2011年5月29日日曜日

2009年フットサルとジム及び2010年その後

11月に体力づくりと小遣い稼ぎ&ちょこっとボランティアということで、前年度お世話になった、有田市千田の古川農園に3回ほどお邪魔して、収穫作業を手伝ってきた。手伝いと言っても、本格的な運搬作業である。2日~3日ずつ、朝の8時から5時ごろまで、収穫したみかんをモノレールまで運び、10個溜まったら、道路わきのトラックまでモノレール(丁度、草刈機のような、エンジンで動く)で下ろして、トラックに積み込んでいく。有限会社では、多いときは半日で20kgコンテナを120杯以上積んだものであるが、ここ、古川では、70代のご夫婦と近所の50代の女性の3人でほそぼそとやっている。3人分を運ぶだけであるので、せいぜい、半日で40杯ほどである。
ここで、不幸が襲った。20度を越える異常気象で、半袖のシャツ一枚で作業していたところ、20kgコンテナで胸部表面を挟み、挫滅損傷したのである。そのときは、まあ、すぐ治るからいいやと思っていたが、12月末になっても傷が化膿してうずき、天王寺の形成外科にいったところ、化膿止めを飲んで半年様子を見ましょうといわれた。
4月からの就職活動用のリクルートスーツを、和歌山の近鉄で注文してあったのを回収し、合唱の友人とお好み焼きを食べてから、古川へ。友人としっかり発声練習して、元気に収穫作業に勤しみ、古川亭の離れで、いいちこの差し入れで一杯やりながら、地学の問題集の復習をする。この頃、授業で7月や8月のように一定の音色の大きな太い声がでていた。3回の収穫作業で、かなりいい声が出るようになり、ルネッサンス泉大津の週4回のジムをやめ、コスパ鳳に転戦する。二回ほど、ジム通いをしたが、その後、何回か通っていたフットサルの初心者から中級者のいるクラスで、ゲームを何セットか行う。フットサルは、学生時代のミニゲームのようで、思ったよりも膝に負担がかからず、身体に合っていた。
最初、髪の毛がロナウジーニョのような長さの頃は、結構いいパスをもらって、ドリブルシュートをしていたのだが、この頃、職場で男らしく髪をもっと短くしたらと、同じ学年団の女性に言われ、断ったところ、「いやなら、私が切ってあげる。いつも、小学生の息子に、私が切ってあげるというと、自分から切りに行く」というので、恐れをなして、整えに行ったところ、パーマを当てたため、さらに短く若返り。せっかくの年末に購入したリクルートスーツが、本当に新卒のリクルートスーツのようになりそうで、あわてた。
正月休みの10日間、自宅で生物や物理の復習をしながら、コスパではなく、再びルネッサンス泉大津に戻り、上半身の筋トレを中心に鍛えた。一ヶ月10kgずつ増やし、40kgくらいの負荷であったと思う。しかし、一ヶ月以上、授業のブランクがあったため、1月8日に久しぶりにしゃべると、近い距離では普通に誰とでも会話できるのが、大きな教室で、7月や8月のような後ろまで太くて響く声が、もはや出なくなっていた。授業に間に合うか、またまたピンチ。さらに、年末にいためた胸部表面はとりあえず化膿は止まったが、まったく治る気配がなかった。
1月4日に、梅田のジャック&ベティでニューハーフショーを見に行き、ヌードを堪能した後、十三に転戦、そこで、黒装束のグループが「菰池 環という人を探して欲しい」と打ち合わせをして解散しているのにでくわす。裏階段から今度は別のスナックに行き、そこで閉店まで飲み明かし、近くの東横インで宿泊。めがねが無く、朝さがしているうちに、教頭に1時間遅刻すると電話する破目に。とんでもない仕事始めであった。
秋に教育実習に行ったのが災いし、「ほんとに教員免許持ってんの?」というブラックユーモアが笑うに笑えなくなった。というのも、教育実習先で10人学級で授業を行っているうちに、本当に教室の後ろまで声が飛ばなくなってしまっていたのである。一ヶ月ほど、授業できちんと、年相応の大きな聞こえやすい声がでるか、学年主任の小林先生らに、まるで教育実習のように監視監督されることになった。迫力ある大きな声が自慢の菰池は、歌の練習さえ復帰できたら、かなり声量が戻るのだが、皆がそば耳を立てているため、マンションでも大声で歌うことが出来なくなってしまった。
化学の授業の準備をする時間も、生徒に分かりやすく説明する工夫をする時間も、失われた。井上先生が、「他校のベテランの再任用(後日、菰池を“再度任用”にするという話につながる。)教諭に来てもらう」、「Iさんという20代男性(前任の化学の常勤講師か?)に、4月から常勤講師で来てもらう」などと理科会でほのめかした。井上先生は、菰池が他校に行くことを願っていたのか、、、しかたがなく、大阪府がダメだったことも考慮し、保険をかけて、大阪市の講師登録を行った。さらに、リフレッシュ及びタマッサージと胸部の治療のためにタイのバンコクに行こうとしたら、本籍地を長野県から大阪に移動してあったために、パスポートが使えなくなっていた。あわててパスポートの写真を撮りに行き、仕事を早退して申請、受け取りに向かう。
この1月下旬の時点で、とても大阪府の教職員の真面目な就職の話とは思えない、すでに本気とも冗談ともつかない会話になっていた。1月の「菰池は何もしなくても就職できる」という話がいつまでも頭にこびりついている人、「タイで美容整形で顔を変えて国外に逃げる」、「爆弾を持って飛行機で自爆テロを行う」と、笑うに笑えない勘違いした人々などが、善意からタイの病院とのメールやりとりなどの妨害に走り、1月の泉南の内臓の手術だけでなく、2月のタイの胸部形成手術もうけられなくなった。無事に帰国したのもつかの間、3月になると、美容整形のデマが一人歩きし、豊胸してニューハーフになったであるとか、パーマをかけてアッシュグレイにしたためにマイケルジャクソンになったのかと冗談を言われ、真に受けた生徒をなだめながらテストと採点、成績付けを終える。3月後半になると、1月に手術しそこねた内臓が痛み、血尿を出しながら、痛みに耐えながらの330日の勤務となった。府に2つ、市に1つ内示をもらっていたのだが、残念ながら、家族の反対により、4月から泉大津市に引っ越し、民間の会社に転職することとなった。くわしくは、The Shinoda World Diaryを読んでくだされば幸いだ。

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