2011年5月29日日曜日

2009年フットサルとジム及び2010年その後

11月に体力づくりと小遣い稼ぎ&ちょこっとボランティアということで、前年度お世話になった、有田市千田の古川農園に3回ほどお邪魔して、収穫作業を手伝ってきた。手伝いと言っても、本格的な運搬作業である。2日~3日ずつ、朝の8時から5時ごろまで、収穫したみかんをモノレールまで運び、10個溜まったら、道路わきのトラックまでモノレール(丁度、草刈機のような、エンジンで動く)で下ろして、トラックに積み込んでいく。有限会社では、多いときは半日で20kgコンテナを120杯以上積んだものであるが、ここ、古川では、70代のご夫婦と近所の50代の女性の3人でほそぼそとやっている。3人分を運ぶだけであるので、せいぜい、半日で40杯ほどである。
ここで、不幸が襲った。20度を越える異常気象で、半袖のシャツ一枚で作業していたところ、20kgコンテナで胸部表面を挟み、挫滅損傷したのである。そのときは、まあ、すぐ治るからいいやと思っていたが、12月末になっても傷が化膿してうずき、天王寺の形成外科にいったところ、化膿止めを飲んで半年様子を見ましょうといわれた。
4月からの就職活動用のリクルートスーツを、和歌山の近鉄で注文してあったのを回収し、合唱の友人とお好み焼きを食べてから、古川へ。友人としっかり発声練習して、元気に収穫作業に勤しみ、古川亭の離れで、いいちこの差し入れで一杯やりながら、地学の問題集の復習をする。この頃、授業で7月や8月のように一定の音色の大きな太い声がでていた。3回の収穫作業で、かなりいい声が出るようになり、ルネッサンス泉大津の週4回のジムをやめ、コスパ鳳に転戦する。二回ほど、ジム通いをしたが、その後、何回か通っていたフットサルの初心者から中級者のいるクラスで、ゲームを何セットか行う。フットサルは、学生時代のミニゲームのようで、思ったよりも膝に負担がかからず、身体に合っていた。
最初、髪の毛がロナウジーニョのような長さの頃は、結構いいパスをもらって、ドリブルシュートをしていたのだが、この頃、職場で男らしく髪をもっと短くしたらと、同じ学年団の女性に言われ、断ったところ、「いやなら、私が切ってあげる。いつも、小学生の息子に、私が切ってあげるというと、自分から切りに行く」というので、恐れをなして、整えに行ったところ、パーマを当てたため、さらに短く若返り。せっかくの年末に購入したリクルートスーツが、本当に新卒のリクルートスーツのようになりそうで、あわてた。
正月休みの10日間、自宅で生物や物理の復習をしながら、コスパではなく、再びルネッサンス泉大津に戻り、上半身の筋トレを中心に鍛えた。一ヶ月10kgずつ増やし、40kgくらいの負荷であったと思う。しかし、一ヶ月以上、授業のブランクがあったため、1月8日に久しぶりにしゃべると、近い距離では普通に誰とでも会話できるのが、大きな教室で、7月や8月のような後ろまで太くて響く声が、もはや出なくなっていた。授業に間に合うか、またまたピンチ。さらに、年末にいためた胸部表面はとりあえず化膿は止まったが、まったく治る気配がなかった。
1月4日に、梅田のジャック&ベティでニューハーフショーを見に行き、ヌードを堪能した後、十三に転戦、そこで、黒装束のグループが「菰池 環という人を探して欲しい」と打ち合わせをして解散しているのにでくわす。裏階段から今度は別のスナックに行き、そこで閉店まで飲み明かし、近くの東横インで宿泊。めがねが無く、朝さがしているうちに、教頭に1時間遅刻すると電話する破目に。とんでもない仕事始めであった。
秋に教育実習に行ったのが災いし、「ほんとに教員免許持ってんの?」というブラックユーモアが笑うに笑えなくなった。というのも、教育実習先で10人学級で授業を行っているうちに、本当に教室の後ろまで声が飛ばなくなってしまっていたのである。一ヶ月ほど、授業できちんと、年相応の大きな聞こえやすい声がでるか、学年主任の小林先生らに、まるで教育実習のように監視監督されることになった。迫力ある大きな声が自慢の菰池は、歌の練習さえ復帰できたら、かなり声量が戻るのだが、皆がそば耳を立てているため、マンションでも大声で歌うことが出来なくなってしまった。
化学の授業の準備をする時間も、生徒に分かりやすく説明する工夫をする時間も、失われた。井上先生が、「他校のベテランの再任用(後日、菰池を“再度任用”にするという話につながる。)教諭に来てもらう」、「Iさんという20代男性(前任の化学の常勤講師か?)に、4月から常勤講師で来てもらう」などと理科会でほのめかした。井上先生は、菰池が他校に行くことを願っていたのか、、、しかたがなく、大阪府がダメだったことも考慮し、保険をかけて、大阪市の講師登録を行った。さらに、リフレッシュ及びタマッサージと胸部の治療のためにタイのバンコクに行こうとしたら、本籍地を長野県から大阪に移動してあったために、パスポートが使えなくなっていた。あわててパスポートの写真を撮りに行き、仕事を早退して申請、受け取りに向かう。
この1月下旬の時点で、とても大阪府の教職員の真面目な就職の話とは思えない、すでに本気とも冗談ともつかない会話になっていた。1月の「菰池は何もしなくても就職できる」という話がいつまでも頭にこびりついている人、「タイで美容整形で顔を変えて国外に逃げる」、「爆弾を持って飛行機で自爆テロを行う」と、笑うに笑えない勘違いした人々などが、善意からタイの病院とのメールやりとりなどの妨害に走り、1月の泉南の内臓の手術だけでなく、2月のタイの胸部形成手術もうけられなくなった。無事に帰国したのもつかの間、3月になると、美容整形のデマが一人歩きし、豊胸してニューハーフになったであるとか、パーマをかけてアッシュグレイにしたためにマイケルジャクソンになったのかと冗談を言われ、真に受けた生徒をなだめながらテストと採点、成績付けを終える。3月後半になると、1月に手術しそこねた内臓が痛み、血尿を出しながら、痛みに耐えながらの330日の勤務となった。府に2つ、市に1つ内示をもらっていたのだが、残念ながら、家族の反対により、4月から泉大津市に引っ越し、民間の会社に転職することとなった。くわしくは、The Shinoda World Diaryを読んでくだされば幸いだ。

2009年9月 この歳になって教育実習の巻

今回は「特別支援学校」の免許獲得に奮闘する、教育実習の日記である。サッカー、柔道、登山、声楽、バレエ、お遍路……今までの様々なチャレンジの中で、一番お金がかかったと言ってもよい。費用は全部で261500円である。それでも、教員免許や大卒の資格がない人に比べればはるかに楽である。一からとると、4年間で83万円かかる。お金はかかるが、私立なので、ケアがとても丁寧であり、金銭的に余裕のある人が何か資格を取るなら、仏教大は超おすすめである。
スクーリングは優秀な成績でクリア、全て合格した。仏教大のレポートは、着々と仕上がり、夏休みまでに全14科目のレポートを仕上げた。試験も全13科目のうち、913日までに11科目を受け、そのうち9科目合格した。残るは1018日にある2科目の試験と、2週間の教育実習だけとなった。ちなみに、残る2科目というのは、「病弱虚弱児の指導法」と「同和教育」であるという。病弱児というのは、手術や投薬などで、登校できなかったりケアが必要な子ども達のことである。今はガンの子どもが増加しているらしい。戦後の一時期は、肢体不自由児の学校に、脳性麻痺(小児麻痺)の子どもが増加した時期もあったが、今は減少しているそうである。障害にブームがあるということは、原因に化学物質が深く関与しているということであろう。ちなみに、有機系の殺虫剤は神経を犯し、脳性麻痺だけでなく欝病などの原因も疑われている。ダイオキシンは一般に認知されている催奇性、発ガン性物質であるし、人工甘味料は、学習障害や多動性障害の子どもとの因果関係が指摘されている。子ども達は、膨大な人体実験を行ってしまった現代社会の薬害の被害者なのだ。さまざまな障害を抱えているのは、決して親の育て方が悪いのではなく、急激な工業化や薬漬け農業に責任があり、その子ども達を教育し、自立させていくのは、社会全体の責任であると私は思う。
さて、現在勤務中の高校の、2週間分の自習課題と復帰直後に必要な、中間考査の問題を作成し、教育実習先の3回分の学習指導案を作成し、プリント2枚を用意して、930日を迎えた。最初に職員朝礼でご挨拶。挨拶文は考えてあったし、年の功でこれはクリア。急に高校生の前で自己紹介の時間をとってもらったのには参った。事前に、「上は一般校と変わらない知識や計算力の子どもまでいる」と聞いていたため、どの年齢に焦点を合わせたスピーチがふさわしいのか、想像も付かないのだ。結局、幼稚園児くらいが中間かなあと思い、極力ゆっくりと名前をいって、「一緒に勉強したり遊んだりしましょう」とスピーチを締めくくったが、先生方には不評であった。まず、短すぎた。内容は高校生にふさわしいものが求められていたのだ。
実際に授業にいってみて分かったことだが、どんなに国語や数学が苦手な子どもでも、言葉で返事が出来ない子どもでも、大人の話はかなり理解できているのであった。外国に行って、わかってもらおうと身振り手振りを交えて一生懸命話すと、案外気持ちが通い合ったりする。どうせ分からないだろうと思って話すと通じることも通じない。障害者問題は、外国人問題や同和問題に通じる。障害児教育を学ぶ者は同和教育を学ぶべきだと、仏教大学できいてはいたが、単に差別や人権の話と受け取っていた。相手を尊重し、人と人とが心を通わせるという共通点、教育の原点、あらためてこういうことだったのかと理解する。実習前に分かっていれば、この最初のスピーチで、高2の理科の授業を2週間受け持つこと、趣味や特技など生徒が興味を持ちそうなことを色々話していたことだろう。悔やまれた。
生徒の中には、IQが高くても、握力が無いためにスプーンやゴムのズボンをしっかりとつかめなかったり、あるいは筋肉の麻痺のために思うように口が締まらず、よだれがこぼれる者もいた。一方で、何もかも自分で出来て、学力も高いのに、コミュニケーションに障害のある自閉症の子どももいる。彼らも、自分が人と上手く関われないことで悩んでいるようだった。
スポーツをさせてみると、自閉症という障害についてよくわかる。試合の駆け引きに長けるダウン症の子ども達に対し、体格に恵まれ学力も高い自閉症の子ども達は、味方や敵の意図が読めず、棒立ちになってしまう。防御やパスのために自発的に動けない。やるべき事は解っているのに、今がそのシチュエーションであると言うことを、他人にいって貰わないと気づけない。そんなわけで、ホームルームで、自分の決められた役割は丁寧にきちんとこなせても、休んでいる子のかわりに、あるいは忙しそうな子の手伝いに、なんで積極的に動けないのか、気を利かせられないのか、スポーツする姿で納得した。
自閉症でない子どもでも、気働きの出来ない子供が増えている。そんな子ども達にどう接すればよいのか、あるいは学習障害の子ども達への接し方、色々参考になった。実習に行くまでは自分が特別支援学校が向いているかどうか分からなかったが、少人数教育、6歳から18歳までの一貫教育というのは、なかなかいいものであるとおもったし、フレンドリーで、他人との違いを尊重する、あるいは自分と違う人でも許容する、そんな職場というのは、今どきなかなかないのではないか。とても健全な職場だ。特別支援学校で働くのは悪くない。最後に、打ち上げに韓国料理店で焼肉をご馳走になった。よき思いでだ。
この2週間を得るためのこれまでの苦労を思い出した。3月に必死になって探した実習先。いろいろな方のご協力でようやく得たチャンスだった。今の勤め先には、多大なるご迷惑をかけた。2週間の授業の振り替えの影響は7月末から10月中旬まで続いた。そして、実習先では、若くも無い生意気な実習生相手に、丁寧に指導してくださった。実家の家族の生活をも、2週間蝕んだ。その結果が、この悲惨な研究授業というのがなさけなく、もどかしく、はずかしかった。皆さんに謝ってすむ問題ではなかった。これは、ぜひとも支援学校を受験し、はれて正規の職員にならねばご恩返しできまい。実習を終え、すぐにまた教育実習簿を完成させる最後の作業があり、届けに行ったところ、その日はちょうど遠足で、学年の慰労会に招いてくださった。「是非、うかってうちにきてね」、優しいお心遣いに、目頭が熱くなった。
さらに、仏教大学の最後の2科目の試験が待ち構えていた。勤め先の中間試験の採点も手をつけず、ひたすら受験勉強し、ようやく全科目をクリア。あとは免許状を1月始めに大学経由で京都府教育委員会に申請するだけとなった。ここで、ほっとして気が緩まないよう、私は11月から体力づくりに励むことにした。ミニサッカーのような競技、「フットサル」である。フットサルについてはまた別の日記にて。番外しもたま教育実習日記はこれにておしまい。これまで、プライバシーの関係もあって、学校ネタは極力控えてきたが、今回は明るく元気な一方で、自分自身の能力や心ない人の言葉や態度に悩む障害児達と支える先生方の姿をどうしても伝えたく、ペンを取った。皆様、ご愛読ありがとうございました。    

2008年携帯電話の長所短所

つい最近まで大阪の家族も、有限会社の誰もが、携帯電話を持たなかった。それが昨年末には、気がつけば全員一人一台持っている。携帯がなくても生きていけると豪語しているうちに、あれよというまに公衆電話がつぎつぎ消え、なんだか不便な世の中になってしまっていた。外で友人や家族と待ち合わせをするのに、しかたなく一人一台必要になってしまったのだ。かつては部屋に固定電話をひかずに、下宿の公衆電話だけで過ごす若者も珍しくなかったが、今では小学校の低学年の子どもまでが、固定電話より高いケータイを所持している。10円の赤電話、ダイヤルの黒電話。自分の子ども時代が懐かしい。
持ってみて思うのは、必ず電話会社の儲かるようにできてて、子どもが踊らされているなあということだった。別に携帯会社に限らず、テレビや雑誌で子どもの購買心をあおる企業はたくさんいる。かっこいい憧れの人まねをしようと、とても子どものお小遣いではその後の管理や維持できないようなヘアースタイル、パーマとか茶髪に手を出してしまう。雑誌によっては、とても“かたぎの娘さん”とは思えないような、派手で品のない“夜の世界”の化粧や服装をはやりとしてとりあげる(外国人からすると、胸の大きく開いた下着透け見えミニスカートで、しかも街頭にて化粧を直す女子高生は、どう見ても娼婦だ)。生まれて初めて髪をちょっと染めてみた子どもはびっくり仰天、日ごとに日光で色が落ちていって、学校に行くのに、ますます黒く染めなければならなくなる。軽い気持ちで脱色してしまって後悔しているところに、教師には不良ぶってやったかのように叱られて、踏んだり蹴ったりだ(子どもばかり責めないで、未熟な子どもをあおっている大人に責任はないのだろうか)。
服装や髪型はまだいい。安い店や他の手段も選ぶことができる。携帯電話の場合は、少数の会社のいうがまま払わねばならないが、料金設定の分かりにくい機能が多すぎる。子どもは無料サイトに入ったつもりが、あとで高額の請求が来て保護者が驚く。あるいは信頼できるサイトばかりでなく、無垢な子どもを狙った悪質なサイトもある。子どもには様々な危険が常に付きまとうが、バーチャルな世界は警察も手が廻りきらず、しかも保護者や教師は子どものトラブル気付きにくい。実際に携帯電話を手にしてみて、そのことを実感してしまうのであった(10月にお遍路行ってたとき、携帯電話の料金がいつもの10倍以上で仰天しました。30秒につき20円恐るべし!)。
かといって、いきなり子どもから取り上げるのは、良くないと思う。こんな例を聞いたことがある。ある日電車の中で聞こえた会話なのだが、夜中の長電話か大声の会話かで近所から苦情があり、怒った親が携帯をいきなり取り上げたところ、苦にして衝動的に電車に飛び込んでしまった生徒がいるのだという。特急だったため即死であった。親は取り上げたことを悔やみ、近所の人も大勢が嘆き悲しんだという。この例のように今の子どもにとって、電話はただの電話でなく、大人でいうところの「酒」兼「タバコ」兼「自家用車(仕事や買い物になくてはならぬ生活の足)」に相当するものか。携帯なくして会話(コミュニケーション)ならず。友人との遊びも、学校の宿題も習い事も家族との接点も何もかもが、できなくなってしまう。大人から見れば何をそんなに大げさかと思うかもしれないが、それまであった空気がなくなったように息苦しく、宇宙でただ一人ぼっちで取り残されたかのようにさびしく感じてしまうようだ。
我々大人と違って、平成生まれの子どもは、携帯のないこれまでの頃の生活を知らないのだ。ニコチン中毒のヘビースモーカーと一緒の依存症状態、“ケータイ依存症”なのだ。まずは徐々に携帯無しの時間を増やしてやり、携帯に頼らない生活の仕方に慣れなければならない。新聞の投書で、20代の若者だったが、海外旅行で初めて携帯のない生活を送り、初めは不安だったが、やがてメール等にわずらわされない、その快適さに気づいたという内容のものだった。いつも携帯づけの若者が、「携帯のないことは快適」という体験をときどき味わえたらいいのにと思う。携帯依存は、あおっている大人社会の責任で、彼らが決して心が弱いからではない。
それでも最近の中高生は派手でちゃらちゃら、良く分からないと思う方もいるかもしれない。そんな子どもたちが、高価な携帯をおもちゃにすることに、嫌悪感を抱く方もいることだろう。しかし、若者のためにここでたまには弁護しておきます。最近の高校生を見ていると、意外なときの真面目さに困惑することがある。自分からは進んでやらなかったとしても、やれと命じられた作業をもくもくとこなしたりする。遅刻多々、授業中に私語多くして、この子ほんまにちゃんと社会人やれるかなあと心配な生徒が、アルバイト先ではひとこともしゃべらず、真剣に作業していたりもする。状況のつかいわけがうまく、器用だ。昔の若者のほうが、子どもっぽく悪ぶって、わざと手を抜いていたようなことでも、今の子どもたちは、お行儀良く大人びてさめている。困難な時代に、こういう性格って結構頼もしいなあなんて思ってみたりする。今の子は打たれ弱く、へこみやすいというけれど、社会の急激な変化にも若者らしく器用に案外対応してくれるんじゃないか。彼らが世の中の中心になっているとき、周りのくうきをよみながらもくもくと働き、携帯のさまざまな問題もうまく解決してくれて、日本を引っ張るいい社会人をやってくれている気がする。
まあ、携帯の悪口ばかり書いてきたが、緊急時にはありがたいアイテムだ。山の中まで仕事を持ち込むのはいやだけど、もしも山ではぐれたときには心強いではないか。登山や旅行中は、本当に大活躍してくれている。

2008年ミステリーツアー日本

入会したときはミステリーツアーのようであった沢登り。紀州の山のことは何も分からず、行く山行すべてがミステリー(リーダーさん、不心得なメンバーですみません)!全メンバーがどんな道を何時間ぐらい歩くか、知っているべきというけれど、沢登りの場合、水量やメンバーによってルートを変え直登したり時間がかかったり、不確かな要素が多いので、やはり、わたしにとって沢は魅力的にミステリアスなのである。
ミステリアスといえばこの我らが暮らす「日本国」の進む道もまた、ミステリーツアーのようだなあと最近感じている。いや、ツアーなら案内する人は下調べをしてあって、参加者だけがどきどきわくわくするが、このツアーはどうも、案内人も行き当たりばったりでわくわくどきどきしている気がする。われらが案内人は、ツアー「アメリカ」の後をついて歩いているだけだという人もいるが、その場合先行くツアー「アメリカ」を見失ったらひとり遭難してしまうのだろうか。あるいは「アメリカ」が目の前で遭難したときに、日本の技術体力を駆使し、救助してあげるつもりなのだろうか。戦後の日本が「歩き始め」たころ、日本は世界最高峰を目指す登山道を歩いていた気がする。荷揚げする人、アタックする人、それぞれの与えられた分業に励み全員が目標を意識して歩いていた。やがて欧米に追いつき追い越せ、山頂まで近道しようとするアメリカの尻にくっつくうちに、気がつけば原生林の大樹海の中をこのように迷走ししまった。もはや、先頭をあるくエリート集団をフォローしてきた民衆は、間延びした隊列から脱落し始めているが、樹海が邪魔をして、お互いによく見えなくなってしまっている。
真面目なおとなしいいい子たちが、自衛隊に行き始めている。近年の就職難、進学難の結果だ。貧しい人が大学に行くためにと入隊し、イラク戦争へ借り出されたというアメリカ。勉強のために軍隊に入らなくちゃいけないような世の中に、日本がなって欲しくない。
最近、子どもを抱えるお母さん方と話す機会が最近多い。子どもにいい人生を与えるために、就職できるためになにができるか?昔は、真面目な子どもなら、どんな学歴であっても仕事が与えられ、結婚ができた。今は、学歴に関係なく仕事がなく結婚も難しい。正確な情報がない。何をよりどころにすればよいかわからない漠然とした育児不安。いや、情報はありすぎるのかもしれない。一芸に秀でているほうがいい、英語ができるほうがいい、塾に行って私立に行くほうがいい、様々な憶測がさらに不安をかき立てる。習い事をさせなければ。塾に行かさなくちゃ。子どもも親もまわりから強いプレッシャーを受けているように見える。「ゆとり教育」から、「生きる力(学力、体力、愛国心)」、、、あまりにも刻々と価値観が変わって行き、偏差値教育をどっぷり受けてきた親世代は、新しい教育方針についていけないでいる。そう、不確かな情報を鵜呑みにするような「無学の親」は減った。育児で長らく世間から隔絶されていたマジメな主婦ほど、世間の変わりように「浦島太郎」のような気分を味わっている。
いや、昔だって若い親は子どもにかまう間が無く、ほうっておいても子どもは育った。今はかまいすぎなのではないか、という人もいることだろう。昔は迷ってもお年寄りに聞けば子育てのしかたから人生についてまで、教えていただくことができた。進路のことは、学校の先生に聞けばまず間違いが無かった。今でも昔でも、若者の中には、勉強をあきらめて家族のために働きたいと思うけなげな子もいるし、早く自立して、10代で結婚して子どもを持ちたいという子もいるはず。それがかなわないのは、子どもたちの努力が足りないせいでも、根性がないわけでもない。今、お年寄りの言うとおり、家計が苦しいなら中卒で働けばいいといわれて、実際就職できる子どもはどれだけいるだろう。
日本にはインドのカーストのような世襲?ができつつある。塾や大学に行くお金のない子どもたちは、もうすでに人生の指定席がきまっているようなもの。人権を無視した過酷な勤務条件と低賃金にあえぐ。奨学金を借りて進学しても返せない人が増えているそうだ。一方のお金持ちの子どもは、私立の小中高に行き、一流の国立大学に行き、企業の内定を次々もらい、バブルのときのように企業から接待を受けていると聞く(学校の先生に進路について聞かなくても、親が高学歴で、何をすべきか担任よりも知っている。あるいは、塾や予備校の方が、最新の入試について詳しいと言う現状がある)。公務員の子どもが公務員に、教師の子どもが教師になるのは、コネや賄賂ばかりではない。マジメに受験している人の方が多い。それでも2世が多いのは、親の経済力の差もあるのではないだろうか。

このお盆に、昨年事故で亡くなった若者のお参りに行ってきた。私が滝川で柔道を始めたとき、まだ中学一年生で、いっしょに昇段試合に行って黒帯をとった仲間だ。彼は体格も良く力があるというのに心優しく、なかなか勝負で思いっきり投げることができずにそのころスランプになっていた。同じ代の友人がつぎつぎ黒帯をとる中、めげずに柔道をつづけた。語る言葉の端々から、柔道を愛する気持ちがにじみ出ていた。相手を思いやる柔道精神に満ちあふれた子どもだった。私もご家族と一緒に懸命に彼が勝つよう応援したものだった。やがてM高の柔道部で活躍するまでになり、縁あって1年間、授業を受け持つことにもなった。もちろん、授業態度も真面目で、きちんとした会社に就職し、さあこれからという19歳の夏だった。バイクに乗っていて、脇から飛び出した車にはねられてしまった。お葬式には、たくさんの同窓生、柔道の先輩後輩がおとずれ、彼が皆に好かれ愛されていたことを物語っていた。体格の優れた屈強な柔道の若者の群れは、まるで兵士の集まりのようであった。その葬儀で私がふと思ったのは、この年代の大勢の若者が次々命を落すのが「戦争」なのだろうと。20歳前後のあふれる輝かしい未来。ひとつの命の重いこと。なんと、もったいなく、いたましいことだろう。テレビや本で、戦争で若者が死んでいく話を知っても、ぴんと来なかった重みが、目の前の体格の立派な若者の群れを見て、心にずしんと感じてしまった。戦争でなくなった命は、こんなに一人ずつ悲しんでもらえるのだろうか。彼らの未来を大切にしてやらねばと思った。彼らには亡くなった若者の分も、しっかり生きて欲しいから。

2011年5月28日土曜日

2007年10月6日四国石鎚山登山&救助隊緊急招集

この10月は、沢部のT氏とT姫と3人で、四国の石鎚山に登った。T氏が企画する山行計画はいつも、お楽しみが盛りだくさんで、例えば、花見や紅葉狩りをかねていたり、おいしいものを食べたり飲んだりするのだが、今回も「秋祭り」の西条市観光つき。そして沢部らしく、登山前には宿周辺の渓谷散策が加わり、コース料理のような華やかさだった。四国と言えば、昨年の10月に、四国お遍路の旅で行ったきり。ちょうど丸1年になる。ひとり車で2泊3日を旅した思い出が、次々と湧き出てきた。それがまた、余計な遠回りをもたらすのだが、、、
106日の土曜日の朝、フェリー乗り場へ向かう途中でT氏を拾う。ここでは、ぜんぜん違うところで待ち合わせていて、会えるまで10分ほどロスする。和歌山港ではT姫が、すでに乗船手続きをすましており、菰池カーの駐車場の確保もしてくれたので、時間通り徳島港についた。懐かしの徳島氏市内。巡礼最初の寺、霊山寺のそばに、ベートーベンの「第九」の“博物館”があったのを思い出した。歴史好きの菰池にはどの展示も刺激的で、古い手書きの楽譜をまじまじと観察したり、第一次世界大戦当時の、日本の音楽史の一ページを紐解くのはとても興味深かった。T姫も一緒に第九合唱団で歌っているので、“博物館”のことを話したところ、インターに近いなら行きたいとの事。しかし大きな間違いがあった。前回は1日目は、徳島市街地図を持たずに“寺めぐり用”の略図と勘でうろうろしていたのだった!徳島インターから寺まで約10km、寺から“博物館”まではさらに10kmもあったのだ(10kmといえば有田では日頃、ちょっと近くの郵便局や銀行に行く距離である。信号のない田舎ではせいぜい時速60kmで10分くらいの移動距離だ。しかし大阪市では市内の端から端の距離であり、信号が多すぎて、バスや原付の移動に1時間近くかかってしまう。たとえそれでも、田舎では「たったの1時間」の距離である。電車も、逃したら「10分も待つ」とあわてるのが大阪市内。有田では電車を逃したら次は30分後、特急なら2時間後。こうして、時間通り杓子定規に学校や会社が動くほど、車社会が加速していく)
そうともしらず、3連休のいつもより混雑した徳島市街地をうろうろ。そしてついた博物館は「第九」の映画公開直後の去年までと違って、地元坂東との歴史と、本来の「ドイツ館」のネーミングにふさわしいドイツ地ビール&ドイツ特産品会場!思ったよりも時間がかかってしまい、菰池は2人に申し訳なく、宿で飲むドイツワインを買い込んだ。大勢で行くときはやはり、下調べが肝心であります。すみません。
秋祭りのほうは、私と違い、T氏が前もって下調べしただけあって!さすが見ごたえのあるすばらしいものだった。東予丹原の出口近くの、とあるスーパーの駐車場で、4~5mはあろうかという大きな神輿(2m以上もある大きな山車だが車輪が無く、途中まで台車で運び、広場で大勢で担いでいる)が8台勢ぞろい。それぞれデザインが違い、集落ごとのちょうちんとはっぴを着込んだ10代の若者~50代が、1台につき3040人くらい碁盤の目にならび、囃子歌とともに肩まで担いで練り歩く。他の台にけんかをふっかけては、さらに両手で万歳するまでもちあげる。上手なグループは、息もぴったり見事水平に持ち上がるのだが、へたくそな集落では、だれかがいそいで万歳するせいで、担ぎ損ねたほうに神輿が傾き、それはそれでスリルがあってみていて面白いのだった。神輿には大阪のだんじりのように1階にお囃子の太鼓、2階の屋根の下にバランスを取る身軽な若者がいて、大きく傾いたときの彼らはとても哀れであった。あるときは観客の停車中の自動車にぶつかりそうになったり、他の神輿との間に挟まれそうになったり、あやうく、バランスを崩して下敷きになりかかったり、それでもすぐそばまでベビーカーで見ている親子もいて、地元の子どもは見慣れたもの、ちっともビビらずに一緒に眺めている。われら3人はアドレナリン出まくりで、その後の道中、テンションあがりまくりだった。
石鎚山から流れ出る面河(おもご)渓のとりわけきれいな川原のそばに、国民宿舎はあった、に泊まる。どう美しいかと言うと、あたりはカルスト地形の白い大きな岩。そこに上流からながれてきた青や緑などの小石がちりばめられ、鉄分を含んだ赤い水が白い石を赤く染め、いつもならそこにブナ、カエデ、クリといった落葉広葉樹の紅葉がさらに色を添えるのである。深い淵などは、トルコブルー、エメラルドグリーンの宝石のようであった。残念ながら今年は暑さで紅葉のほうはまだだったが、木々の淡い緑の濃淡のそれは、それでまた美しい風景だった。国民宿舎には、大勢の家族連れが泊まっていた。ある、広島から来た御夫妻は、我々に駆け寄ってくると、「和歌山の方ですか?わたしも和歌山出身なんです!」聞くと御夫妻の夫は、菰池の暮す有田の近所の集落、奥様のほうはT姫とおなじ川辺出身であった。奥様とT姫は「○○さん、ご存知?」などローカルな話題で盛り上がっている。転勤で広島に定住し、娘夫婦は松山に暮らしていて、孫と一緒に泊まりに来たと言う。お互い、奇遇に驚いた。あとで奥様のほうが、広島の住所を手にして、「広島に来たときはいつでも泊まりにきてください」といってくださった。もう一人、宿で忘れられないのが、調理場のお兄ちゃんである。ドイツ館で購入したワインやビールを、厨房で冷やしてくれた上に、焼酎のロック用にと、大量の氷をプレゼントしてくれたのだ。服装や顔、外見ばかり“格好がいい”のではなく、中身も“かっこよく”“やさしく”、このスマートな気遣いの兄ちゃんがいるなら、また来たいと思わせてくれる。旅館業というのは、やはり、どんな高価な立派な設備より、心遣いと気配りだ。
今回は、メジャーなロープウェーのコースではなく、最近流行らしい石鎚スカイライン経由。宿から登山道まで、車で標高1400くらいまでのぼり、ほとんど起伏のない整備された道を4kmほどいき、ロープウェーコースと合流した後は、傾斜がすこしずつきつくなっていく。最後のほうに2つのルートがあり、本来の修験者のためのルートは、垂直に近い岩のくさり場を60mほど登る。もうひとつのルートは、下山路も兼ねた、鉄の網でできた人工の廊下と階段道。山頂には石鎚神社がそびえている。連休中のため、登山道はにぎわっていた。朝はお遍路さんの格好の家族連れ。3~4才くらいの子供が、白装束に輪袈裟でおばあちゃんの手にひかれ、元気よく「おはようございます!」と大きな声で一人ずつに挨拶する様子と歩く姿がかわいかった。個人の家族連れもたくさん見かけた。それに対して、夕方は大手旅行者の団体さんが何十人も次々と登ってきた。あるいは、ちょっと散策のつもりで、上等の革靴の“おねーさん”や、空身手ぶらで歩く“おじさん”、屋台のプラスチックパックを手に歩く“おばちゃん”など、そのまま登ったら遭難しかねないような人々も登ってきて、本当に大丈夫だろうかと気をもんだ。
神社のある山頂は、台風が近づいているせいで、晴れたり雲がかかったりで、眺めは最高とはいえなかったが、たまに天狗の鼻のような岩がくっきりと目の前に現れ、遠くに瀬戸内海が、青空の一部のようにかすんでみえた。ひと休憩した後、“天狗の鼻”の岩のほうに歩いていくことにした。左側はきりたった断崖、右側は比較的緩やかな、緑の牧場のような風景の上に、赤々と燃える紅葉がせまる。標高1900以上はもう、秋だ。みると、岩の上で確保している人物が。左の断崖の下をのぞくと、セカンドの男性が、ヌンチャクを回収しつつ、リングにアブミを交互にかけているのが見えた。この絶壁を登ってきたのもすごいが、絶壁のとりつきまで、1m以上の笹薮を藪こぎしてきたその気力に敬服してしまった。私が面白がって崖下を覗きこんでいると、そばにいたおばちゃん達数人が次々といっしょに見下ろし始め、「いやあ、かっこいいわあ!」「映画見てるみたい!」と黄色い声を上げるので、登っている人はギャラリーの多さに、きっと余計に緊張しているんやろなあと、心中を察してしまった。こうして、石鎚登山は、ほとんど雨らしい雨も降らず、暑すぎず寒すぎず、無事に終わった。
和歌山への帰りは面河を通らず、宿の人にきいた、広くて楽な道というルートを使うことになった。山道大好きの菰池が、T姫の車の運転を買って出た(松原氏や、浅井氏、玉置淳子氏らと信州など、遠出するときは、菰池が運転していた。連続4時間以上ハンドルを握ったこともある)。ギアが脚のそばではなくハンドルの横についているAT車。このタイプに乗るのは初めてだったが、何とかなるだろうと思った。ところが、その広い道に出るまでの林道がくせもので、車2台がようやくすれ違えるかどうかの道幅。そのうえ、ほとんど霧がかかっており、対向車が見づらいのである。2速にシフトダウンしてエンジンブレーキを利かせながら走っていたが、しょっちゅう対向車をよけるために、ドライブやバックに入れることになり、それがまた、操作慣れていないので、思うところのギアに入らない。みかねたT氏が横からギアを入れてあげようと手を伸ばしてくる。こんなことは、生まれて初めてだ。
びっくりして視線がT氏の手に行った瞬間、右から対向車が霧中から飛び出してくるなんてこともあり、前日の秋祭り並みにとてもスリルのある!?ドライブとなった。T氏もT姫も、自分で運転するほうがよっぽどいいと思ったに違いない。こんな山道で、後ろからあおってくるカップルがあり、菰池が道を譲ってあげると、颯爽と飛ばしていった。あまり進まないうちに、ききっと音がした。前方でカップルの車が、左カーブで対向車と危うく接触しかかっていた。道の中央を走ってきた対向車は、スポーツカーで、車幅が広く後ろが見づらい。この対向車のほうが、気を利かせてカーブをバックして道を譲ろうとして、不運なことに、対向車のスポーツカーが後輪を溝に落した。ところが、譲ってもらった若者カップルは、これ幸いに、そそくさとそばを通って去っていってしまった。唖然とする我々。それはないやろう、とT氏。菰池がスポーツカーのそばを通り際に「大丈夫ですか」と声をかけると、低い車高を道にすりながら、なんとか自力で脱出していった。ちなみにその若者カップルはこれに懲りたらしく、その後はあまりスピードを出さなくなった。そのテールランプの後をついて走るのは、霧の中でとても楽になり助かった。
気が付けば、林道は高知県内を走っており、どうやら、ひどく遠回りしているらしい(霧や、通行止めなどのせいで、かなり遠回りしないと帰れなかった)。そのうえ、ようやくたどり着いた南北の広い道は、標識がわかりにくく、どちらに愛媛の西条市があるのか、迷ってしまった。暫く行くと、高度が下がっていることに気づき、さすがに菰池は変だと気づいた。T氏に引き返すと提案。案の定、西条へ抜けるトンネルに出会った。あのまま戻らずに進んでいたら、危うく今日中に和歌山にたどり着けないところであった。途中、T氏に交代してもらうものの、その後も運転を続け、フェリー乗り場についたのは6時半、ぎりぎりだ。この後、フェリーのなかで、浅田真央や安藤のフィギアスケートの放送をじっくり楽しんだ。

107日のその後。目的地の石鎚山は天気も持ってくれて、楽しい山登りになった。残念なことに、帰りのフェリーの中で、緊急の電話がかかって紀州山友会の事務所に向かうことになってしまった。その事務所では、下山時刻を過ぎても連絡がないと、大騒ぎしているという。しかも、信州で岩を登っているそのグループというのは、県連の救助隊長の義兄らのグループなのだ。各山岳会をまとめ、救助隊を率いる救助隊長がいないため、留守本部はどうしてよいかわからずに、話がだんだんと大きくなって行ったと思われる。
和歌山市にいるのが好都合と、T姫と別れ、9時半ごろ、フェリーを下りたその足でT氏と2人で事務所に向かった。事務所では、男女十数人の会員がかけつけてくれていた。なにやら、張り詰めた雰囲気。いままで実際に、このような招集がかかったことがないのだそうだ。とりあえず、菰池が、現在の状況を知るべく、経過を留守本部(登山計画書には、下山報告を受ける人を、緊急用に一人決めてある)の男性に聞く。山友会から3名と紀峰から3名、計5名が穂高の屏風に登っていて、716時が下山予定、19時の最終時刻を過ぎても帰ってこないので、松本署や横尾山荘に、なにか事故や遭難の情報がないか聞いてみたという。これからすぐに信州に行くべきという意見もあったが、菰池が
「本格的なアルプスの登攀では、予定より1日遅れることはよくあること。明日の10時まで待とう」
と提案し、すぐに出発しようとしているのを引き止める。山友会のメンバーが、「誰か、信州に行ってくれる人はないか?」と募集をかけたが、人があまり集まらない。自営業のT氏は、「明日の月曜の祭日は空いているが、平日の火曜日がダメ」と言う。M高校の非常勤講師の菰池は、たまたま火曜日が、学校の行事の代休で休みであったので、そのことを伝えると、信州行きの有力候補に挙がった。菰池が、「現地に向かうまでに数時間かかる。それよりも、今、信州で登山している仲間に携帯で連絡を取り、彼らを見かけたかどうか、情報収集をしてもらう方が早い」と提案した。その場で、行動力のある人が、次々分業していった。穂高にいるはずのメンバーの携帯にかけ続ける人、メンバーの家族に電話をかける人、装備を用意する人、資金を用意する人など。紀峰のT氏にも、すでに涸沢にはいっている重栖氏に現場で情報収集してもらおうと、携帯電話でH氏に連絡を取ってもらう。「家族に電話するのは明日にするか、夜中に聞いたら心配するから」と山友会のメンバーの一人が言う。「そやなあ」「これからはかかってきた電話は、時間と内容をノートに記録しよう」と、菰池。ところが、「記者会見に備えるんか?」「警察に言ったらすぐ記者会見やろ」「まだ、警察に捜索願いは出してない!」。急な召集で集まった人々は、だんだん悪い方に考えるのか、話がすぐにそれて大きくなる。
冷静になってもらうには、まず、飲食して落ち着くのが一番である。近くのコンビニに出かでかけ、差し入れのペットボトルと紙コップを数本購入すると、レシートを山友会の人に手渡し、「これから、購入したものは、別のノートに記入し、レシートを取っておいたほうがよい」と助言する。そして、お茶やジュースを飲んで一服しながら、「全員起きてつめていても仕方が無いので、電話番は交替で行い、時間と内容をノートに記録して、情報を共有し、他のメンバーは休めるときに休むように」とも助言する。和歌山の県連に救助隊ができてから、一度も召集や出動はないが、今回の経験は、組織作りのとてもいい実体験となることだろう。
こうしてもろもろの役割分担、手順が決まった後、明日の7時に事務所集合ということで、夜11時過ぎに一度解散。我々は朝の出発までに下山報告の電話の来ることを祈りつつ、帰宅した。すると、夜中の12時半ごろ、菰池が自宅で信州行きの荷物をつめていた最中に、下山報告の電話があったと留守本部の男性から連絡があった。連休で混んでいて、ルートの順番待ちなどでおそくなったらしい。わざわざ有田まで、この留守本部の男性から電話(救助隊の一員としての連絡)と、義兄と同行している山友会の男性から電話(おそらく、全員にかけるよういわれて、留守本部に救助隊として詰めていたと知らずにかけてくれたのだろう)を、それぞれ下さった。こうして、朝5時に起床して、渓流散策、石鎚山登山、霧の林道恐怖のドライブ、カーフェリー内での浅田真央と安藤のスケート鑑賞、会事務所に緊急招集、信州への荷造り夜中の12時半、、、と長かった一日が終わった。

2007年9月2日復活沢登り

つ、つ、ついに!沢部のしもたまきは本来の沢に復帰しましたぞ!靱帯を切ってはや3年半、この日を待ちに待っていましたのだ。
トレーニングジムでせめて週に11時間半だけでもリハビリを続けようとしたが、なかなかまとまった時間を定期的に取れなかった。やりたいだけ思う存分リハビリができる人がうらやましかったものだ。というのも、手術するに当たって、医療関係者から「どうせすぐに、リハビリをやめるだろう」と言われていたからだ。くそ!絶対スポーツ復帰してやる!とむきになってした手術。ようやくの沢登り。この3年間めげずに、こつこつトレーニングを積んできた甲斐があった。
200792日の早朝、田井ノ瀬橋に着くと、激しく雨が降っていた。これは中止かなあと思っていたら、私より先に来ていた大西さんがぼそっと「そのうち止んで行けるでしょう」。大西さんの予想通り、雨はだんだんと小降りになって、東の空から真っ赤な朝日が見えてきた。この、朝日の方向に、めざす下多古川があるのだ。その後、ぞくぞくと参加者が到着。計7名(寺下、山路、池永、大西、今井、須部、しもたま)で出発。ところが、またもや雨が。途中のスーパーで一時下車。リーダーの寺下さんが「これは今日は中止やなあ」と言って、解散の打ち合わせをしていると、そんなときに限って晴れてくる。「もう、どっちや」と怒る寺下さん。そのはずである。今週は、そもそも日曜まで4日連続雨の予報。こりゃ週末はあかんかも、、、と思っていたら、実際は木曜からほとんどふらなかった。ひょっとしていけるかなあと思っていたら、再び日曜に雨マークの予報。金曜日に沢中止の連絡が全員へと回ったものの、やっぱり晴れるかもしれないので、直前に行くかどうか考えようということになった。その当日がこの紆余曲折である。寺下さん、とってもお疲れ様である。
下多古につくと、ウソの様にかんかん日和。楽しい沢登りが始まった。初級の沢ということで、みんな気楽な気分。わざと小さな滝を選んで直登してみたり、登るのを競争してみたり、遊び心いっぱい。滝によっては、水量がすごくて、手探りで岩をつかみながら水圧に逆らって登るところあり、つめたい淵を泳いで横切るところあり、下界の暑さをよそに涼しく気持ちよい。一ヶ所、前にも後ろにも進めず、お助けロープを寺下さんと池永さんに出してもらったところがあった。まだまだ、沢の修行が足りないようである。新人の須部さんは、チャレンジ精神旺盛で、お助けロープもなく、するすると岩を登っていった。ちょっとくやしかった。この沢にはカエルが多くて、いろんな色といぼのカエルが岩にへばりついていて、何度も岩と間違えてつかみかけた。ヒルがいなくて、私は快適だった。が、カエル嫌いな人はそうでなかったかもしれない。ひとつ気がかりなのは、1.5mほどの滝を登るときに、足場が崩れて須部さんが滑落してしまったことだ。私が横から話しかけなければ、すんなり登っていたはずなので、悪いことをした。あやうく、顔から落ちるところで、うまく肘から受け身を取っていた。後で肘が腫れてこなければいいのだが。
予定より30分遅く出発し、いろいろ遊んだわりに、計画書どおりの時間に最終ポイントについてしまった。時間と体力があると言うことで、更に上流のびわの滝を目指す。ここからは傾斜が少なく、スピードが上がって、足腰に負担がかかる。足がもつれるかと思ったが、8月にみかん山や、自転車、ランニングで鍛えた甲斐があり、余裕を持ってびわ滝までたどりつくことができた。いっしょにならんでの記念撮影。今井さんの手には「子どもにいい土産ができた!」と、びわ滝で捕まえたカブトムシが!
帰りに温泉につかり、疲れた筋肉を休めて、これまた予定の時刻に田井の瀬に到着。解散となった。この沢登りで、明日から仕事だということをしばし忘れることができ、楽しい仲間と過ごす喜びがあり、さらに筋力アップを果たし、満たされた気分だった。筋力アップのお陰で、職場の階段の昇降もすいすい、柔道も自分より重い子と練習しても余裕たっぷり。生活にゆとりができて、いいことずくめだった。

一度失った機能を復活させるには、地道なトレーニングが、それも日常生活以上の負荷が必要である。日常生活は、他の筋肉やもう一本の足でごまかせることも多いので、どうしてもその機能を使わずに入られない状況に追い込む必要がある。私の場合、手術で2ヶ月ほど体重を左足にかけられなかったため、筋力が低下し、必要な神経系統のバランスも体が忘れてしまっていた。さらに、かわりの靱帯を作るために太ももの裏の筋肉を2本も失ったし、手術で神経を傷つけたために、すねから下の感覚が2~3割ほどに鈍ってしまっていた。触覚、痛覚ばかりでなく、温度感覚も減った(2010年に、ようやく左足の指先まで感覚神経が全てつながり、触角、痛覚、温度感覚が8~9割まで回復した。人間の神経は再生力がある)。こういった感覚を取り戻すためにも、激しいトレーニングが必要だった。筋力のほうは、普通のリハビリで日常生活レベルになっていたが、柔道で必要な筋肉は柔道で、沢登りで必要な筋肉は沢登で培うのが近道なのだ。実際、柔道に必要な筋力と感覚がはっきり戻ってきたのは、柔道完全復帰を果たした、この夏からだ。柔道の乱取り練習で、茶帯相手に激しく動いているうちに、足先からの刺激がきっかけで、切れていた神経と神経に連絡通路が新たにできたのだろうか。足の指で大地をぐっとつかんでいると、すねにぽかぽかと暖かいものが流れてるのが感じられる。まるで凍っていた足が暖まって、“じんじん”しているかのようだ。血行がよくなったのは本当だが、温感がもどった証拠だと思われ、とても感激だ。日常生活に余裕が生まれてうれしかった。
こうして、今回の沢登りだが、思ったほど感覚を忘れていなくて、歩いてもあまりばてず、楽しむことができた。日記にようやく、本物の復活日記が書けた。また、日記の続きを書けるような山に行きたいものだ。

2007年教師のあるべき姿

またまた柔道のお話。全国大会に行ってきた5年生の女の子の結果である。小学生の体重別個人戦で優勝し、和歌山代表で四国に行った彼女は、長野代表と佐賀代表とリーグ戦で戦った。そして結果は1勝1敗。惜しくも決勝リーグに進出ならなかったものの、滝川道場の力を全国に示してきたのだった。すごいぞ滝川柔道場!しかし四国から戻ってこられた先生は、意外にも皆の前で「負けたのは先生の教え方のせいかもしれない」と謙虚なコメントであった。理想の師匠としては当たり前の態度と言ってしまえばそれまでだが、今の時代なら、自分に非があっても逆切れ!ひらきなおって言ったもの勝ちといった風潮。「こんな負けかたして、おまえらもっと練習せんか!」とすべて子ども達のせいにもできるのに、あるいはようやった、1勝したのはワイのお陰やと恩を売ることもできるのに、したでに出たら、子供や保護者になめられるといばる大人の多い中、それをなさろうとしない姿勢に打たれた。最近、なかなか目にすることがないだけに、あまりに自然になさる姿にどきっとする。
さらに先生は、柔道精神について、あらためてお話された。それはここでは詳しくは書き切れないが、要約すると、相手への思いやりだ。行動を起こす前にいろいろよく考えること。人生は自分の思い通りにならないこともあるが、だからといって他人を傷つける子どもにはなって欲しくないとおっしゃった。趣味にもいろいろあり、伝統芸能や伝統スポーツにおいては、ただ技術を極めるだけではダメな部分が大きい。柔道の先生と言うのは、学校の先生や企業の上司のようなリーダーシップに加えて、倫理的に正しい、お坊さんのような尊敬されるに値する行いが求められているのかもしれない。そして、それは道場の先生になると急に身につけるものではなく、小さな子どものころから、柔道を通じて学ぶものなのであろう。確かに、武術というのは、本来は戦い方の練習をしているわけで、他人を襲う動作を、仲間内で怪我せずにいかに身につけるかという矛盾にみちたスポーツだ。自分と相手をよく知り、相手が怪我しないように気遣いながらする練習。リーダーとはどうあるべきかと言うことを、自然と学んでいるのではないか。つまり登山のリーダーにも、通じるところは大きいであろう。経験や知識プラス人柄が、メンバーから尊敬され慕われるようなリーダー。メンバーの力量を見破り、ベテランは新人をひき立て、若者は年配者をいたわり、危険な状況でも互いの協力によって安全に努める。他のメンバーや他のグループに迷惑をかけないよういたわりあう気持ちは、山の世界でも通じるのではないか。柔道も山も未熟な私だが、互いのあるべき姿はみえるようなきがする。
滝川先生がこのように子ども達に語りかけるのは、この数年のうちに2人も若者を失ったからだと言う(ひとりは荒れた波を見に行ってさらわれ、一人はバイク事故で)。その若者たちに、こんなことも言っておきたかった、あんなこともしてやりたかったと言う思いが、今の子ども達への思いと重なっているのだろう。説教を聞く子どもらの多くは、今すぐ先生の言葉の意味はわからないかもしれないが、きっと、近い将来、その言葉に支えられたり、救われることがあるにちがいない。そのとき、亡くなった若者らの尊い命は後輩に生かされ、先生の思いは結ぶのだろう。
学校の先生が、道場の先生のように、人の生き方というものを身をもって教えることができたならば、どんなにすばらしいことかと思う。それを妨げているのは何なのであろうか。教師のリーダーシップは、企業の上下関係とは違うと聞いたことがある。一般の世界では、黒いものを白といってたとしても、白として全員が従うのが正しい人間関係だが、教師の場合は白は白、黒は黒として生徒に教えなければならない。平等、真実を追究するのが教室での正しい人間関係だとしたら、それをそのまま社会に持ち込むと、杓子定規な人、人の和を乱す人ということになってしまう。実際子ども達が社会性を磨くのは、同級生との会話だとか、クラブでの人間関係のほうが多いことだろう。授業中ではないのではないか。
いろいろな地域社会、家庭環境で育った子ども達に、社会の普遍的なルール、いろいろな価値観や家族観を学んでもらうのが、「学校」だと私は思っている(知識を詰め込むのは、その手段である。語彙や知識がないと、自分で考えたり他人に考えを語るすべを持たなくなってしまう。数学を学ぶのは数学的思考の訓練、理科は人間を含めた自然の摂理を、英語は英語圏など異文化の考え方を理解するためでもあるのではないか)。それには、先生は同質である必要はないと思う。独身の先生、子どものいる先生、孫のいる先生、離婚や再婚経験のある先生、教育学部を出た先生、会社勤めをした事のある先生、自営業の経験のある先生、いろいろな先生がいるほうがいい。お坊さんとか道場の先生と違って、もっともっと人間くさい、考えの偏った人が集まって自分はこう思うといろいろ述べたほうが、子ども達の刺激になると思う。もちろん、生徒も、いろいろな家庭環境の生徒がいたほうがいいと思う。
農家や漁師の子どもも、大会社の重役の子どもも、親子2人暮らしの子どもも、大家族の子どもも、両親が外国人の子どもも、いろいろいたほうがいい。そんな異質の人間の集まる学校の平等と言うのは、どんな宗教からも干渉されず、親の地位職業にかかわりなく学べることが平等であり、決して先生と生徒の立場が平等であると言う意味ではないと思う。先生が子どもに生き方を教えにくい理由は、教師側に時間がない、余裕がないといったこと以外に、先生はお坊さんのように道徳的に正しく同質であるべきだという周りからの圧力、「対等な」先生から家庭の問題を干渉されるようなきがして、説教めいた言葉に子どもが(実際は保護者が)反発してしまうことにあるのではないか。さらに、調子のよくお世辞のうまい子どもは増えたが、相槌のうまい「聞き上手」な子どもが減ったためではないか(道場の子ども達は、聞き上手である)。
家庭も学校も、完成された理想を実現したとすると、それは本当に人間にとっていいものなのだろうかと思うことがある。仏様のように、いつもにこにこして子どもが何をしてもまったく心を乱さない親や教師がいたとしたら、本当にそれで子どものためになるのだろうか。あるいは、そんな仏様のような夫は妻にとって、妻は夫にとって本当によき伴侶であるのだろうか。むしろ、家族の一挙一動を心配し、感情に任せてあるときは泣き、あるときは怒るのが、人間らしいのではなかろうか。いかがなものであろう、ご感想をお聞かせ願いたい。

2007年出世欲のない子ども達と努力を惜しまない子ども達

新聞によると、最近の日本の子どもたちは出世欲がないそうである。人を蹴落としてまでがんばりたくないというのは正常な感覚の気もする。しかし一方で、あの山を登ってみたいとか上達したいとか、しんどい思いをするのを嫌うのは子どもながら“年寄り”くさく、寂しい気もする。紀峰山の会や他の山岳会では、年々体力が低下して登りたいところに行けないと嘆く声がきかれるが、今の多くの若者たちよりも、上達したいという欲があり、山登りをする体力と根性がある“お若い方”が多いように思う。
知り合いがこんなことを書いていた。「学習塾をしているが、ほとんどの子どもが人に言われたから(しかたなしに)来ている……新しい課題を与えると、成績の上位の子供でも、問題を読まずに、わかりませんと頼ってくる……1時間あまりの時間でさえ集中できない子どもが多い」などである。私も同感だ。子どもたちは忙しすぎて自分でじっくり考える時間がない。原因とその結果をよくかみしめるまもなく(日ごろ考えたこともないので、どれが「原因」でどれがその「結果」かを混同してしまう子も少なくない。よって、反省も精神的成長もできない)、親切な大人が手順と答えを用意してしまう。なにかに疑問を持った“正常な”子どもがいても、先生に質問するような目立つ行為はひんしゅくを買い、友達にいじめられる(だから、人前では不真面目を演じ、努力するなら影でこっそりするようになる。友達には気を使い、神経をすり減らし、大人の前でたまったストレスを発散、暴言を吐いて気ままに振舞う子どももいる)。植木ひとしの演じるような、“口から先に生まれた無責任男”のほうが、「普通の人」の世の中だ。子どもは大人を映す鏡だとよく義兄言うが、そのとおりだ。
だが、幸いなことに、こんな子どもたちが増えているのも本当なら、課題にじっくり取り組み、人より上手になろうと努力を惜しまない子ども達が今なおいるのも本当である。そう、われらが滝川道場にはイノシシどもが何匹もいるのだ。練習でも、猛烈に突進していく子ども、大人相手でも真剣に投げようとかかっていく子ども達。どうやったら勝てるか自分の頭で考え、さらに技を磨こうと、日々努力を惜しまない。以前の道場なら、たらたらと練習していた子どもが多かった。試合でもたんたんとして、有田の気質かなあなんて勝手なことを日記に書いたものだった。今、その言葉を否定しなくてはならない。近頃の道場は、以前に増して活気がある。彼らの上達はおもいのほか速い。この子たちが茶帯になったら、さらに黒帯になったら、どんなにいい選手になることだろう。楽しみだ。そう思うと、自分の柔道はさておいて、そばで見守っていたくなるのだった。
思い返せばこの2年、柔道にできるだけはやく復帰しようとかなり力んでいた。3年のブランクということが頭の隅にこびりついていた。いまさら2年も3年も、よく考えれば変わらないのだ。元通りに完全復活しなくったって、新しい自分になればいいのだ。小さいころからしていたわけでないから、何十歳で再開しようが、たいしたことはないのだった。失われた貴重な試合勘や、大学生にも負けない体力は、もはや元には戻らないが、、、今のところ、茶帯や黒帯と普通に練習できる。ぼちぼちと、でもじわじわと練習するぞ!いつの日か、一生を振り返って、私は一生懸命に生きていて良かったと思うのだ。たとえ、自分自身は出世もせず、1番になれなくてもいいじゃん。私が存在したために、私のムキになる性格が刺激となって、周りの誰かがすごいことを成し遂げてくれたら、十分に存在価値があるじゃないか。この復活日記などを読んで、何ぞ成し遂げてくれたらうれしい。踏み台にでもなんでも使ってくれ!というひらきなおった感じだ。

2006年12月ビオラジョーク

クリスマスに有限会社より現物支給の冬のボーナスにてビオラを買ってもらった。
クリスマスに買ってもらったビオラのお話。バイオリンより大きく、チェロよりちっちゃい弦楽器、ビオラ。義兄は最近、チェロを始めてはまっている。借りて弾いてみたが小柄な私には大きすぎた。かといって、バイオリンは幼少のころより体で覚えないといけない楽器だ。弾くなら中間のビオラがいいなあと思っていたけれど、「もうすぐビオラが来るよ」と年末に言われたときは、てっきりジョークだと思っていた。金額も半端ではない。「ははは、まさかあ~、、、」と答えていたら、本当に来た。その後は、柔道日記その1を彷彿させるような展開だった。音の出し方から弓の動かし方、義兄の手取り足取りの厳しい指導(実を言うと、初日に早くも音を上げてしまったのだが、、、)。その後少しずつ弾けるようになるのがおもしろく、毎日のように弓を動かす基本を続けた。
ビオラという楽器は地味で、オーケストラでも中くらいの音程のさほど難しくない?リズムを刻んでいるパートだ。他の楽器の人たちからは、「ヴィオラジョーク」として親しまれ、かわいがられている。ヴァイオリンを弾く人よりもヴィオラを弾く人は脳みそがちっちゃい(弦楽器と頭の比率を考えると、バイオリンの人より頭が相対的に小さく見えることから)だの、そこから派生して、ビオラを弾く人は、「右手に弓」「左手に楽器」というメモをいつも持っていないと弾けないだとか、むちゃくちゃなことを言われている。演奏の腕のいい人は、きかせどころの多いバイオリンを選ぶことが多いから、損な役回りのビオラであるが、音色はきんきんとしたソプラノではなく、アルトやテノールの歌声のように落ち着いているし、重厚なオーケストラらしい和音を生み出すために不可欠の楽器。ようし、義兄と一緒に合奏してやるぞ!またもや、むきになる、菰池であった。
1月になって、初心者用のビオラ教本(そんなの、私以外に買う人いたんか?と、逆に驚く!)を和歌山で買いこみ、手探りで弾いていると、バイオリンを習っている義妹が、正しい楽器の構え方、指使いなどを丁寧に教えてくれた。家族に弦楽器を弾ける人がいるというのは、音楽上達の早道だ。練習曲をたくさん聴くことができ、耳を鍛えることができる。わからないこともすぐに聴けるし、なにしろ仲間がいるというのは張り合いがある。
最初に教わる練習曲と言うのが、なぜか「日の丸」であった。バージョンがいっぱいあって、弾きごたえがあるが、ちょっと難点がある。外国受けしないことだ。話が飛ぶが、この1月末に(義兄がインド旅行中に)実家の父と70歳の祝い(本当は今度69歳であったが)にタイに行って来た。そこで、路上でバイオリンを弾く少年に出会った。私は早速、少年を捕まえて弾かせてくれと頼むと、快く貸してくれた。そこまではよかった。だが、私が曲として格好がつくのが、まだ「日の丸」だけだということに気づいた。ここタイで日の丸?まず、歌を知らない人か、いっそ日の丸が嫌いな人が多いかもしれない。くそ!帰ったらきらきら星を練習してやる!と後悔しつつ、へたくそなきらきら星を演奏した。彼は、礼儀正しくほめてくれた。その後、少年の流れるような演奏が始まったとき、人々から拍手喝さい。少年の前のバイオリンケースにチップが弾んだことは言うまでもない。私は意図せずに「さくら」になっていたようだ。彼の演奏を際立たせて、もりあげたのだ。

2006年日本の「復活」

復活復活と唱えながら、何に復活すんねん?!とお戸惑いの皆様。私、菰池 環の場合の“復活”というのは、病気や怪我で中断していた生活、人生を取り戻すことです。具体的に書きますと、膝の手術のあと日常生活に復帰できたことがまず一つ。そして、勉強やスポーツ、芸術活動を再び開始したことなのです。というわけで今回のテーマは“復活”。

この日本がやり直しのきく社会かどうか、あるいはやり直しはきかないように、うわさ通りに変わってきたのか。いろいろな方向からチャレンジして確かめてきた、菰池。
「何に復活すんねん?」というのは、私の個人の問題でもあり、はたまた日本の問題でもあり、たいそうな言い方ですが、人類共通の問題でもある!新聞をひもとくと、「まともな社会」への“復活”を期待する記事が多い。「まともな仕事へ“復活”!―景気がよくなって欲しい。非正規社員の者、失業中の者、子育て中の女性が正規雇用の再就職を夢見ている記事。経済格差が広がっているから、差を無くそうと呼びかける」。「まともな家庭へ“復活”!―少子高齢化を考えよう。子育てや介護のノウハウ記事。どんどん結婚して、出産して、少子高齢化を緩和しようと呼びかける」のか。何がまともで、どうあるべきなんだろう。
実際は、正規雇用されつつ、結婚して子どもを持つと、自分の夢はあきらめて子どもに託し(勉強のしりを叩き)、自身は非人道的な長時間労働にあえぐことになるのだが。日本は進んだ模範的な国として、世界に貢献することを期待されているというのに、今頃「まともな社会」への“復活”をみんなが期待する羽目に陥っているのは何故なんだろう。
大人たちは、子どもの成長に必要な健康的な食事のための金を惜しむ一方で、子供たちに高額な携帯電話を与え、有害なホームページに気軽に立ち寄らせる。「先生、●●の国の人って、首を絞めても死なないんだって!」と真顔で答える子どもに出会った。「ぼく、確かに何かでみたんだ!」といってきかない。戦前から続く外国の人々に対する差別的感情が、教育により正しく導かれるのではなく、間違った情報でゆがみ、悪化しているらしい。「それは、マジックかなあ?白人も黒人も、みんなからだの仕組みは同じなんだよ。もちろん、首の細い人と、ボブサップのようにトレーニングした人とでは違うかもしれないけど、それは民族の違いではないよ」というと、ようやく納得した。彼は特別な子どもではないと思う。学力に関係なく、子供の知識は偏り、実体験よりもテレビや雑誌、ネットの世界のほうにリアルさを感じている。レベルの高い私立に行かせれば、全てが解決すると信じる裕福な保護者たちは、将来自分の子供がどんなふうに育つことを夢見ているのだろうか。あまり裕福でなく、勉強の出来る子と出来ない子が両極化していく公立学校の子どもたちは、過酷な競争社会の中に、どんな希望を抱くのだろうか。
これまでの世の中は「進んでいる」というのと「遅れている」という意識が重要らしい。進んだ地域というのは快適な生活が出来て、かっこよくて、遅れた地域はそれをまねて学ばねばならないらしい。日本はアジア、アフリカの多くの町や村より「進んだ地域」として期待されていて、新鮮な水や食料が手に入るよう、医療が受けられるよう、自然を保護するよう、農業や工業を発展させるよう“教える”ために海外に出かける。じゃあ、振り返ってみて、和歌山は?菰池の暮らす有田を例に持ち出そう。日本一便利で豊かと信じられてる東京よりもずいぶん暮らしやすそうだ。東京より自然豊かで、新鮮な食料が手に入る。公害や交通渋滞もほとんどなく、子ども達もまっすぐ育ちやすい環境にある。特急と高速道路とインターネットのお陰で、物資や情報も手に入れやすくなった。東京の人が思いこんでいるよりずうっと、有田は快適でかっこよい「進んでいる地域」のはずである。問題は、有田は年々快適さを失っているのではないかということだ。有田に来て今年で10年になるが、地元の新鮮な水や食料がいっそう手に入りやすくなっただろうか。医療は充実しただろうか。自然は豊かになっただろうか。産業は発展しているだろうか。振り返ってみると、「道路が拡張されて便利になった」→「信号が増えたぶん移動に時間がかかる。交通量が増えて子どもやお年寄りの事故が増えたかもしれない」。「農業の大規模化で大量生産、大量選果、大量出荷」→「農作物の値段は下降傾向」。「漁業は立派な船に魚群探知機を備えた」→「肝心の魚は減りつつある」。そして近年、人々の間の教育の格差、経済の格差が東京と同様に、この有田にも襲い掛かっている。これらのことは、有田も地球レベルの環境破壊や世界規模の競争社会(機械化と人件費の削減のあらし)に巻き込まれていることを意味している。戻るべき「まともな社会」をここで見失わないために、世界と我が家を二つの目で同時に見つめていこう。

大阪生まれの菰池が、各地の引っ越し先で心がけてきたことは、地元の言葉を使い、地元の文化を尊重しつつ、より質の高い生活を送ることであった。質が高いというのは、物の無駄のない生活、趣味の豊かな生活、人権の守られる生活であり、私の思う進んだ生活である。
いきなり失敗例から書こう。環境問題は刻一刻を争う状態にある。温暖化で温州みかんのできばえも変わってきた。美しい水と空気を手に入れるのに、お金がかかるようになってきた。理想を言えば、人類、生き物、地球全体のことを真っ先に思えたらいいのだが、まず、自分の足元、我が家から。菰池はかつて信州で一人暮らしをしていた学生時代、洗濯に風呂の湯を使ったり、米のとぎ汁を植木にやったり、家庭排水に気を使っていた。家の周りに大きくなる木を植えたり、窓のそばに影になるつる植物を植えたりし、光熱費を浮かし、緑化を計ろうとした。今でもごみを減らすために、食料は大入りのものをまとめ買いし、買い物袋の持参をこころがけてはいるが、便利さに慣らされ、以前ほど環境を心がけなくなった気がする。物の無駄のない生活、環境にやさしい生活をまずは“復活”したい。(具体的なお話については、クマコラムにお譲りいたします)。
いろいろな学校で、非常勤講師していると、いろいろな家庭の子どもに出会う。この、豊かなはずの日本で、文具代に困る子どもがでてきたとわかったとき、そのことを知っていても家庭の問題として講師の先生はなにもできないということがわかったときは、昔の日本社会のほうがやさしかったなあと思う。寺子屋があり識字率の高かった日本。貧しかったり戦争のために教育を受けられなかった子どもがいても、受け止めて育てる心が残る社会。誰でも学び、学びなおせる世の中から後退していないだろうか。子どもの教育がひもじくなったのは、働きたい親に適切な仕事がない(または労働に見合った給与のない)家庭、逆に仕事があるが長時間労働のため、幼児期のしつけに時間をかけられない家庭との両極化がすすんだせいかもしれない。子どもの権利が踏みにじられている原因に、大人の労働者の権利が守られていない現状があるということか。子どもの問題の真の原因は、国際競争力をつけるために行った、人件費削減(海外進出も)、機械化、コンピュータ化が大きい。人間らしく学び、働ける国に“復活”したい(農業はその点おすすめである。子沢山の家が多く、子育ての時間がある)。
国外では、人口増加の抑制と、貧富の差を縮めるために、女性の経済的自立、産む産まないの決定権をもてるよう、女性の教育が進められている。女性や障害者、老人の権利が守られている「進んだ国」にするために。幸いアジアでは、年長者を大切にする風習が残り、ところによっては(おうちによっては)カカア天下も続いている。学校や会社では男女差別が目立たなくなってきているのに対し、日本の家庭では、逆に女性の選択肢が狭まってきている気がする。働きたいのに家庭で子育てしか選択できない女性、産みたいのに経済的に苦しかったり、子育ての時間がなく産めない女性。客自身がカードを選んでいるつもりになって、実は意のままのカードを引かされている「マジック」のようだ。農家の女性もそうだ。昔に比べて生活の自由は増えた。一方で、豊かな農家ほど子どもをたくさん持つ経済力がある。昔は子育てしながら農作業するのがあたりまえ、今は、農作業せずとも子育てしながら外で働くのがあたりまえ。日本中の女性が、自分で生き方を自由に選択できたらもっと幸せになれる。社会がもっと元気になるのにと思う。
有田で暮らす農家のお年よりは、いくつになっても自分に見合った仕事があり、生きがいを感じつつ大切にされてきている。みかん産業が衰退したときは、これらお年寄りの人権も侵害されてしまうだろう。スタートの時点で不平等なまま、高齢者も障害者も、日本でも海外でも、同時に「平等に」競争させられている。平等という名の元に生じる不平等。人らしく生きる権利については年々退行していると思う。人権の守られる生活を、“復活”させて欲しい。和歌山は和歌山のやり方で、誰しもが尊重される世の中になって欲しいと願う。自然を守りつつ、第一次産業を大切にし、程よくローテクで続けていく国。子どもも大人も夢のたくさん抱ける国に“復活”して欲しい。

2006年みなもっちの見舞い

あの、“みなもっち”が倒れたと聞いたのは、そう、20068月の中旬だった。第一報では、「生徒の引率で甲子園にいった帰りに倒れたそうだ。今、入院しているが、意識が戻ったかどうかまだわからない」という驚く話だった。その一週間前に、紀峰のミーティングで出会い、旅行の話など楽しく会話したばかりだったので、とても信じられなかった。義兄ら山の会の人々が見舞いに行ったときは、入院して1週間もたたないころで、意識がまだはっきりしない状態だった。お母さんがずうっと付き添っていらした。そして、倒れたいきさつから、救急車でJR阪和線六十谷駅から運ばれる様子、出血が止まったので手術をしないで済んだ話を聞いてきた。
個性強い菰池の場合、敵も味方も両方多いが、やさしい“みなもっち”は誰からも愛されている。復活すべきは、まず“みなもっち”のほうだ、と私はいたたまれなくなって、病院へかけつけた。入院後10日経っていた。和歌山城近くの病院の、ナースステーションの隣の部屋に行くと、昏々と眠るみなもっちがいた。なんともいえない響きのいびきをかきつづけていた。おかあさんが「菰池 環さんが来たよ」とみなもっちの耳元に語りかけたが返事がない。そうだ、日記の名前、「しもたまき」ならわかるかも!彼女は、この「紀峰の仲間」の編集歴が長く、2002年の柔道日記の頃からお世話になっている。「しもたまきですよ~みなもっち、聴こえる?聴こえたら手を動かして!」。その前の日に見舞った人の話によると、聞こえるときは手を振ってくれるらしい。残念ながら、私の見舞った日はたまたま眠っている時間のほうが長い日だったらしい。眠りながら無意識に右手右足が動くばかり。ようやく、帰り際にかすかに手をもちあげて振ってくれたときは、うれしくて涙が出て来そうになった。しんどいのにがんばって振ってくれたんだね。無理言ってごめんね、みなもっち。
8月末にもう一度お見舞いに行ったときは、首を自力で動かせないものの、もう意識が完全に回復していた。関東にお住まいのお姉さんが来ていらした。9月初めには、右半身がかなり動かせるようになっていて、起き上がって挨拶してくれた。会うたびに良くなる人のお見舞いは、行く方も心が軽い。目を見張る回復は、本当にうれしい!930日に大山に行く前に病院に寄ると病室が明るくにぎやかだった。手ぶり交じりだが、話しをしてくれた。10月中旬に行ったとき、車椅子に座りながら、少し固めのおかゆを食べるみなもっちがいた。いっしょに山に登れるかも!私は希望がわいた。みなもっちはきっと復活する。むやみにみなもっちを励ましたり、頑張れとかいうのは良くないことだとわかってはいるけど、私はおせっかいながら、みなもっちの復活を信じて、これからも応援していきたいと思う(みなもっちは元気に復活されていると聞いている)。

2009年3月四国八十八ヶ所第4弾愛媛県

四国八十八ヶ所参りシリーズの第四弾。今回は飛ばしていた愛媛県。思い返せば、200610月(36歳)にひとりで徳島県(1番から23番)。20084月(37歳)に町内のツアーで高知県(24番から43番)。同じく2008年の10月(38歳)に香川県(66番から88番)をまわり、すでに四国の四分の三をお参りしている。
328日深夜つまり、329日早朝の0:30出発。和歌山県有田郡より、バスで四国、愛媛に向かう。大阪、神戸、淡路島経由。早朝に着いた愛媛県の松山市北部の53番、円明寺というお寺がスタートだ。ここのお寺には、なんとマリア像がある。かつて、隠れキリシタンがお寺参りを装って、十字架に見立てた石塔に彫ってあるマリア像を拝む。異教徒の礼拝を許す懐の深いお寺が、昔から四国にはあるということに驚かされる。
続いて竹林を縫った参道を登ったところにある52番太山寺。まだ2つ目が終わったばかりと言うのに、昼食の時間となる。当初の予定では続いて険しい岩屋寺であったが、時間のかからない寺、44番大宝寺に先に向かうこととする。これは、少しでもお腹がこなれてから登山しようという、幹事のご配慮であった。
難所の岩屋寺は、文字通り岩盤に張り付くような小さな本堂であった。岩盤といっても、河原の丸石が大小そのままくっついたような、でこぼこの穴ぼこだらけの岩である。そして、左側に離れたところにある太子堂の方が大きく、初めて行くと、どっちが本堂で太子堂か、見間違えそうである。46番浄瑠璃寺では、だっこ大師というかわいい男の赤ちゃんの像があり、交替で、皆で抱き上げた。この日は時間が無く、47番の八阪寺までしか行けず、その日の宿坊、香園寺(こうおんじ)に泊る。外から見ると、どこかの市民ホールを思わせる、鉄筋の大きな建築物。内部もまた、コンサートホールのような折りたためる固定椅子。しかし、センスの良いことに、黒っぽい木目調の落ち着いた内装に、立派な舞台の上の堂々とした仏像が並び、和洋の良いところがうまくとりいれられ、なるほどと感じさせられた。中央では火をくべることが出来る。煙は下部の送風機と上部のファンで吸い上げられ、ろうそくや線香などの煙が、ちっとも客席まで来ない。ここのお寺の食事は、精進料理で質素であった。一日目はこのようにあっという間に過ぎて行った。
2日目は同じツアーの人とゆっくり会話出来た一日であった。集落のご近所さんから、初参加の喫茶店のマスター(箕島の有田警察署近くのサテン)のまで、色々な出身の異業種の人々との交流もまた、お遍路の楽しみの一つと言えよう。今回有難かったのは、20代の頃からお遍路に行きまくっているという大ベテランの「大先達(だいせんだち)」さんから、改めてお作法を教わったことだ。輪袈裟を留めるネクタイピンのようなクリップは、これまで、背中の中心線にそって、わざわざ首の真後ろに留めていたが、それを少し中央から右にずらすべきであるとか、特にお蝋燭は、灯りをともす時に、仏像に御尻を向けないようにすべきであるとか、今回初めて聴く注意が多かった。さらに、慢心になりつつある私を諌める出来事が一つあった。輪袈裟留めの位置に気をとられ、トイレに金剛杖を置き忘れてしまったことだ。前回、我流でまわっていたので、雨の日の作法や食事の作法など、適当であった。一度やり方を崩して身につけてしまうと、バスツアーの流儀を思い出すのに神経をかなり使う。金剛杖を忘れたのは、まったくの初めてであった。その直前まで、杖を間違う人や、杖を忘れる人を、皆といっしょにけらけらと笑っていたものだったが、いざ自分が忘れてみると、とても情けなく、恥ずかしくなった。身を引き締め、謙虚に拝まねばと、肝に銘じた。すぐ近くであったので、杖はバスの運転手さんが取りに走ってくださった。大変なご迷惑をかけてしまった。
2日目の寺も、個性豊かであった。左手を石に翳すと願い事が叶うという51番石手寺。今治市にある54番の南光坊では、太子堂のぐるりに、十二支が彫られている。美しい枝垂桜のある59番国分寺では、入り口に石があり、痛いところを擦れば、例えば「腰」という字が彫られている部分をさすると腰が治るという具合だ。こうして2日目が終了し、旅館に泊る。トイレはウォシュレット、風呂は天然温泉(沸かし湯)、とてもくつろげる宿であった。私は、他のツアー客が旧館の風呂に入っている間に、歩いて5分ほどの新館に行き、一人ゆっくりと湯船に使った。リゾート風の新館は、自然で高級感があふれ、お風呂の設備がまた素晴らしかった。
旧館の土産売り場にて、みかん売りの30代くらいのお兄さんと、みかんについての話で盛り上がった。四国愛媛のみかんも売れ行きが悪く、関東からの観光客が不況で減ってきているらしい。お遍路も個人旅行が増えてきている。団体客専門の大規模経営が成り立たなくなる日が、近いのかもしれない(そして、2011年311日の東日本大震災で、それは現実のものとなりつつある)。
3日目、旅館から小さなバスに乗り換え、658分発で60番横峰山に向かう。山の上の駐車場へ着いたら曇ってはいたが、案外眺めが良い。息が白くなるほど寒く、指先が冷える。それもそのはず、お寺に参る前に、冷水で手と口をお清めしてから参っているからだ。一度濡れた手はなかなか温まらないのであった。3日目にまわった寺は、平日のためか静かであり、アトラクションに富んで楽しかった。63番吉祥寺(きちしょうじ)では、金剛杖を持ち、目を瞑って石の穴に向かって歩いていく。うまく穴に杖が入ると、願いが叶うと言う。なかなか、大人の男性向きなアトラクションではないか。数人がやってみて、棒を穴にうまく入れたのは女性一人であった。しかも、彼女は何もお願いしないでトライしたという。つまり、心が乱れていては、穴に集中できないのだ。奥の深い「遊び」である。64番の前神寺では、イタリアのトレビの泉のようなところに向かって、コインを投げる。1円玉で行い、うまく岩に張り付けば願いが叶うと言う。思わず、むきになって、張り付くまで投げそうになる。なんだか、ゲームセンターの感覚で、ストレスが発散できる。65番三角寺では、入り口に鐘があって、一人ずつ鐘を撞いてから入場する。珍しい桜が色々植わっていた。こうして、無事に88ヶ所を巡り、懐かしの66番の雲辺寺にやってきた。まだ半年前に来たばかりの寺だ(日記その62を参照)。その時は一人旅で、初日の早朝、下から2時間かけて登ってきたものだった。今回は、ツアーなので、北部にあるロープウェーを使って登る。景色が良く、これまたよかった。懐かしの名水、工事中の本堂、ただただ懐かしい。最後の大興寺でおおきなカヤの木に再会し、今回の旅は終わった。八十八ヶ所は初めは寺の違いも分からず、作法の大変さばかりがのしかかったものだが、終わってみるとあっけなく、日常の一部のような何気ないものであった。日常が日常か、旅が日常か、もはや境目があって無くなっている自分があった。下山して新たな旅が始まる。

2008年4月四国八十八ヶ所第3弾香川県

四国八十八ヶ所の第三弾、今回は愛媛を飛ばして香川県の旅。テレビでは、おしゃれで有名な卓球選手が春と秋に少しずつ歩いていて、「歩き遍路」もブームであるが、私の場合は車で廻る、三泊三晩の旅であった。
この20084月に町内のツアーで高知県をまわり、すでに一番から四十三番まで四国の南半分をおまいりしている。団体の旅はお作法や読経の勉強になるうえ、連れて行ってもらいラクチンだ。来年4月には四十四番から六十五番(愛媛県)の続きが行われる。それまでに個人で六十六番から八十八番まで廻っておくと、4月にいったときに一周できることになる。北東の香川県は、和歌山から近く、お寺もかたまっているため、一人でも廻りやすい。予め、高松市内にビジネスホテルを2泊予約しておき、そこを拠点に3日で廻ることにする。

10/2 2135和歌山港発 - 2325徳島港着(南海フェリー)
2345ごろ徳島インター - 045ごろ井川池田インター(徳島自動車道)
10/3 六十六番 雲辺寺 - 七十五番 善通寺 高松市内泊
10/4 七十六番 金倉寺 - 八十五番 八栗寺 高松市内泊
10/5 八十六番 志度寺 - 八十八番 大窪寺 
1330徳島港発-1540和歌山港着(南海フェリー)

軽くラーメンで腹ごしらえをし、18時に紀峰のミーティングにでかけた。班会議の途中で20時ごろ抜けて、フェリーの切符を買うために和歌山港に向かった。ここで、しっかりと2時間眠って、早朝の登山に備えるのだ。ぐっすり寝て目覚めると、四国、徳島。2年前は地図が無く国道55号を探しても見つからず、一番目のお寺(霊山寺)まで迷って大変だった(あとで、南に行くなら55号だが、北に行くなら国道11号でよかったことを知る。そもそも、当時は小松島港に着くと思って下りたのだが、実際着いたのはもっと北の徳島港だったではないか)。今回はそのときに買った四国の道路地図があるので大丈夫、と思いきや、やはり徳島インターまで迷う。夜中のため車がすいていて、地図を見る間もなく進めてしまうからだ。途中、道端に止めて地図を眺めながら、国道11号にたどりつく。徳島自動車道もがらがらで、時速80km以上出せたので、徳島県の最西端、井川池田インターへ1時間弱で到着する。ここで、登山道を見つけるのに苦労する。歩き遍路が行く登山道。車で廻る人は、たいていロープウェーで行くので、登山道を示すわかりやすい道路標識がない。県境の「境目トンネル」の手前という漠然とした唯一の手がかりをもとに、32号阿波別街道や192号伊予街道をうろうろする。ようやく、伊予街道のわき道途中に、それらしき小さな看板を見つけたのが、深夜一時半ごろ。大型トラックがぶんぶん行き交う国道沿いの小さな交番を見つけ、そこの前で3時間半仮眠する。セーターにヤッケに、着られるだけ着る。まさか、交番の前で何も起こらないだろうとここでも熟睡。どこででも寝られる菰池は、便利である。
5時前に起床するが、あまりに暗く朝もやで迷いそうであった。家にヘッドライトをおいてきたことを後悔する。さらに、小さなリュックサックすら持ってこなかったことを非常に後悔する。しかたなく、へんろの白い肩掛けかばんに、黒い手提げかばんという、登山ド素人のいでたちで、標高200m地点より900mの雲辺寺をめざす。薄暗がりの515分に登り始める。車へんろ地図には3.5km徒歩2時間とある。それを信じ、7時ごろに登頂予定である。始めはアスファルトの舗装だったが、次第に浮石ゴロゴロの紀州の登山道らしき斜面となる。登っても登っても、中腹に出る気がしない。白いズボンのすそはどろどろ、全身汗だくで、かばんの紐からしたたる黒い汁が白い装束(おいずる)にすじをつけていく。右側から朝日が昇ってきた。もやが消え、空が澄み渡ってきた。1時間ほどたって2km以上歩いた気がした。平らな草原が現れ、アスファルトになり、歩みを速める。このままでは、午前中がこの寺でつぶれてしまう。3日で88番まで行けなくなってしまう。焦りが功を奏し、715分ごろ、六十六番雲辺寺に到着。携帯で寺の写真を撮り、メールに添付して家族に送る。1200年前の昔から、現代につながる瞬間だ。
今回は、般若心経以外のお経の節回しも覚えているので、ちょっぴりバージョンアップした気分。「納め札」という願い事を書いた紙を箱に入れた後、さも、ずうっと参っているかのように、もったいぶって朗々と唱える。が、最初の寺ではやはり、気恥ずかしさが先立ち、声にならない。不思議なことに、小さな声でぼそぼそ唱えると、だんだんと喉に負担がかかるらしく、この日は喉がかれた。翌日から、腹の底より力をこめて声を発すると、声は良くなり疲れにくくなった。さて、本堂と太子堂とそれぞれお参りした後、いよいよスタンプをもらおうと「納経所」というところに出向いた。ここでも、以前の失敗を生かし、きちんとスタンプ帳(納経帳)をたたんで渡し、お坊さんが、「ロープウェーでこられましたかぁ」と御陰影を手に尋ねられたので、「いいえ、歩いてきました」と言うと、ええっというなり手が引っ込められてしまった。下から歩いたにしては、どうやら早く着きすぎたようだ。納得してもらえず、ついに、その御陰影を下さいと言いそびれるしもたまきであった。あとでこの日記にうだうだ書くぐらいなら、その場で「ところで御陰影(ごいんえい)も欲しいんやけど」と言えばいいのに言えない。我ながらなさけない。帰路でも、軽トラに乗った若いお坊さんに、駐車場に車ないけど、どこに止めたのかと聞かれ、下から歩いたといってもすぐに信じてもらえず、懸命に、交番の前で泊まり、神社の空き地にとめたと無実を訴え、ようやく、そんな下から歩いたんですかぁと驚かれた様子だった。山の会の人なら、たいしたことのないミニ登山であるが、なにせ、街中を歩くような軽装だったもので、誤解されてしまったのであろう。
下山は、速や足で速歩のように駆け下り、1時間少々で車までたどり着く。あまりにどろどろなので、次の寺に行く前に身を清めることにした。朝から温泉だ。次の六十七番の寺に行く途中に、たからだの里「環(たまき)の湯」というふるさと創生一億円で建てた施設があると調べてあったので、そこにむかった。名前の怪しさと同じくらい、外見も風水に凝った贅沢で怪しい施設であった。風呂はもったいないほど空いており、“後期高齢者(もはや、死語か)”と思われるグループがちらりほらり。やはりここも赤字経営か?体がさっぱりして、次はおなかがすいてきた。昨夜はラーメン、朝は5時におにぎり。運動量の割にボリュームが軽すぎる。炭水化物ばかりだ。ここで腹ごしらえと思っていると、うまい具合に手作りパン屋、モーニング450円パン食べ放題とかいう看板を見つけた。トースト、サラダ、卵、ソーセージ、コロッケ、ブドウ、コーヒーゼリー、ホットコーヒーのセットに、プラス食べ放題の菓子パン。翌日、翌々日の朝食のパンも買い込んでおく。ここで、すかさず現在地を店の女性に確認しておく。それでも、迷い、六十七番大興寺についたのは、かろうじて午前中という有様だった。3日間のたびで、初日の午前中に2ヶ寺とは、間に合うのか。以後、遠回りであっても、道路標識どおりに行くことにする。
その後は、寺と寺の距離が近く、あっという間に廻れた。個性あふれる寺の数々であった。七十一番の弥谷寺では、200段近くの階段を昇降し、帰りに名物のあめ湯を飲んでみた。あめ湯は特別うまいというわけではないが、しょうがたっぷりで疲れが癒され、店のおばちゃんと、餌付けしている小鳥の話で盛り上がった。「鳥は話ができるんやろか、一羽が餌場に来ると仲間が集まってくる」とか「カラスは、仲間思いで、一羽が撃たれると、仲間がおそろしいほど猟師を取り囲んでしまい、猟師が3000円もらっても、もう二度とカラスは撃ちたくないと言うほどやった」とか、おばちゃんの話は、実際の観察にもとづいており、「動物の行動」のお勉強にもなった。
その日最後の七十五番善通寺では、ビルマやタイの寺院のような建物もあり、外国の寺めぐりをしているようであった。大勢の観光客に賑わい、親子連れも多数いた。線香をたてているとき、遍路の男性が「スズメバチや、危ない、子どもが刺されたら大変や」と、そばの若い母親に注意した。みると、煙に吸い寄せられるようにスズメバチが旋回し、子どもたちの2mくらい上空で、遊ぶ子どもの振る手が蜂に対する攻撃かどうか、迷っているかのように近づいては遠ざかって警戒を強めていた。母親はへんなおっさん、なにいってんのといったかんじで、にこにこ見守るばかり。ついに蜂が子どもの手の1m前まで近づいたとき、菰池は見ていられなくなり、駆け寄ってその子どもを抱えて、その場にしゃがみこんだ。蜂はようやく子どもから離れたが、まだ、上空を旋回している。20代の母親はようやく子どもの危機を知り、私に「どうもありがとうございました」と過去の出来事のようにお礼を言いに来た。スズメバチがまだまだ私たちのすぐそばを旋回中にもかかわらずである。「まだ、蜂はそばにいますよ」と声をかけたが、その場を急いで立ち去る様子も無く、いたって気楽そうであった。もし実際に23歳の子どもがスズメバチに刺されたら、パニックになってやれ救急車だ、寺を訴えるだの言いそうにも見える。まれに、2回目に刺されて、毒のアレルギーでショック死することもあるのだ。そうなる前に、それぞれが予防できればいいのだが。蜂の怖さは耳で聴いて覚えるものではないのだろう。自然と親しむことは、身の安全を学ぶことだと思った。

お遍路の初日(2007103日)はなんと10ヶ寺も廻ってしまった。香川県西部は金刀比羅宮(こんぴらさん)の周辺で、神社仏閣のひしめく地域と言う感じ。高松市内のビジネスホテルは、インターネットで予約した。お遍路割引というのがあり14000円という格安だ。宿代が浮いた分食事にまわそうと思い、夕食は宿の近くの韓国風石焼の焼き鳥にいき、生ビールまで頼んでしまった!お遍路=酒禁止ではないことを、団体のツア-で学習済みであり、普段着に着替えてどうどうと注文できた。疲れていて、寝つきも良く、目が覚めると6時前であった。寝坊だ。
翌日10/はやや曇りがちであるがよい日和。顔が日焼けで腫れてくるほど、紫外線が強い。七十六番金倉寺も、携帯電話で写真を撮りメールで送る。一人旅なので、家族や職場にいつどこにいるかの連絡が欠かせないが、こんなとき、メールが手軽にできる携帯電話は便利だ。金倉寺は住宅街の中の、静かなお寺だ。ずうっと近くに寺が続き、5ヶ寺まわると、まだ10時半という具合だった。次から山の上の何もない寺が続くことが分かっていたので、やや早いが昼食をとっておくことにした。というのも、朝、国道沿いにベルギーチョコソフトの旗がはためくコンビニをみつけたが、「朝っぱらからソフトクリームはないよな」と思っているうちに、暑くなってきたころに限ってまったく見当たらなくなって悔しい思いをしていた。昼食も、取れるときにとっておこうと、国道を10㎞も戻り、坂出市内のインド系シェフが2人いる本格派インド料理のレストランに行き、マトンサグ(羊肉とほうれん草のカレー)を注文した。緑色のカレーで、久しぶりに緑黄色野菜たっぷりのおなかに優しい昼食となった。
1310、八十一番のお寺白峰寺に行く。瀬戸大橋を眺め、またもやメールに添付して送る。天気が下り坂で、かすみ始めており、送った写真もどこからどこまで橋だかよくわからない駄作だった。2年前の屋島からの瀬戸大橋は、とてもくっきり見えたのだが。そこの百万ドルの夜景に、今度は昼間に来て参るぞと、誓ったものであった。ここ白峰寺で、高知県ナンバーの観光バスとかち合うようになった。バスから大勢のお遍路さんが降りてきて、拝むのも納経所もスムーズに進まなくなってきた。唱えるお経も違い、拝みにくいなあと思っていたところ、次の根香寺で美しい御詠歌の響きが聞こえてくるではないか。近づいてみると、高知の団体だった。そばでいっしょに唱えたところ、向こうも喜んでくださり、その後の一宮寺でも一緒におまいりすることになった。高知のどこからか聞いたところ、高知県の北部、さめうらダム(全国ニュースで貯水率が流れる)の近くからという。話し方はもちろん高知弁。なんだか、高知出身の祖母と一緒にお参りしている気がして、つい、懐かしい感じがしてしまった。次もご一緒かと期待していたら、今日はここまでという。残念、屋島寺には一人向かうことにする。
八十四番屋島寺は4年前、実家大阪の祖母が96歳になろうというときに、生まれて初めての四国参りを試みて、救急車のお世話になって強制入院。無念の帰阪。涙を呑んだ寺だ。老衰で亡くなり、屋島寺が最後の寺となった。今度こそ、祖母の話を聞いてみたい。ドライブウェイで壇ノ浦を見下ろしながら登り、観光客とカップルでにぎわう山頂に向かう。昼間に来ると、ますます、こけるような石段のない、平坦な普通の寺だ。納経所で女性に、4、5年前956歳の祖母がころんでここで救急車を呼んでもらったのですがお世話になりましたというと、「私は当時土産物屋にいて、救急車のことは覚えています。確か、東門の石段で、足を踏み外して仰向けにこけたのです。お元気でいらっしゃいますか」とおっしゃった。「祖母はお陰さまで軽傷で済みました。その後老衰で亡くなりました。ここが最後のお寺でした」述べたところ、そばのお坊さんも、「そのおばあさんなら、こけた後自分で立ち上がれないほどだったので救急車を呼んだのですよ」と、まるで言い訳するかのように言った。女性は「おばあさんは亡くなられたのですか。きっと、満足なさって、成仏なさったことでしょう。こうして、お孫さんが参りに来て、よろこんでいらっしゃることでしょう」ととりなしてくれた。「あのとき、台風の近づいてくるまま倒れていたら、大変なところでした、ありがとうございました」ようやく私は、祖母に代わって、お礼を言うことができてとても満足だったが、お寺の側は、善意でしたことがお参りを妨げたと、心境複雑だった様だ。帰り際、東門の石段を踏みしめながら降りた。二メートル間隔に10㎝降りる程度の、たわいもない階段だけに、手すりも無い。旅で疲れた祖母の足はもつれてしまったのだろうか。傾斜がない分、背の高さだけ思いっきり、後ろに転んだことだろう。95歳一人旅の老人を見て、寺の人はどれだけ心配してくださったことか。
もう一ヶ寺廻っておきたい。そうすれば、早いうちに和歌山に帰れる。そう思い、無理を承知で八十五番、八栗寺に行った。1645分のロープウェーで上がり、しまる直前の納経所で判を押してもらう。それからゆっくりお線香とおろうそくを立て、お経を唱える。一人静かに唱えるのは気持ちがいい。しんみりした気持ちで、帰りは歩いて30分かけて下山した。さすがに、旅も二日目で、足が筋肉痛になっていた。適当に入ったうどん屋がいまいちで、明日こそはおいしい讃岐うどんを食べるぞっと誓う。
10/5は早朝から雨が降り始めていた。八十六番に着くと、本降りになってきた。実は、雨のお参りは初めて。お作法を知らない。つたない記憶を頼りに、金剛杖にビニール袋を掛け、傘を差して寺に行く。ツアーだったらきっとヤッケを着るように言われただろうか。志度寺は香川県東部の海辺の街中にあり、日曜だからか雨だからか、とても静かであった。八十七番長尾寺では、雨の中、ママちゃりで参拝する男性に会った。この時期、ツアー客は少なく、普段着にかさをかぶった学生さん風の若者が多い。自転車バイク組みも、山道は大変だろうに、健在だ。「車はええなあ。でも、もうすぐ満願や」うれしそうに次の寺へ走っていった。次は最後の八十八番、大窪寺。他の人は、一周したうれしさで終わった寂しさで、記念撮影している。私はまだ、愛媛県が22ヶ寺残っている。残っていることがまだ嬉しい自分がいる。終わったら二週目に駆られる人がいるのは、こんな心境だったのかもしれない。こういうのをはまるというのだろうな。
さて、ここからは標識がない。自分で進路を決めなくてはならない。八十八番までは、決められた線路の上を通るだけだったが、この先は、それぞれのふるさとへ、案内板も無く、めいめい帰っていくだけなのだ。東かがわ市にでて高松自動車道―淡路大阪経由でもよし、徳島自動車道に出て南海フェリーで戻るでもよし。ここで、私はフェリーでのんびり充実帰路を選ぶことにした。県道2号の山道をゆっくりくだり、途中の12号ぞいのスーパーでなるとわかめを購入。そこで、近くにおいしいうどん屋さんを教えてもらう。板野にある丸池という手打ちうどん屋だ。高松市の「るみおばあちゃん」と言う有名な方から伝授されたと言うふれこみの本格派。釜揚げを頼んだところ、目の前でこねてスライスして、10分かけてゆでてくれた。こしがあって、いくらでもおかわりしたくなる味だった。
徳島港では、いきつけのといっても2度目であるがケーキ屋により、二種類のチョコレートケーキを頼んだ。フランス菓子のお店らしく、ウィーン系の油こってりザッハートルテよりも焼き菓子風のガトーショコラのほうがおいしかった。フェリーの中には、アメリカ人らしき、バイクの集団がいて、ここも地中海(瀬戸内海とか、陸に囲まれた海)らしいで、めっちゃ近いなあ、などとたわいもない会話をしていた。私はと言えば、わすれないうちにこの日記の下書きをメモし続けていた。今も、こうしてワープロで打って入る間に、かやの巨木の連なる寺、天井の彫り物のきれいな寺、千体ほどの像がまつられた洞窟、弘法大師の生涯を絵にして飾ってある、まるで西洋の教会のキリストの生涯を描いた絵画風の寺、、、さまざまな寺の風景が次々と思い出されるが、寺の正しい名前は、ガイド書と首っ引きで、ひとつひとつ名称を思い出さねばならない。遍路ツアーなら、メモを手に歩きながら、先達さんに解説をしてもらえて、記録に残しやすい。一人旅の欠点は、観光バスの車内で、拝観後に寺院名のメモを取ったり、地図で調べる余裕がないことだろうか。そのかわり、道中の思い出は、ツアーよりも鮮明である。迷って苦労した寺ほど、記憶に強く残っている。一人旅のほうが、いろいろな人が声を掛けてくれる。人生もそうなのだろうか。
例えば、ベルトコンベアーにのっているかのような学生、結婚育児と追われる女性は、じっくり考える間が無いようでいて、かえって人生を振り返ったり、将来設計しやすいのかもしれない。
あたかも、子どもを見て、自分の子ども時代を振り返り、子どもの成長や家族の定年で、自分の人生も左右されるとか。つきあいは、家族や親戚が中心になりがちである。
独身の場合は、自由なお金と時間があるようで、その日を生きることに追われ忙しい、人生についても自分で設計し切り開いていかねばならない。そのかわり、得るものも大きいし、かかわってくれる他人も多いのではないか。どっちが得とか幸せとかではなく、一人遍路か団体ツアーバスかといった違いなのではないか。自転車で参っている人を見ると、歩くでもなく、ツアーバスでもなく、拝み方も自己流。しかし短期間に自力で一周できるその達成感の大きさを考えると、山中の苦労を考えると、すごい生きかただ。歩かねばお遍路ではないとか、先立ちがいないとお遍路ではないとか、そんなしがらみから開放されている気がする。さまざまなお遍路さんを見ると、そんな風に人生が見えてきたのであった。