2010年12月10日金曜日

ブログを引っ越しました

AUモバゲーが使えなくなったので、別のブログに引っ越しました。

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2010年12月5日日曜日

モバゲーで知り合った東京のタクシー運転手への返信……指揮者について

"アバター"

    • スコアを見ながら聞くのは、脚本を読みながら芝居を鑑賞するのと同じく、小説を読み解くような深みをもたらしますね。
      初めて音を記録しようとした人は、テープやディスクのない時代、どのような思いで記譜したのか。楽譜への思い入れは計り知れないことでしょう。楽譜には表せない言葉で言い表せないものがあるからこそ音楽は存在する。しかし、作曲家は表しつくせない楽譜になんとか思いをこめようと工夫して記す。「楽譜に忠実に演奏せよ」というのは、一流の方だけに重みがありますね。どんな一流のプレーヤーも(スポーツや学術もしかり)、いかに基本をふまえ忠実かが問われます。
      第九はゆるやかなアダージョが気持ちいいですが、あの静けさがあるからこそクライマックスが際立つのでしょうか。第四楽章に一から三楽章のモチーフが現れては消え、バリトンソロに受け継がれる、また、平和への強いメッセージ性、古くて新しい曲です。子どものころは、耳慣れた特に印象深い曲でもなかったですが、今のポップスのリズム、今当たり前になっている表現であるから奇抜に聞こえない。
    • オペラやバレエを振れる指揮者が日本に増えてきたことは、嬉しいですね。
      ベートーベンの第九やマーラー5番のアダージェットのけだるい感覚がここちいいです。小さな音に研ぎ澄まされた力がこもっている、緩やかなテンポに踊るような躍動感が潜んでいる。同じ曲を何度聴いても、新しい指揮者やオケで聞くたびに別の曲を聴いているような新鮮味があります。
      本当に音質を追求するならば、同じ製作者の楽器、同じ時代と地域の楽器で統一するのが理想でしょうが、経歴や経験の違う演奏者が、楽器を持ち寄り、個性をぶつけ合いながら一つの音楽を作っていく、それは指揮者のリーダーシップ、ビジョンにかかっています。全員が同じビジョンを持つことで、せめぎ合う個性や解釈が、共鳴し合い、干渉し合う。指揮者はカリスマ教師であり、ソリストの塊であるオケをおだてるマネージャーであり、演奏会の成功まで計算する経営者ですね。



    運転手の敬愛する、朝比奈 隆についてのメールの返信である。この運転手は芸術を愛し、朝比奈隆と交流し、直接指導してもらったという経歴を持つそうだ。どういうきっかけで指揮者と出会い、どういうきっかけでタクシー業界に来たのかは不明である。むこうもこちらも、ただ、芸術を愛するというだけで、演奏歴も鑑賞歴も互いに不明であるが、相手の言いたいことが通訳無しで伝わってくるものがある。
    同じ職業ならば、研究者同士、大工同士、言葉が通じなくても相手の言わんとすることがツウカーで通じることがある。同じ作品を聞く人は、日本人であろうが外国人であろうが、言葉以上のものを共有する。同じスポーツを愛するものは、一緒にプレーするだけで、共鳴しあうものがある。サッカーボール一つで、インドの青年、ドイツの青年と言葉なしで交流することができる。
    一神教は一神教同士、多神教は多神教同士、相通じるものがあるはずだが、世界から紛争が絶えないのは、本当の利害関係を宗教対立でごまかしているからという話を聞いたことがある。
    この運転手が言うには、朝比奈はベートーベンの第九を「9曲こそ西洋クラシック音楽のバイブルと口癖」し、齢80を過ぎた頃、「最近やっと少しベートーベンの交響曲が見えてきたような気がする。」と述べていたという。シラーの求めた平和メッセージとそれを音で表したベートーベン。言葉以上で通じるものを世界で共有できないものか。

    12月3日のニュースより、大阪駅前の再開発について


    • "アバター"
    • 市のエコスタジアム案と府の森案?があるらしい。カタールが決まった以上、大阪でW杯はない。エコスタジアムはカタールにつくりに行こうか。日本の技術者、労働者がカタールでエコスタジアムを作る。そして、稼ぎを日本に持ち帰り、日本経済に還元するのだ。
      どちらかといえば、森案のほうがいい。森のテーマパークだ。狼もリスも鹿もいるブナの天然の森サファリパーク、世界のアニメファン待望の妖怪の森(子どもはトトロの森)、恋人がデートしそうなメルヒェンの森(子どもはお菓子の家)、鮎のわしづかみができるオートキャンプ場兼ホームレスキャンプ場兼世界のバックパッカーご用達テント場(ここでは、意気投合すると新たな雇用が生まれ、ネイティブスピーカーとただで外国語会話の練習もできる)。
      公園の管理は、ホームレスを優先的にやとい、間伐、落ち葉は冬にキャンプ場の焚き火で燃して貰う。
      いざとなれば、酪農を含めた混合農業も可能だ。
    実際はつぎつぎとビルが立ち並んでいる大阪駅北部。昨日歩いてみると、クレーンが生き物のように動き、労働者が出入りし、久々に活気があるかに見える。何かをこわし、生産し続けることで、都市が動き続けているという好印象を与えている。閉塞感がない。

  • 何かを作り出すということは、人類が動物から抜け出すきっかけ。文化の始まり。それまでは大地のみが可能であり、しいて言えば女性の出産が唯一の作り出す営みであった。
    原子や物質が循環するように、貨幣が、サービスが循環していく社会。活気がある社会というのは、同じところにじっとして動かないように見えながら常に生み出され、新しい原子や物質に置き換わっている社会ということか。極相林のように。大阪のクライマックスはどんな姿なのか。
    • イベントの例。
      バレンタインやクリスマスにはリアルもみのきに電飾、
      小さなもみのきには食べられる安価な果物や菓子で飾る。
      ハロウィンには、アニメの森でワールドコスプレ大会を行う。
      森の中の移動は、電気自動車またはミニ電車を走らせる(サファリも同様)。
      映画のロケも誘致する。
      夏には、OLが気軽に水着で日焼けを楽しむスポットもあり?森の湖のリゾート感覚のコテージ。
      正月には、日本の伝統ある遊びを外国人に体験させる(凧揚げ、こま回し、羽根突き、蹴鞠など、貸し衣装あれば記念撮影付がなおよし。もちろん、忍者の手裏剣投げダーツもOK)。
      園内の屋台は、子どもが子ども店長となり、交代で運営する。園内の飲み屋系は高校生大学生店長と大学生バイトに任せる。昔の梅田にあったたくさんの小さな居酒屋にも協力していただきたい。

  • もう、いいつくされてどこででもやっているのだろうが、とにかくあるもの使って住民参加、最初に回転させる起爆剤、そのエネルギー源が必要だ。

    地球外生命体の新タイプについて

    "アバター"

    • 以前から、水(酸化水素H2O)の代わりに硫化水素H2S、という話しは聞いたことがあるが、リンPの代わりにヒ素Asもありだとか。
      とにかく、地球で液体の成分でなくても、その星で液体であればよい。また、ウイルスのような遺伝子でできたもの、結晶でできた生命体も存在するかもしれない。
      地球の常識以外の発想が大切だ。
      そして、探査機でその星を汚染しないよう、探査機が地球の微生物を連れて行ったり、あるいはエイリアンを持ち帰らない工夫が大切だ。
      ちなみに、宇宙に住む私たちも宇宙人だ。私たちはみな、異邦人エイリアンだ。

  • 地球外生命体について想像するとき、生命とは何か、性とはなにかが人類に問われている気がする。「宇宙人は人間の形をしている」から「タコやイカのような軟体動物?」といった空想もあった。
    今は多細胞生物とはかぎらず、単細胞生物の可能性をも予測している。
    そもそも、細胞でできているのか、地球にある元素でできているのか。
    原子とはまったく別の粒子でできている可能性もある。形や質量がないかもしれない。
    それらは増えるのか、それとも増えないのか。増えるのが生命なのか。変化していくのが生命なのか。生命の定義を、性別の定義をゆるがしていく。

    鳥インフルエンザは強毒性


  • "アバター"
    • 去年は中毒性の豚インフルから新型インフルエンザに突然変異しました。
      インフルは、渡り鳥から人と共通点の多い豚に移ると人に感染しやすい強毒性の新型インフルエンザに突然変異する可能性がある。
      昨年はたいしたことが無かったからとたかをくくらず、
      地道な警戒が必要。オオカミ少年になることを恐れるな。
      死んだ鳥にはむやみに触らない。大量死は隠さない。
      日本の誠実な態度が、世界の大流行を防げる。
      日本が隠すと、社会的弱者や、発展途上国の死者が増えます。

  • 予防に金をかけすぎるのは保険に金をかけすぎるのと等しいが、
    それでも無保険で大病や大災害に見舞われることのリスクと同等であると考えると、
    「予防」という名の保険をはっておく方が社会コストが少なくて済む。
    特に、人材、子ども達を失うと少子化日本は痛手が大きい。

    災害は人災である。特にウィルス性の疾患は、人口過密、グローバル化によってもたらされた。人類の移動が緩慢な昔ならば、免疫がつきながら蔓延する余裕もあった。町を村を封鎖さえすれば、いくらでもウィルス進入を防ぐことができた。今はそれができない。人間の叡智でできた都市は同じく叡智で守らねばならない。

    地震も水害も、狩猟採集の太古ならば、ごく局地的な災害であり、復旧も速やか。地震により火災が広まることも、救出が遅れることも、水や食料が尽きるようなことも太古では考えにくい。人口過密の都市であるからこそ、ビルの倒壊、エレベータ閉じ込め、地下街の水没が起こる。
    そして、公民館や体育館での避難生活、仮設住宅等が必要となる。
    親戚や近所づきあいも希薄であるため、個人や個々の家が孤立する。

    その人口に見合った井戸や畑がないために、周辺地域から輸送しなくてはならないが、そのための鉄道や道路も破壊される。

    その点、田舎へ行くほど安全である。田舎のよさ、小さなブロックで全てが解決するコンパクトさを、都市ももたねばならない。現代の都市は、進化しすぎたホ乳類のようである。抜けた歯はさめのように替え歯が無く、切れた手足はミミズのようにそのまま動き続けることはない。ミミズのように(あるいは電車のように)、小さなユニットが集まった生き物は、損傷に強い。都市も擬似的な生命体ととらえると、市町村ごとの独立性、県毎の独自性があるほうが災害時、緊急時に強い。平素は一つの国家として機能しながら、緊急時には迅速な対応がここの市町村で取れるような体制があれば、ミミズやムカデのような損傷に強い都市になれるはず。