2011年5月16日月曜日

酒乱たまらんイラン旅行(2003年6月)その3

酒乱たまらんイラン旅行(2003年6月)その3

<イランの生活水準>
消費大国の日米のようなことはないが、少なくともアンティークを尊ぶイギリスやドイツ並みの、物があふれた生活といえる。円高為替レートのため、給料は日本より安いかもしれないが、産油国の安い交通手段、よく整備された道路網。食糧も豊富で暮らしやすい。洋服店に並ぶ服も、ジーンズあり高級スーツあり、カジュアルもフォーマルも日本と大差ない。電器店にいくと、ジューサーやミキサーや、欧米によくある大きなマシンが売られている。革命までは完全に西洋化していたのだから、この水準は当然といえるだろう。貧富の差が少なく、どの家にも高価なペルシャ絨毯が敷かれているのだから、安アパートの百円ショップ住まいの日本とどっちが生活水準が高いか、単純に比較するのは難しい。
携帯電話がここ数年、韓国台湾香港でも急スピードで普及しているが、イランも同じ。ビジネスマンだけでなく、ごくごく庶民が当たり前に使っている。夕涼みの場所取りか、おじさんがひとり、シートの上で友人とたわいもない会話を携帯で交わして、時間をつぶしていたのが、印象に残っている。

<イラン人の気質と歴史>
男も女も大声で話し、がはは!と豪快に笑うイラン人。関西や、韓国の釜山や済州の市場にいる感じのにぎやかさだ。特に男性の場合は、イタリア人かと思うほど、ラテンの乗りの陽気さがある。自己主張の通し方などは、有田のミカン農家に通じるものもあり、どっちにしろ、よその国に来た感じがしない。
イランでは自己主張は大切。でも、引き際も見事である。くどくどとねちっこくない。観光客に群がってくる客ずれした客引きも、こっちが妥協しないとみるや、あっさりと引き下がる。かけひき上手である。エマーム広場のカーペット売りは、名刺を配って日本びいきを強調したけれど、あんまり店には引き止めなかった。インドやトルコの方がよっぽどしつこかった。しかし、広場の出口で待つ別の男性に、「いまからこれこれの人相の日本人が向う」と携帯電話で知らせることを忘れない。別の男性が、さも偶然通りかかったように装って、近寄ってきて、親しくなったところで、カーペットの話を切り出すのである。さらにこちらが断固として断ると、相手は脈無しとみるや、これまたささっと去ってゆく。見事なお手並みだった。かつてシルクロードで、すれていないヨーロッパ商人は手玉に取られたことは間違いない。きっと、あの手この手でありったけぼられたことだろう。ヨーロッパ人のイスラム商人に対する誤解は、こんなところから生じたのかもしれない。
イランの人々を見てみると、島国の温和なやり方ではとても生き残れなかったであろう、苦難の歴史がうかがえる。コムギ発祥地のメソポタミア文明の近く、カスピ海の南の肥沃な土地に、インドヨーロッパ系のアーリヤー(イラーン)人が南下してできたのが、中央集権国家の「アケメネス朝ペルシャ」(B.C.550年)。地中海文明にどっぷり染まった後、アレキサンダーに征服されてしまう。そこに遊牧民族が南下して、「パルティア」の建国(日本の弥生時代)、続いてイランの民族色の濃い「ササーン朝ペルシャ」が建国(A.D.226年)。7世紀にアラブ人に征服されて、イスラム化する。その後、トルコ系、モンゴル系の侵略を許し、19世紀にはイギリスとロシアの半植民地と化す。侵略と征服の繰り返しだ。
世界にもまれているイランの人々は、自己主張はっきり、誇り高く、卑屈にならない。20世紀半ば、ときのイランの王様が目指したのは急激な「近代化=西洋化」で、貧富の差が拡大。1979年にイラン革命が起こり反米政策がとられる。8年間のイランイラク戦争の後、1997年以降は穏健な政策。私の旅行中では、アメリカ文化の象徴であるミッキーマウスもコカコーラもあふれていた。しかし、7/3の、アメリカがイランの民間機を撃墜した事件の日には、海に浮かぶ死体のシーンが繰り返し放映され、「残酷なアメリカの行為」が強調されていた。アメリカ文化に少し近寄ったからと言って、アメリカ批判を忘れたわけではないのだ。時代がいかに変ろうとも、たくましく生き残ってきたイランの人々は、言葉は悪いが、関西のおっさんおばはん的に「ずうずうしく」「あつかましい」のである。というわけで、イランでは関西の電車の乗り降りといっしょで、行列というものが守られたためしがない。老いも若きも、割り込みまくる。買物も、値切らな損、ぼられたもんがあほう、というわけだ。
イランも建前と本音がある。規則を守るのは風紀警察が目を光らせているからで、裏では何でもありな所である。国を挙げてイスラムを実践しているわりに、旅行中、日に何度かのお祈りをしてる人をたった1人しかみかけなかった。隣国パキスタンの方がよっぽど敬虔だった。ある外国人ムスリムが、「お祈り場所を教えてください」と若いイラン女性に聞いたところ、彼女が「ええっ!うっそー!おいのりぃ?」とでもいう風に、大爆笑していた。海水浴場も男女別々が建前だが、広い海岸線。てきとーに人気のないところでベールをとって男女で海水浴っていうのもOK。服装の規則も、外見だけなので、チャドルの中にミニスカートをはこうが、スカーフの中が茶パツでパーマだろうが、なんでもあり。これが、何度侵略されてもしぶとく這い上がってきたイランのパワーなのであろう。

<しもたまから見たイランの本音>
と、ここまでたんたんとイランを書いてみたものの、私の体験したイランはそんななまやさしいものではなかった。観光に専念できるまで、まる3日はかかったのだ。
海外で手術を受け、死亡して有名になったイランの双子の姉妹がいたが、頭部の接合した彼女らがいかに周りに嘲笑されたのか、なんとなく想像がつく。ラテンの乗りの明るいイラン男性でも、イランより生活レベルの低い外国人に対する優越感がみかけられる。アジア人なら、中国人を見下しているし、近隣では、アフガニスタン難民を見下している。そんなイランの人々をみていると、鏡に映った日本を見ている気がする。日本でも、日本に来たイランの人をこんなふうに見下してはいないだろうか。イランの女性が私を遠慮なくじろじろ見て笑うように、日本に来たイスラム教徒の女性のかぶり物を、じろじろ見て笑っているのではないか。イランの人に負けず、近隣のアジアの人に、優越感を抱いていないだろうか。
そんな風に比較してみると、日本の服装も、他の国や他の時代から見ればキレテレツかも知れないとも思う。今の日本ではあたりまえの、ミニスカート(立ったり座ったり、立ち居振舞いに気を使う)や、ブラジャー(かつてのコルセットのように体を締め付ける下着)も、女性の自由な行動を束縛するという意味では、チャドルやスカーフと大差がない。気にならないのは小さい頃から見慣れているだけである。日本も、流行という名の「風紀警察」に服装が左右されているのではないか。
男女平等をうたった日本でさえ、社会に出るとなにかしらあるものであるが、イランでは間違いなく、女性の能力の何割かが閉じ込められていると思ってよい。しかし、イラン女性に外からとやかく言う前に、日本こそ自分らしい服装や生き方を、自由に選んでいくべきではないか。

<あとがき>
こんなわけで、「巨大テーマパーク」イランは、現在日本を考えされられる旅でもあった。イランは古代ペルシャ帝国が生きづく国でもあり、もちろん現代文明が日本と同じく平行に流れる国でもある。イラン革命のために、西洋と文化の違いはまだ大きく、女性社会と男性社会に差はあるが、このまま穏健政策が進めば、どちらもせばまることであろう。それがはたして、イランにとってよかったのかどうかは私にはすぐに答えられない。まだ、イラン南部もみていないし、トルコよりの山岳地帯もみていないので、これがイランのすべててとは言わないし、年々変わりつつあるイランのこと。次にいったらもう、スカーフはいらなくなっているかもしれない。ペルシャ絨毯とその客引きだけは、数百年後もありそうだが、、、イランとは、つかめそうでつかみ所のない、そんな国のようだ。そうこうしているうちに酒が切れてきたので、この辺で筆をおくことにする。
                ほんとうはさほど酒乱ではない  しもたまき

この文章は2003年に和歌山県勤労者山岳連盟、「紀峰山の会」会報に連載されたものの転載です。内容は2003年のものであり、現在のイランではないことをお断りいたします。
                              しもたまき

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