2011年7月8日金曜日

わのくに「やまと」と「かわち」

Today's suggestion1 わのくに「やまと」と「かわち」

「やまと」ブーム。戦艦大和映画、宇宙戦艦大和アニメ。
だんじりで有名な岸和田、河内弁。関東の人が思い浮かべる、映画の関西弁、やくざ言葉。信州に行くと、関西弁こわい、関西人やくざみたい。といわれて驚く。
しかし、泉北、泉南が河内国でないのはなぜか、
言葉が和歌山県の紀州弁とそっくりなのはなぜか、不思議であった。

信州、京都、和歌山(有田)、大阪(なにわ)、高石、泉大津、兵庫(尼崎)に住んだ20年。
ようやく、小学校で学んだ、聖徳太子の四天王寺から法隆寺に続く古道、寺、
中学、高校で学んだ日本史、世界史、生物史が、頭の中でつながろうとしている。

猿人、原人、そしてホモ・サピエンスへ人類の進化。
旧石器時代(洪積世)のドイツネアンデルタール人(旧人)、フランスクロマニョン人(新人)。野尻湖など東日本を中心に日本各地に人が住み、貝塚を築く。
新石器時代(沖積世)、縄文時代。塩尻や和田峠。東京の大森。黒曜石や讃岐石(サヌカイト)の交易で、すでに街道が栄えていたという。
そして、弥生時代。青銅器(ブロンズ)……銅と亜鉛、錫の合金と、鉄器が普及。
縄文時代より狩猟採取、農耕を行っていた部族を、新兵器により制圧して行った。

パプアニューギニアのような、少数部族の交易で栄えたところへ、九州を経て弥生文化が海岸沿いに押し寄せ、少数部族を山間や内陸の僻地へと、追い立てていったことだろう。
もともと、平野部で水田、漁業を行っていた海洋民族も、山間部においやられ、仕方がなく狩猟採集中心の粗食へと文化を変えていったことだろう。

わの付く地域。和泉、和歌山(若山)、和歌浦、大和、若狭?
自分のことを「わ」と呼ぶ人々。わが山?わが浦?わが泉?
紀ノ川を北上すると、右手の山側が東の大和、左手の平原が西の河内。
委の国?倭の国?邪馬台国?日本国のルーツは大阪、奈良、和歌山の国境であったのか?
600もの小さな古墳の群集する紀ノ川河口から、日本最大の古墳、仁徳天皇稜ある堺まで、小さな集落を飲み込んで、巨大化していったのか?

南海道の身長180cm近い体格のよい新日本人が、大陸式の戦術で、小柄な旧日本人と鉄器で戦えば、

津のつく港、いずみの大津(泉大津)、伊勢の津、近江の大津、摂津。
河内国の港が、和泉府中の港湾都市が泉大津であったのか、それはやまとから最も近い瀬戸内海の港であったのか。
やがて、堺、難波と河内の開拓にしたがって、港も北上したのか。
堺(さかい)は摂津と和泉の国境(くにざかい)にあったのか。
国際港から、大陸の新文化や新兵器が輸入された。「古代日本」のガラス、青銅や鉄器は、泉大津や堺で下ろされたのか。

鉄鉱石が溶かされ、銑鉄が鋼になっていく。最初のやまとの臨海工業地帯が、和泉であったのか。

中国の王宮の周りの特別行政区が畿(き)。
きのつく地名。
きの川、きの国、

田畑の開拓と共に、都が北上。
海沿いに港も北上。
海沿いの古道、海上ルートのサービスエリア、パーキングエリア。
食料や塩、湧き水を補給し、嵐が来れば避難する。
伊勢神宮の神宝、織物道具(高機)や琴などの外国文化の伝播、海のシルクロード。
後の、大陸、陸のシルクロードの品々も、海からやってきた。羽衣伝説の外国人は、中国?インド?ペルシャであったのか?
新しい図柄やデザインを手に入れるため、沐浴中に借りては、閲覧していたのか?
兵士や官僚ではない外国人女性の服装や裸は、かなり希少価値があったことだろう。

畿内と七道(西海道、南海道、東海道、山陽道、山陰道、北陸道、東山道)。北海道はまだなかった。
畿内(大和、河内、摂津、山城)の四畿と、河内国より分かれた和泉(いずみ)の五畿。
王宮の周りの特別行政区が畿内。五畿の周囲を入れると近畿。紀伊や伊勢、近江、伊賀、若狭、現在の関西の二府五県に近い。

有田(在田)は田のあるところである。河岸に遺跡が出土し、山城があり、都より旅人や落人も来る。平安時代には、乗り物を使えば、1週間で往復できる距離であったという。
ヨットであれば、風力だけで大阪湾から一日余りでたどり着く。

和歌山の地名のつけ方が、田んぼは、田、野原は野と、シンプルである。
江戸時代以前の古語も方言によく残っている。それは大阪泉州も同様である。
弥生時代は、身近な山は「山」、川は「川」と呼んでいたのかもしれない。山間の人はやまびとであったのか。川原の人はかわちのひとであったのか。

信州では、北海道の地名がアイヌ語が語源であるのと同様、地名のつけ方が関西と異なっていた。学生時代に学んだことだが、沢のつく人名や地名が多く、渓谷にちなんだ内陸文化の名残であるという。少なくとも、ヤマト言葉でない人々が、最近までいたはずである。
しかし、舟形の山車を引くなど、岸和田のだんじりのような祭りが残り、「わ」の弥生人たちがやはり、街道や関所に押し寄せたのだろう。そして、山を荒らすと「山賊」も出たのだ。
紀伊半島や四国にも、古い集落やヤマト文化とは異なる文化が残っている。仏教以前の、神道以前の宗教観が残っている。
近畿には、多くの「鬼」や「山賊」や「海賊」が、交易の船から通行料、場所代、警備代をいただきに、徴収に回っていたことだろう。

北海道から沖縄まで、一つの国に格好がついてから、さらに台湾や朝鮮半島、東南アジア、樺太まで国境線が一時期伸びた時代もあり、現在の「ヤマト」日本は古いが新しい国である。

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