四国八十八ヶ所の第三弾、今回は愛媛を飛ばして香川県の旅。テレビでは、おしゃれで有名な卓球選手が春と秋に少しずつ歩いていて、「歩き遍路」もブームであるが、私の場合は車で廻る、三泊三晩の旅であった。
この2008年4月に町内のツアーで高知県をまわり、すでに一番から四十三番まで四国の南半分をおまいりしている。団体の旅はお作法や読経の勉強になるうえ、連れて行ってもらいラクチンだ。来年4月には四十四番から六十五番(愛媛県)の続きが行われる。それまでに個人で六十六番から八十八番まで廻っておくと、4月にいったときに一周できることになる。北東の香川県は、和歌山から近く、お寺もかたまっているため、一人でも廻りやすい。予め、高松市内にビジネスホテルを2泊予約しておき、そこを拠点に3日で廻ることにする。
10/2 21:35和歌山港発 - 23:25徳島港着(南海フェリー)
23:45ごろ徳島インター - 0:45ごろ井川池田インター(徳島自動車道)
10/3 六十六番 雲辺寺 - 七十五番 善通寺 高松市内泊
10/4 七十六番 金倉寺 - 八十五番 八栗寺 高松市内泊
10/5 八十六番 志度寺 - 八十八番 大窪寺
13:30徳島港発-15:40和歌山港着(南海フェリー)
軽くラーメンで腹ごしらえをし、18時に紀峰のミーティングにでかけた。班会議の途中で20時ごろ抜けて、フェリーの切符を買うために和歌山港に向かった。ここで、しっかりと2時間眠って、早朝の登山に備えるのだ。ぐっすり寝て目覚めると、四国、徳島。2年前は地図が無く国道55号を探しても見つからず、一番目のお寺(霊山寺)まで迷って大変だった(あとで、南に行くなら55号だが、北に行くなら国道11号でよかったことを知る。そもそも、当時は小松島港に着くと思って下りたのだが、実際着いたのはもっと北の徳島港だったではないか)。今回はそのときに買った四国の道路地図があるので大丈夫、と思いきや、やはり徳島インターまで迷う。夜中のため車がすいていて、地図を見る間もなく進めてしまうからだ。途中、道端に止めて地図を眺めながら、国道11号にたどりつく。徳島自動車道もがらがらで、時速80km以上出せたので、徳島県の最西端、井川池田インターへ1時間弱で到着する。ここで、登山道を見つけるのに苦労する。歩き遍路が行く登山道。車で廻る人は、たいていロープウェーで行くので、登山道を示すわかりやすい道路標識がない。県境の「境目トンネル」の手前という漠然とした唯一の手がかりをもとに、32号阿波別街道や192号伊予街道をうろうろする。ようやく、伊予街道のわき道途中に、それらしき小さな看板を見つけたのが、深夜一時半ごろ。大型トラックがぶんぶん行き交う国道沿いの小さな交番を見つけ、そこの前で3時間半仮眠する。セーターにヤッケに、着られるだけ着る。まさか、交番の前で何も起こらないだろうとここでも熟睡。どこででも寝られる菰池は、便利である。
5時前に起床するが、あまりに暗く朝もやで迷いそうであった。家にヘッドライトをおいてきたことを後悔する。さらに、小さなリュックサックすら持ってこなかったことを非常に後悔する。しかたなく、へんろの白い肩掛けかばんに、黒い手提げかばんという、登山ド素人のいでたちで、標高200m地点より900mの雲辺寺をめざす。薄暗がりの5時15分に登り始める。車へんろ地図には3.5km徒歩2時間とある。それを信じ、7時ごろに登頂予定である。始めはアスファルトの舗装だったが、次第に浮石ゴロゴロの紀州の登山道らしき斜面となる。登っても登っても、中腹に出る気がしない。白いズボンのすそはどろどろ、全身汗だくで、かばんの紐からしたたる黒い汁が白い装束(おいずる)にすじをつけていく。右側から朝日が昇ってきた。もやが消え、空が澄み渡ってきた。1時間ほどたって2km以上歩いた気がした。平らな草原が現れ、アスファルトになり、歩みを速める。このままでは、午前中がこの寺でつぶれてしまう。3日で88番まで行けなくなってしまう。焦りが功を奏し、7時15分ごろ、六十六番雲辺寺に到着。携帯で寺の写真を撮り、メールに添付して家族に送る。1200年前の昔から、現代につながる瞬間だ。
今回は、般若心経以外のお経の節回しも覚えているので、ちょっぴりバージョンアップした気分。「納め札」という願い事を書いた紙を箱に入れた後、さも、ずうっと参っているかのように、もったいぶって朗々と唱える。が、最初の寺ではやはり、気恥ずかしさが先立ち、声にならない。不思議なことに、小さな声でぼそぼそ唱えると、だんだんと喉に負担がかかるらしく、この日は喉がかれた。翌日から、腹の底より力をこめて声を発すると、声は良くなり疲れにくくなった。さて、本堂と太子堂とそれぞれお参りした後、いよいよスタンプをもらおうと「納経所」というところに出向いた。ここでも、以前の失敗を生かし、きちんとスタンプ帳(納経帳)をたたんで渡し、お坊さんが、「ロープウェーでこられましたかぁ」と御陰影を手に尋ねられたので、「いいえ、歩いてきました」と言うと、ええっというなり手が引っ込められてしまった。下から歩いたにしては、どうやら早く着きすぎたようだ。納得してもらえず、ついに、その御陰影を下さいと言いそびれるしもたまきであった。あとでこの日記にうだうだ書くぐらいなら、その場で「ところで御陰影(ごいんえい)も欲しいんやけど」と言えばいいのに言えない。我ながらなさけない。帰路でも、軽トラに乗った若いお坊さんに、駐車場に車ないけど、どこに止めたのかと聞かれ、下から歩いたといってもすぐに信じてもらえず、懸命に、交番の前で泊まり、神社の空き地にとめたと無実を訴え、ようやく、そんな下から歩いたんですかぁと驚かれた様子だった。山の会の人なら、たいしたことのないミニ登山であるが、なにせ、街中を歩くような軽装だったもので、誤解されてしまったのであろう。
下山は、速や足で速歩のように駆け下り、1時間少々で車までたどり着く。あまりにどろどろなので、次の寺に行く前に身を清めることにした。朝から温泉だ。次の六十七番の寺に行く途中に、たからだの里「環(たまき)の湯」というふるさと創生一億円で建てた施設があると調べてあったので、そこにむかった。名前の怪しさと同じくらい、外見も風水に凝った贅沢で怪しい施設であった。風呂はもったいないほど空いており、“後期高齢者(もはや、死語か)”と思われるグループがちらりほらり。やはりここも赤字経営か?体がさっぱりして、次はおなかがすいてきた。昨夜はラーメン、朝は5時におにぎり。運動量の割にボリュームが軽すぎる。炭水化物ばかりだ。ここで腹ごしらえと思っていると、うまい具合に手作りパン屋、モーニング450円パン食べ放題とかいう看板を見つけた。トースト、サラダ、卵、ソーセージ、コロッケ、ブドウ、コーヒーゼリー、ホットコーヒーのセットに、プラス食べ放題の菓子パン。翌日、翌々日の朝食のパンも買い込んでおく。ここで、すかさず現在地を店の女性に確認しておく。それでも、迷い、六十七番大興寺についたのは、かろうじて午前中という有様だった。3日間のたびで、初日の午前中に2ヶ寺とは、間に合うのか。以後、遠回りであっても、道路標識どおりに行くことにする。
その後は、寺と寺の距離が近く、あっという間に廻れた。個性あふれる寺の数々であった。七十一番の弥谷寺では、200段近くの階段を昇降し、帰りに名物のあめ湯を飲んでみた。あめ湯は特別うまいというわけではないが、しょうがたっぷりで疲れが癒され、店のおばちゃんと、餌付けしている小鳥の話で盛り上がった。「鳥は話ができるんやろか、一羽が餌場に来ると仲間が集まってくる」とか「カラスは、仲間思いで、一羽が撃たれると、仲間がおそろしいほど猟師を取り囲んでしまい、猟師が3000円もらっても、もう二度とカラスは撃ちたくないと言うほどやった」とか、おばちゃんの話は、実際の観察にもとづいており、「動物の行動」のお勉強にもなった。
その日最後の七十五番善通寺では、ビルマやタイの寺院のような建物もあり、外国の寺めぐりをしているようであった。大勢の観光客に賑わい、親子連れも多数いた。線香をたてているとき、遍路の男性が「スズメバチや、危ない、子どもが刺されたら大変や」と、そばの若い母親に注意した。みると、煙に吸い寄せられるようにスズメバチが旋回し、子どもたちの2mくらい上空で、遊ぶ子どもの振る手が蜂に対する攻撃かどうか、迷っているかのように近づいては遠ざかって警戒を強めていた。母親はへんなおっさん、なにいってんのといったかんじで、にこにこ見守るばかり。ついに蜂が子どもの手の1m前まで近づいたとき、菰池は見ていられなくなり、駆け寄ってその子どもを抱えて、その場にしゃがみこんだ。蜂はようやく子どもから離れたが、まだ、上空を旋回している。20代の母親はようやく子どもの危機を知り、私に「どうもありがとうございました」と過去の出来事のようにお礼を言いに来た。スズメバチがまだまだ私たちのすぐそばを旋回中にもかかわらずである。「まだ、蜂はそばにいますよ」と声をかけたが、その場を急いで立ち去る様子も無く、いたって気楽そうであった。もし実際に2~3歳の子どもがスズメバチに刺されたら、パニックになってやれ救急車だ、寺を訴えるだの言いそうにも見える。まれに、2回目に刺されて、毒のアレルギーでショック死することもあるのだ。そうなる前に、それぞれが予防できればいいのだが。蜂の怖さは耳で聴いて覚えるものではないのだろう。自然と親しむことは、身の安全を学ぶことだと思った。
お遍路の初日(2007年10月3日)はなんと10ヶ寺も廻ってしまった。香川県西部は金刀比羅宮(こんぴらさん)の周辺で、神社仏閣のひしめく地域と言う感じ。高松市内のビジネスホテルは、インターネットで予約した。お遍路割引というのがあり1泊4000円という格安だ。宿代が浮いた分食事にまわそうと思い、夕食は宿の近くの韓国風石焼の焼き鳥にいき、生ビールまで頼んでしまった!お遍路=酒禁止ではないことを、団体のツア-で学習済みであり、普段着に着替えてどうどうと注文できた。疲れていて、寝つきも良く、目が覚めると6時前であった。寝坊だ。
翌日10/4はやや曇りがちであるがよい日和。顔が日焼けで腫れてくるほど、紫外線が強い。七十六番金倉寺も、携帯電話で写真を撮りメールで送る。一人旅なので、家族や職場にいつどこにいるかの連絡が欠かせないが、こんなとき、メールが手軽にできる携帯電話は便利だ。金倉寺は住宅街の中の、静かなお寺だ。ずうっと近くに寺が続き、5ヶ寺まわると、まだ10時半という具合だった。次から山の上の何もない寺が続くことが分かっていたので、やや早いが昼食をとっておくことにした。というのも、朝、国道沿いにベルギーチョコソフトの旗がはためくコンビニをみつけたが、「朝っぱらからソフトクリームはないよな」と思っているうちに、暑くなってきたころに限ってまったく見当たらなくなって悔しい思いをしていた。昼食も、取れるときにとっておこうと、国道を10㎞も戻り、坂出市内のインド系シェフが2人いる本格派インド料理のレストランに行き、マトンサグ(羊肉とほうれん草のカレー)を注文した。緑色のカレーで、久しぶりに緑黄色野菜たっぷりのおなかに優しい昼食となった。
13:10、八十一番のお寺白峰寺に行く。瀬戸大橋を眺め、またもやメールに添付して送る。天気が下り坂で、かすみ始めており、送った写真もどこからどこまで橋だかよくわからない駄作だった。2年前の屋島からの瀬戸大橋は、とてもくっきり見えたのだが。そこの百万ドルの夜景に、今度は昼間に来て参るぞと、誓ったものであった。ここ白峰寺で、高知県ナンバーの観光バスとかち合うようになった。バスから大勢のお遍路さんが降りてきて、拝むのも納経所もスムーズに進まなくなってきた。唱えるお経も違い、拝みにくいなあと思っていたところ、次の根香寺で美しい御詠歌の響きが聞こえてくるではないか。近づいてみると、高知の団体だった。そばでいっしょに唱えたところ、向こうも喜んでくださり、その後の一宮寺でも一緒におまいりすることになった。高知のどこからか聞いたところ、高知県の北部、さめうらダム(全国ニュースで貯水率が流れる)の近くからという。話し方はもちろん高知弁。なんだか、高知出身の祖母と一緒にお参りしている気がして、つい、懐かしい感じがしてしまった。次もご一緒かと期待していたら、今日はここまでという。残念、屋島寺には一人向かうことにする。
八十四番屋島寺は4年前、実家大阪の祖母が96歳になろうというときに、生まれて初めての四国参りを試みて、救急車のお世話になって強制入院。無念の帰阪。涙を呑んだ寺だ。老衰で亡くなり、屋島寺が最後の寺となった。今度こそ、祖母の話を聞いてみたい。ドライブウェイで壇ノ浦を見下ろしながら登り、観光客とカップルでにぎわう山頂に向かう。昼間に来ると、ますます、こけるような石段のない、平坦な普通の寺だ。納経所で女性に、4、5年前95、6歳の祖母がころんでここで救急車を呼んでもらったのですがお世話になりましたというと、「私は当時土産物屋にいて、救急車のことは覚えています。確か、東門の石段で、足を踏み外して仰向けにこけたのです。お元気でいらっしゃいますか」とおっしゃった。「祖母はお陰さまで軽傷で済みました。その後老衰で亡くなりました。ここが最後のお寺でした」述べたところ、そばのお坊さんも、「そのおばあさんなら、こけた後自分で立ち上がれないほどだったので救急車を呼んだのですよ」と、まるで言い訳するかのように言った。女性は「おばあさんは亡くなられたのですか。きっと、満足なさって、成仏なさったことでしょう。こうして、お孫さんが参りに来て、よろこんでいらっしゃることでしょう」ととりなしてくれた。「あのとき、台風の近づいてくるまま倒れていたら、大変なところでした、ありがとうございました」ようやく私は、祖母に代わって、お礼を言うことができてとても満足だったが、お寺の側は、善意でしたことがお参りを妨げたと、心境複雑だった様だ。帰り際、東門の石段を踏みしめながら降りた。二メートル間隔に10㎝降りる程度の、たわいもない階段だけに、手すりも無い。旅で疲れた祖母の足はもつれてしまったのだろうか。傾斜がない分、背の高さだけ思いっきり、後ろに転んだことだろう。95歳一人旅の老人を見て、寺の人はどれだけ心配してくださったことか。
もう一ヶ寺廻っておきたい。そうすれば、早いうちに和歌山に帰れる。そう思い、無理を承知で八十五番、八栗寺に行った。16時45分のロープウェーで上がり、しまる直前の納経所で判を押してもらう。それからゆっくりお線香とおろうそくを立て、お経を唱える。一人静かに唱えるのは気持ちがいい。しんみりした気持ちで、帰りは歩いて30分かけて下山した。さすがに、旅も二日目で、足が筋肉痛になっていた。適当に入ったうどん屋がいまいちで、明日こそはおいしい讃岐うどんを食べるぞっと誓う。
10/5は早朝から雨が降り始めていた。八十六番に着くと、本降りになってきた。実は、雨のお参りは初めて。お作法を知らない。つたない記憶を頼りに、金剛杖にビニール袋を掛け、傘を差して寺に行く。ツアーだったらきっとヤッケを着るように言われただろうか。志度寺は香川県東部の海辺の街中にあり、日曜だからか雨だからか、とても静かであった。八十七番長尾寺では、雨の中、ママちゃりで参拝する男性に会った。この時期、ツアー客は少なく、普段着にかさをかぶった学生さん風の若者が多い。自転車バイク組みも、山道は大変だろうに、健在だ。「車はええなあ。でも、もうすぐ満願や」うれしそうに次の寺へ走っていった。次は最後の八十八番、大窪寺。他の人は、一周したうれしさで終わった寂しさで、記念撮影している。私はまだ、愛媛県が22ヶ寺残っている。残っていることがまだ嬉しい自分がいる。終わったら二週目に駆られる人がいるのは、こんな心境だったのかもしれない。こういうのをはまるというのだろうな。
さて、ここからは標識がない。自分で進路を決めなくてはならない。八十八番までは、決められた線路の上を通るだけだったが、この先は、それぞれのふるさとへ、案内板も無く、めいめい帰っていくだけなのだ。東かがわ市にでて高松自動車道―淡路大阪経由でもよし、徳島自動車道に出て南海フェリーで戻るでもよし。ここで、私はフェリーでのんびり充実帰路を選ぶことにした。県道2号の山道をゆっくりくだり、途中の12号ぞいのスーパーでなるとわかめを購入。そこで、近くにおいしいうどん屋さんを教えてもらう。板野にある丸池という手打ちうどん屋だ。高松市の「るみおばあちゃん」と言う有名な方から伝授されたと言うふれこみの本格派。釜揚げを頼んだところ、目の前でこねてスライスして、10分かけてゆでてくれた。こしがあって、いくらでもおかわりしたくなる味だった。
徳島港では、いきつけのといっても2度目であるがケーキ屋により、二種類のチョコレートケーキを頼んだ。フランス菓子のお店らしく、ウィーン系の油こってりザッハートルテよりも焼き菓子風のガトーショコラのほうがおいしかった。フェリーの中には、アメリカ人らしき、バイクの集団がいて、ここも地中海(瀬戸内海とか、陸に囲まれた海)らしいで、めっちゃ近いなあ、などとたわいもない会話をしていた。私はと言えば、わすれないうちにこの日記の下書きをメモし続けていた。今も、こうしてワープロで打って入る間に、かやの巨木の連なる寺、天井の彫り物のきれいな寺、千体ほどの像がまつられた洞窟、弘法大師の生涯を絵にして飾ってある、まるで西洋の教会のキリストの生涯を描いた絵画風の寺、、、さまざまな寺の風景が次々と思い出されるが、寺の正しい名前は、ガイド書と首っ引きで、ひとつひとつ名称を思い出さねばならない。遍路ツアーなら、メモを手に歩きながら、先達さんに解説をしてもらえて、記録に残しやすい。一人旅の欠点は、観光バスの車内で、拝観後に寺院名のメモを取ったり、地図で調べる余裕がないことだろうか。そのかわり、道中の思い出は、ツアーよりも鮮明である。迷って苦労した寺ほど、記憶に強く残っている。一人旅のほうが、いろいろな人が声を掛けてくれる。人生もそうなのだろうか。
例えば、ベルトコンベアーにのっているかのような学生、結婚育児と追われる女性は、じっくり考える間が無いようでいて、かえって人生を振り返ったり、将来設計しやすいのかもしれない。
あたかも、子どもを見て、自分の子ども時代を振り返り、子どもの成長や家族の定年で、自分の人生も左右されるとか。つきあいは、家族や親戚が中心になりがちである。
独身の場合は、自由なお金と時間があるようで、その日を生きることに追われ忙しい、人生についても自分で設計し切り開いていかねばならない。そのかわり、得るものも大きいし、かかわってくれる他人も多いのではないか。どっちが得とか幸せとかではなく、一人遍路か団体ツアーバスかといった違いなのではないか。自転車で参っている人を見ると、歩くでもなく、ツアーバスでもなく、拝み方も自己流。しかし短期間に自力で一周できるその達成感の大きさを考えると、山中の苦労を考えると、すごい生きかただ。歩かねばお遍路ではないとか、先立ちがいないとお遍路ではないとか、そんなしがらみから開放されている気がする。さまざまなお遍路さんを見ると、そんな風に人生が見えてきたのであった。