と呼ぶ人々。わが山?わが浦?わが泉?
紀ノ川を北上すると、右手の山側が東の大和、左手の平原が西の河内。
委の国?倭の国?邪馬台国?日本国のルーツは大阪、奈良、和歌山の国境であったのか?
600もの小さな古墳の群集する紀ノ川河口から、日本最大の古墳、仁徳天皇稜ある堺まで、小さな集落を飲み込んで、巨大化していったのか?

南海道の身長180cm近い体格のよい新日本人が、大陸式の戦術で、小柄な旧日本人と鉄器で戦えば、

津のつく港、いずみの大津(泉大津)、伊勢の津、近江の大津、摂津。
河内国の港が、和泉府中の港湾都市が泉大津であったのか、それはやまとから最も近い瀬戸内海の港であったのか。
やがて、堺、難波と河内の開拓にしたがって、港も北上したのか。
堺(さかい)は摂津と和泉の国境(くにざかい)にあったのか。
国際港から、大陸の新文化や新兵器が輸入された。「古代日本」のガラス、青銅や鉄器は、泉大津や堺で下ろされたのか。

鉄鉱石が溶かされ、銑鉄が鋼になっていく。最初のやまとの臨海工業地帯が、和泉であったのか。

中国の王宮の周りの特別行政区が畿(き)。
きのつく地名。
きの川、きの国、

田畑の開拓と共に、都が北上。
海沿いに港も北上。
海沿いの古道、海上ルートのサービスエリア、パーキングエリア。
食料や塩、湧き水を補給し、嵐が来れば避難する。
伊勢神宮の神宝、織物道具(高機)や琴などの外国文化の伝播、海のシルクロード。
後の、大陸、陸のシルクロードの品々も、海からやってきた。羽衣伝説の外国人は、中国?インド?ペルシャであったのか?
新しい図柄やデザインを手に入れるため、沐浴中に借りては、閲覧していたのか?
兵士や官僚ではない外国人女性の服装や裸は、かなり希少価値があったことだろう。

畿内と七道(西海道、南海道、東海道、山陽道、山陰道、北陸道、東山道)。北海道はまだなかった。
畿内(大和、河内、摂津、山城)の四畿と、河内国より分かれた和泉(いずみ)の五畿。
王宮の周りの特別行政区が畿内。五畿の周囲を入れると近畿。紀伊や伊勢、近江、伊賀、若狭、現在の関西の二府五県に近い。

有田(在田)は田のあるところである。河岸に遺跡が出土し、山城があり、都より旅人や落人も来る。平安時代には、乗り物を使えば、1週間で往復できる距離であったという。
ヨットであれば、風力だけで大阪湾から一日余りでたどり着く。

和歌山の地名のつけ方が、田んぼは、田、野原は野と、シンプルである。
江戸時代以前の古語も方言によく残っている。それは大阪泉州も同様である。
弥生時代は、身近な山は「山」、川は「川」と呼んでいたのかもしれない。山間の人はやまびとであったのか。川原の人はかわちのひとであったのか。

信州では、北海道の地名がアイヌ語が語源であるのと同様、地名のつけ方が関西と異なっていた。学生時代に学んだことだが、沢のつく人名や地名が多く、渓谷にちなんだ内陸文化の名残であるという。少なくとも、ヤマト言葉でない人々が、最近までいたはずである。
しかし、舟形の山車を引くなど、岸和田のだんじりのような祭りが残り、「わ」の弥生人たちがやはり、街道や関所に押し寄せたのだろう。そして、山を荒らすと「山賊」も出たのだ。
紀伊半島や四国にも、古い集落やヤマト文化とは異なる文化が残っている。仏教以前の、神道以前の宗教観が残っている。
近畿には、多くの「鬼」や「山賊」や「海賊」が、交易の船から通行料、場所代、警備代をいただきに、徴収に回っていたことだろう。

北海道から沖縄まで、一つの国に格好がついてから、さらに台湾や朝鮮半島、東南アジア、樺太まで国境線が一時期伸びた時代もあり、現在の「ヤマト」日本は古いが新しい国である。

2011年7月3日日曜日

漫画のような人体改造は可能か

漫画のような人体改造は可能か

自分と同じ遺伝子の臓器を作り移植できるなら、
そのまえに、安全な移植ブームが来ないものか。
例えば、天然カラーコンタクト。
自分の角膜がいろいろな色になっており、移植すると黒目が青や緑になる。

化学薬品を使わず、毛根に遺伝子操作した細胞を移植し、天然茶髪&天然ウェーブヘアにする。
若いまま、ふさふさの髪は、人類の夢ではなかろうか。
天然茶髪なら、色も違う色に染めやすい。
天然マイ毛エクステでもよい。いきなりのロングも可能。

着け爪しなくても、好きな色のデザインの爪の遺伝子を挿入し、
天然ネイルアート爪にする。
歯も、60歳以降に2度目の永久歯の生え変わりがあるようにしておくのもよい。

爪も、髪も、気に入らなければ切ればよい。安価で安全な移植ではないか。

さらに、ロボットのように、殴ると飛んでもどってくるパンチ。ひじから脱着可能。
セルフスタンドのように延びる自在陰茎。如意棒のように自在な姿勢で挿入可能。
また、フェラチオの時には女性の好きな味の飲料が出る陰茎。
イクメン用に、母乳ならぬ父乳がでてもよい。
大小二本あって、どちらもバイブ機能付き。なども女性に喜ばれるのではなかろうか。

ウシから人間の母乳が出るなら、神話のように犬から母乳が出れば、子育て乳母犬も可能であろう。人間の妊娠中に遺伝子操作をうけた子犬を育てておけば、出産時には繁殖可能な母犬となっている。

また、女子高生向けには、アバターのように自在に動くしっぽも取り付け可能。
ペアで装着し、彼女と彼氏が並んで、後ろで尻尾を絡めあう。
動く尻尾はまた、悪戯好きの若者から、歳をとって背中に手が届かないお年寄りにも便利である。
試験中にとなりのやつをこづいたりできる。
また、両手がふさがっているときに背中を掻いたりもできる。
病人のためだけよりも、一般人にブレイクした方が、安価で普及する、その結果病人の臓器移植技術も値下がりするのではないか。
裏ビデオと同じ原理で、、、



2011年5月29日日曜日

2009年フットサルとジム及び2010年その後

11月に体力づくりと小遣い稼ぎ&ちょこっとボランティアということで、前年度お世話になった、有田市千田の古川農園に3回ほどお邪魔して、収穫作業を手伝ってきた。手伝いと言っても、本格的な運搬作業である。2日~3日ずつ、朝の8時から5時ごろまで、収穫したみかんをモノレールまで運び、10個溜まったら、道路わきのトラックまでモノレール(丁度、草刈機のような、エンジンで動く)で下ろして、トラックに積み込んでいく。有限会社では、多いときは半日で20kgコンテナを120杯以上積んだものであるが、ここ、古川では、70代のご夫婦と近所の50代の女性の3人でほそぼそとやっている。3人分を運ぶだけであるので、せいぜい、半日で40杯ほどである。
ここで、不幸が襲った。20度を越える異常気象で、半袖のシャツ一枚で作業していたところ、20kgコンテナで胸部表面を挟み、挫滅損傷したのである。そのときは、まあ、すぐ治るからいいやと思っていたが、12月末になっても傷が化膿してうずき、天王寺の形成外科にいったところ、化膿止めを飲んで半年様子を見ましょうといわれた。
4月からの就職活動用のリクルートスーツを、和歌山の近鉄で注文してあったのを回収し、合唱の友人とお好み焼きを食べてから、古川へ。友人としっかり発声練習して、元気に収穫作業に勤しみ、古川亭の離れで、いいちこの差し入れで一杯やりながら、地学の問題集の復習をする。この頃、授業で7月や8月のように一定の音色の大きな太い声がでていた。3回の収穫作業で、かなりいい声が出るようになり、ルネッサンス泉大津の週4回のジムをやめ、コスパ鳳に転戦する。二回ほど、ジム通いをしたが、その後、何回か通っていたフットサルの初心者から中級者のいるクラスで、ゲームを何セットか行う。フットサルは、学生時代のミニゲームのようで、思ったよりも膝に負担がかからず、身体に合っていた。
最初、髪の毛がロナウジーニョのような長さの頃は、結構いいパスをもらって、ドリブルシュートをしていたのだが、この頃、職場で男らしく髪をもっと短くしたらと、同じ学年団の女性に言われ、断ったところ、「いやなら、私が切ってあげる。いつも、小学生の息子に、私が切ってあげるというと、自分から切りに行く」というので、恐れをなして、整えに行ったところ、パーマを当てたため、さらに短く若返り。せっかくの年末に購入したリクルートスーツが、本当に新卒のリクルートスーツのようになりそうで、あわてた。
正月休みの10日間、自宅で生物や物理の復習をしながら、コスパではなく、再びルネッサンス泉大津に戻り、上半身の筋トレを中心に鍛えた。一ヶ月10kgずつ増やし、40kgくらいの負荷であったと思う。しかし、一ヶ月以上、授業のブランクがあったため、1月8日に久しぶりにしゃべると、近い距離では普通に誰とでも会話できるのが、大きな教室で、7月や8月のような後ろまで太くて響く声が、もはや出なくなっていた。授業に間に合うか、またまたピンチ。さらに、年末にいためた胸部表面はとりあえず化膿は止まったが、まったく治る気配がなかった。
1月4日に、梅田のジャック&ベティでニューハーフショーを見に行き、ヌードを堪能した後、十三に転戦、そこで、黒装束のグループが「菰池 環という人を探して欲しい」と打ち合わせをして解散しているのにでくわす。裏階段から今度は別のスナックに行き、そこで閉店まで飲み明かし、近くの東横インで宿泊。めがねが無く、朝さがしているうちに、教頭に1時間遅刻すると電話する破目に。とんでもない仕事始めであった。
秋に教育実習に行ったのが災いし、「ほんとに教員免許持ってんの?」というブラックユーモアが笑うに笑えなくなった。というのも、教育実習先で10人学級で授業を行っているうちに、本当に教室の後ろまで声が飛ばなくなってしまっていたのである。一ヶ月ほど、授業できちんと、年相応の大きな聞こえやすい声がでるか、学年主任の小林先生らに、まるで教育実習のように監視監督されることになった。迫力ある大きな声が自慢の菰池は、歌の練習さえ復帰できたら、かなり声量が戻るのだが、皆がそば耳を立てているため、マンションでも大声で歌うことが出来なくなってしまった。
化学の授業の準備をする時間も、生徒に分かりやすく説明する工夫をする時間も、失われた。井上先生が、「他校のベテランの再任用(後日、菰池を“再度任用”にするという話につながる。)教諭に来てもらう」、「Iさんという20代男性(前任の化学の常勤講師か?)に、4月から常勤講師で来てもらう」などと理科会でほのめかした。井上先生は、菰池が他校に行くことを願っていたのか、、、しかたがなく、大阪府がダメだったことも考慮し、保険をかけて、大阪市の講師登録を行った。さらに、リフレッシュ及びタマッサージと胸部の治療のためにタイのバンコクに行こうとしたら、本籍地を長野県から大阪に移動してあったために、パスポートが使えなくなっていた。あわててパスポートの写真を撮りに行き、仕事を早退して申請、受け取りに向かう。
この1月下旬の時点で、とても大阪府の教職員の真面目な就職の話とは思えない、すでに本気とも冗談ともつかない会話になっていた。1月の「菰池は何もしなくても就職できる」という話がいつまでも頭にこびりついている人、「タイで美容整形で顔を変えて国外に逃げる」、「爆弾を持って飛行機で自爆テロを行う」と、笑うに笑えない勘違いした人々などが、善意からタイの病院とのメールやりとりなどの妨害に走り、1月の泉南の内臓の手術だけでなく、2月のタイの胸部形成手術もうけられなくなった。無事に帰国したのもつかの間、3月になると、美容整形のデマが一人歩きし、豊胸してニューハーフになったであるとか、パーマをかけてアッシュグレイにしたためにマイケルジャクソンになったのかと冗談を言われ、真に受けた生徒をなだめながらテストと採点、成績付けを終える。3月後半になると、1月に手術しそこねた内臓が痛み、血尿を出しながら、痛みに耐えながらの330日の勤務となった。府に2つ、市に1つ内示をもらっていたのだが、残念ながら、家族の反対により、4月から泉大津市に引っ越し、民間の会社に転職することとなった。くわしくは、The Shinoda World Diaryを読んでくだされば幸いだ。

2009年9月 この歳になって教育実習の巻

今回は「特別支援学校」の免許獲得に奮闘する、教育実習の日記である。サッカー、柔道、登山、声楽、バレエ、お遍路……今までの様々なチャレンジの中で、一番お金がかかったと言ってもよい。費用は全部で261500円である。それでも、教員免許や大卒の資格がない人に比べればはるかに楽である。一からとると、4年間で83万円かかる。お金はかかるが、私立なので、ケアがとても丁寧であり、金銭的に余裕のある人が何か資格を取るなら、仏教大は超おすすめである。
スクーリングは優秀な成績でクリア、全て合格した。仏教大のレポートは、着々と仕上がり、夏休みまでに全14科目のレポートを仕上げた。試験も全13科目のうち、913日までに11科目を受け、そのうち9科目合格した。残るは1018日にある2科目の試験と、2週間の教育実習だけとなった。ちなみに、残る2科目というのは、「病弱虚弱児の指導法」と「同和教育」であるという。病弱児というのは、手術や投薬などで、登校できなかったりケアが必要な子ども達のことである。今はガンの子どもが増加しているらしい。戦後の一時期は、肢体不自由児の学校に、脳性麻痺(小児麻痺)の子どもが増加した時期もあったが、今は減少しているそうである。障害にブームがあるということは、原因に化学物質が深く関与しているということであろう。ちなみに、有機系の殺虫剤は神経を犯し、脳性麻痺だけでなく欝病などの原因も疑われている。ダイオキシンは一般に認知されている催奇性、発ガン性物質であるし、人工甘味料は、学習障害や多動性障害の子どもとの因果関係が指摘されている。子ども達は、膨大な人体実験を行ってしまった現代社会の薬害の被害者なのだ。さまざまな障害を抱えているのは、決して親の育て方が悪いのではなく、急激な工業化や薬漬け農業に責任があり、その子ども達を教育し、自立させていくのは、社会全体の責任であると私は思う。
さて、現在勤務中の高校の、2週間分の自習課題と復帰直後に必要な、中間考査の問題を作成し、教育実習先の3回分の学習指導案を作成し、プリント2枚を用意して、930日を迎えた。最初に職員朝礼でご挨拶。挨拶文は考えてあったし、年の功でこれはクリア。急に高校生の前で自己紹介の時間をとってもらったのには参った。事前に、「上は一般校と変わらない知識や計算力の子どもまでいる」と聞いていたため、どの年齢に焦点を合わせたスピーチがふさわしいのか、想像も付かないのだ。結局、幼稚園児くらいが中間かなあと思い、極力ゆっくりと名前をいって、「一緒に勉強したり遊んだりしましょう」とスピーチを締めくくったが、先生方には不評であった。まず、短すぎた。内容は高校生にふさわしいものが求められていたのだ。
実際に授業にいってみて分かったことだが、どんなに国語や数学が苦手な子どもでも、言葉で返事が出来ない子どもでも、大人の話はかなり理解できているのであった。外国に行って、わかってもらおうと身振り手振りを交えて一生懸命話すと、案外気持ちが通い合ったりする。どうせ分からないだろうと思って話すと通じることも通じない。障害者問題は、外国人問題や同和問題に通じる。障害児教育を学ぶ者は同和教育を学ぶべきだと、仏教大学できいてはいたが、単に差別や人権の話と受け取っていた。相手を尊重し、人と人とが心を通わせるという共通点、教育の原点、あらためてこういうことだったのかと理解する。実習前に分かっていれば、この最初のスピーチで、高2の理科の授業を2週間受け持つこと、趣味や特技など生徒が興味を持ちそうなことを色々話していたことだろう。悔やまれた。
生徒の中には、IQが高くても、握力が無いためにスプーンやゴムのズボンをしっかりとつかめなかったり、あるいは筋肉の麻痺のために思うように口が締まらず、よだれがこぼれる者もいた。一方で、何もかも自分で出来て、学力も高いのに、コミュニケーションに障害のある自閉症の子どももいる。彼らも、自分が人と上手く関われないことで悩んでいるようだった。
スポーツをさせてみると、自閉症という障害についてよくわかる。試合の駆け引きに長けるダウン症の子ども達に対し、体格に恵まれ学力も高い自閉症の子ども達は、味方や敵の意図が読めず、棒立ちになってしまう。防御やパスのために自発的に動けない。やるべき事は解っているのに、今がそのシチュエーションであると言うことを、他人にいって貰わないと気づけない。そんなわけで、ホームルームで、自分の決められた役割は丁寧にきちんとこなせても、休んでいる子のかわりに、あるいは忙しそうな子の手伝いに、なんで積極的に動けないのか、気を利かせられないのか、スポーツする姿で納得した。
自閉症でない子どもでも、気働きの出来ない子供が増えている。そんな子ども達にどう接すればよいのか、あるいは学習障害の子ども達への接し方、色々参考になった。実習に行くまでは自分が特別支援学校が向いているかどうか分からなかったが、少人数教育、6歳から18歳までの一貫教育というのは、なかなかいいものであるとおもったし、フレンドリーで、他人との違いを尊重する、あるいは自分と違う人でも許容する、そんな職場というのは、今どきなかなかないのではないか。とても健全な職場だ。特別支援学校で働くのは悪くない。最後に、打ち上げに韓国料理店で焼肉をご馳走になった。よき思いでだ。
この2週間を得るためのこれまでの苦労を思い出した。3月に必死になって探した実習先。いろいろな方のご協力でようやく得たチャンスだった。今の勤め先には、多大なるご迷惑をかけた。2週間の授業の振り替えの影響は7月末から10月中旬まで続いた。そして、実習先では、若くも無い生意気な実習生相手に、丁寧に指導してくださった。実家の家族の生活をも、2週間蝕んだ。その結果が、この悲惨な研究授業というのがなさけなく、もどかしく、はずかしかった。皆さんに謝ってすむ問題ではなかった。これは、ぜひとも支援学校を受験し、はれて正規の職員にならねばご恩返しできまい。実習を終え、すぐにまた教育実習簿を完成させる最後の作業があり、届けに行ったところ、その日はちょうど遠足で、学年の慰労会に招いてくださった。「是非、うかってうちにきてね」、優しいお心遣いに、目頭が熱くなった。
さらに、仏教大学の最後の2科目の試験が待ち構えていた。勤め先の中間試験の採点も手をつけず、ひたすら受験勉強し、ようやく全科目をクリア。あとは免許状を1月始めに大学経由で京都府教育委員会に申請するだけとなった。ここで、ほっとして気が緩まないよう、私は11月から体力づくりに励むことにした。ミニサッカーのような競技、「フットサル」である。フットサルについてはまた別の日記にて。番外しもたま教育実習日記はこれにておしまい。これまで、プライバシーの関係もあって、学校ネタは極力控えてきたが、今回は明るく元気な一方で、自分自身の能力や心ない人の言葉や態度に悩む障害児達と支える先生方の姿をどうしても伝えたく、ペンを取った。皆様、ご愛読ありがとうございました。    

2008年携帯電話の長所短所

つい最近まで大阪の家族も、有限会社の誰もが、携帯電話を持たなかった。それが昨年末には、気がつけば全員一人一台持っている。携帯がなくても生きていけると豪語しているうちに、あれよというまに公衆電話がつぎつぎ消え、なんだか不便な世の中になってしまっていた。外で友人や家族と待ち合わせをするのに、しかたなく一人一台必要になってしまったのだ。かつては部屋に固定電話をひかずに、下宿の公衆電話だけで過ごす若者も珍しくなかったが、今では小学校の低学年の子どもまでが、固定電話より高いケータイを所持している。10円の赤電話、ダイヤルの黒電話。自分の子ども時代が懐かしい。
持ってみて思うのは、必ず電話会社の儲かるようにできてて、子どもが踊らされているなあということだった。別に携帯会社に限らず、テレビや雑誌で子どもの購買心をあおる企業はたくさんいる。かっこいい憧れの人まねをしようと、とても子どものお小遣いではその後の管理や維持できないようなヘアースタイル、パーマとか茶髪に手を出してしまう。雑誌によっては、とても“かたぎの娘さん”とは思えないような、派手で品のない“夜の世界”の化粧や服装をはやりとしてとりあげる(外国人からすると、胸の大きく開いた下着透け見えミニスカートで、しかも街頭にて化粧を直す女子高生は、どう見ても娼婦だ)。生まれて初めて髪をちょっと染めてみた子どもはびっくり仰天、日ごとに日光で色が落ちていって、学校に行くのに、ますます黒く染めなければならなくなる。軽い気持ちで脱色してしまって後悔しているところに、教師には不良ぶってやったかのように叱られて、踏んだり蹴ったりだ(子どもばかり責めないで、未熟な子どもをあおっている大人に責任はないのだろうか)。
服装や髪型はまだいい。安い店や他の手段も選ぶことができる。携帯電話の場合は、少数の会社のいうがまま払わねばならないが、料金設定の分かりにくい機能が多すぎる。子どもは無料サイトに入ったつもりが、あとで高額の請求が来て保護者が驚く。あるいは信頼できるサイトばかりでなく、無垢な子どもを狙った悪質なサイトもある。子どもには様々な危険が常に付きまとうが、バーチャルな世界は警察も手が廻りきらず、しかも保護者や教師は子どものトラブル気付きにくい。実際に携帯電話を手にしてみて、そのことを実感してしまうのであった(10月にお遍路行ってたとき、携帯電話の料金がいつもの10倍以上で仰天しました。30秒につき20円恐るべし!)。
かといって、いきなり子どもから取り上げるのは、良くないと思う。こんな例を聞いたことがある。ある日電車の中で聞こえた会話なのだが、夜中の長電話か大声の会話かで近所から苦情があり、怒った親が携帯をいきなり取り上げたところ、苦にして衝動的に電車に飛び込んでしまった生徒がいるのだという。特急だったため即死であった。親は取り上げたことを悔やみ、近所の人も大勢が嘆き悲しんだという。この例のように今の子どもにとって、電話はただの電話でなく、大人でいうところの「酒」兼「タバコ」兼「自家用車(仕事や買い物になくてはならぬ生活の足)」に相当するものか。携帯なくして会話(コミュニケーション)ならず。友人との遊びも、学校の宿題も習い事も家族との接点も何もかもが、できなくなってしまう。大人から見れば何をそんなに大げさかと思うかもしれないが、それまであった空気がなくなったように息苦しく、宇宙でただ一人ぼっちで取り残されたかのようにさびしく感じてしまうようだ。
我々大人と違って、平成生まれの子どもは、携帯のないこれまでの頃の生活を知らないのだ。ニコチン中毒のヘビースモーカーと一緒の依存症状態、“ケータイ依存症”なのだ。まずは徐々に携帯無しの時間を増やしてやり、携帯に頼らない生活の仕方に慣れなければならない。新聞の投書で、20代の若者だったが、海外旅行で初めて携帯のない生活を送り、初めは不安だったが、やがてメール等にわずらわされない、その快適さに気づいたという内容のものだった。いつも携帯づけの若者が、「携帯のないことは快適」という体験をときどき味わえたらいいのにと思う。携帯依存は、あおっている大人社会の責任で、彼らが決して心が弱いからではない。
それでも最近の中高生は派手でちゃらちゃら、良く分からないと思う方もいるかもしれない。そんな子どもたちが、高価な携帯をおもちゃにすることに、嫌悪感を抱く方もいることだろう。しかし、若者のためにここでたまには弁護しておきます。最近の高校生を見ていると、意外なときの真面目さに困惑することがある。自分からは進んでやらなかったとしても、やれと命じられた作業をもくもくとこなしたりする。遅刻多々、授業中に私語多くして、この子ほんまにちゃんと社会人やれるかなあと心配な生徒が、アルバイト先ではひとこともしゃべらず、真剣に作業していたりもする。状況のつかいわけがうまく、器用だ。昔の若者のほうが、子どもっぽく悪ぶって、わざと手を抜いていたようなことでも、今の子どもたちは、お行儀良く大人びてさめている。困難な時代に、こういう性格って結構頼もしいなあなんて思ってみたりする。今の子は打たれ弱く、へこみやすいというけれど、社会の急激な変化にも若者らしく器用に案外対応してくれるんじゃないか。彼らが世の中の中心になっているとき、周りのくうきをよみながらもくもくと働き、携帯のさまざまな問題もうまく解決してくれて、日本を引っ張るいい社会人をやってくれている気がする。
まあ、携帯の悪口ばかり書いてきたが、緊急時にはありがたいアイテムだ。山の中まで仕事を持ち込むのはいやだけど、もしも山ではぐれたときには心強いではないか。登山や旅行中は、本当に大活躍してくれている。

2008年ミステリーツアー日本

入会したときはミステリーツアーのようであった沢登り。紀州の山のことは何も分からず、行く山行すべてがミステリー(リーダーさん、不心得なメンバーですみません)!全メンバーがどんな道を何時間ぐらい歩くか、知っているべきというけれど、沢登りの場合、水量やメンバーによってルートを変え直登したり時間がかかったり、不確かな要素が多いので、やはり、わたしにとって沢は魅力的にミステリアスなのである。
ミステリアスといえばこの我らが暮らす「日本国」の進む道もまた、ミステリーツアーのようだなあと最近感じている。いや、ツアーなら案内する人は下調べをしてあって、参加者だけがどきどきわくわくするが、このツアーはどうも、案内人も行き当たりばったりでわくわくどきどきしている気がする。われらが案内人は、ツアー「アメリカ」の後をついて歩いているだけだという人もいるが、その場合先行くツアー「アメリカ」を見失ったらひとり遭難してしまうのだろうか。あるいは「アメリカ」が目の前で遭難したときに、日本の技術体力を駆使し、救助してあげるつもりなのだろうか。戦後の日本が「歩き始め」たころ、日本は世界最高峰を目指す登山道を歩いていた気がする。荷揚げする人、アタックする人、それぞれの与えられた分業に励み全員が目標を意識して歩いていた。やがて欧米に追いつき追い越せ、山頂まで近道しようとするアメリカの尻にくっつくうちに、気がつけば原生林の大樹海の中をこのように迷走ししまった。もはや、先頭をあるくエリート集団をフォローしてきた民衆は、間延びした隊列から脱落し始めているが、樹海が邪魔をして、お互いによく見えなくなってしまっている。
真面目なおとなしいいい子たちが、自衛隊に行き始めている。近年の就職難、進学難の結果だ。貧しい人が大学に行くためにと入隊し、イラク戦争へ借り出されたというアメリカ。勉強のために軍隊に入らなくちゃいけないような世の中に、日本がなって欲しくない。
最近、子どもを抱えるお母さん方と話す機会が最近多い。子どもにいい人生を与えるために、就職できるためになにができるか?昔は、真面目な子どもなら、どんな学歴であっても仕事が与えられ、結婚ができた。今は、学歴に関係なく仕事がなく結婚も難しい。正確な情報がない。何をよりどころにすればよいかわからない漠然とした育児不安。いや、情報はありすぎるのかもしれない。一芸に秀でているほうがいい、英語ができるほうがいい、塾に行って私立に行くほうがいい、様々な憶測がさらに不安をかき立てる。習い事をさせなければ。塾に行かさなくちゃ。子どもも親もまわりから強いプレッシャーを受けているように見える。「ゆとり教育」から、「生きる力(学力、体力、愛国心)」、、、あまりにも刻々と価値観が変わって行き、偏差値教育をどっぷり受けてきた親世代は、新しい教育方針についていけないでいる。そう、不確かな情報を鵜呑みにするような「無学の親」は減った。育児で長らく世間から隔絶されていたマジメな主婦ほど、世間の変わりように「浦島太郎」のような気分を味わっている。
いや、昔だって若い親は子どもにかまう間が無く、ほうっておいても子どもは育った。今はかまいすぎなのではないか、という人もいることだろう。昔は迷ってもお年寄りに聞けば子育てのしかたから人生についてまで、教えていただくことができた。進路のことは、学校の先生に聞けばまず間違いが無かった。今でも昔でも、若者の中には、勉強をあきらめて家族のために働きたいと思うけなげな子もいるし、早く自立して、10代で結婚して子どもを持ちたいという子もいるはず。それがかなわないのは、子どもたちの努力が足りないせいでも、根性がないわけでもない。今、お年寄りの言うとおり、家計が苦しいなら中卒で働けばいいといわれて、実際就職できる子どもはどれだけいるだろう。
日本にはインドのカーストのような世襲?ができつつある。塾や大学に行くお金のない子どもたちは、もうすでに人生の指定席がきまっているようなもの。人権を無視した過酷な勤務条件と低賃金にあえぐ。奨学金を借りて進学しても返せない人が増えているそうだ。一方のお金持ちの子どもは、私立の小中高に行き、一流の国立大学に行き、企業の内定を次々もらい、バブルのときのように企業から接待を受けていると聞く(学校の先生に進路について聞かなくても、親が高学歴で、何をすべきか担任よりも知っている。あるいは、塾や予備校の方が、最新の入試について詳しいと言う現状がある)。公務員の子どもが公務員に、教師の子どもが教師になるのは、コネや賄賂ばかりではない。マジメに受験している人の方が多い。それでも2世が多いのは、親の経済力の差もあるのではないだろうか。

このお盆に、昨年事故で亡くなった若者のお参りに行ってきた。私が滝川で柔道を始めたとき、まだ中学一年生で、いっしょに昇段試合に行って黒帯をとった仲間だ。彼は体格も良く力があるというのに心優しく、なかなか勝負で思いっきり投げることができずにそのころスランプになっていた。同じ代の友人がつぎつぎ黒帯をとる中、めげずに柔道をつづけた。語る言葉の端々から、柔道を愛する気持ちがにじみ出ていた。相手を思いやる柔道精神に満ちあふれた子どもだった。私もご家族と一緒に懸命に彼が勝つよう応援したものだった。やがてM高の柔道部で活躍するまでになり、縁あって1年間、授業を受け持つことにもなった。もちろん、授業態度も真面目で、きちんとした会社に就職し、さあこれからという19歳の夏だった。バイクに乗っていて、脇から飛び出した車にはねられてしまった。お葬式には、たくさんの同窓生、柔道の先輩後輩がおとずれ、彼が皆に好かれ愛されていたことを物語っていた。体格の優れた屈強な柔道の若者の群れは、まるで兵士の集まりのようであった。その葬儀で私がふと思ったのは、この年代の大勢の若者が次々命を落すのが「戦争」なのだろうと。20歳前後のあふれる輝かしい未来。ひとつの命の重いこと。なんと、もったいなく、いたましいことだろう。テレビや本で、戦争で若者が死んでいく話を知っても、ぴんと来なかった重みが、目の前の体格の立派な若者の群れを見て、心にずしんと感じてしまった。戦争でなくなった命は、こんなに一人ずつ悲しんでもらえるのだろうか。彼らの未来を大切にしてやらねばと思った。彼らには亡くなった若者の分も、しっかり生きて欲しいから。