2011年5月28日土曜日

2007年10月6日四国石鎚山登山&救助隊緊急招集

この10月は、沢部のT氏とT姫と3人で、四国の石鎚山に登った。T氏が企画する山行計画はいつも、お楽しみが盛りだくさんで、例えば、花見や紅葉狩りをかねていたり、おいしいものを食べたり飲んだりするのだが、今回も「秋祭り」の西条市観光つき。そして沢部らしく、登山前には宿周辺の渓谷散策が加わり、コース料理のような華やかさだった。四国と言えば、昨年の10月に、四国お遍路の旅で行ったきり。ちょうど丸1年になる。ひとり車で2泊3日を旅した思い出が、次々と湧き出てきた。それがまた、余計な遠回りをもたらすのだが、、、
10月6日の土曜日の朝、フェリー乗り場へ向かう途中でT氏を拾う。ここでは、ぜんぜん違うところで待ち合わせていて、会えるまで10分ほどロスする。和歌山港ではT姫が、すでに乗船手続きをすましており、菰池カーの駐車場の確保もしてくれたので、時間通り徳島港についた。懐かしの徳島氏市内。巡礼最初の寺、霊山寺のそばに、ベートーベンの「第九」の“博物館”があったのを思い出した。歴史好きの菰池にはどの展示も刺激的で、古い手書きの楽譜をまじまじと観察したり、第一次世界大戦当時の、日本の音楽史の一ページを紐解くのはとても興味深かった。T姫も一緒に第九合唱団で歌っているので、“博物館”のことを話したところ、インターに近いなら行きたいとの事。しかし大きな間違いがあった。前回は1日目は、徳島市街地図を持たずに“寺めぐり用”の略図と勘でうろうろしていたのだった!徳島インターから寺まで約10km、寺から“博物館”まではさらに10kmもあったのだ(10kmといえば有田では日頃、ちょっと近くの郵便局や銀行に行く距離である。信号のない田舎ではせいぜい時速60kmで10分くらいの移動距離だ。しかし大阪市では市内の端から端の距離であり、信号が多すぎて、バスや原付の移動に1時間近くかかってしまう。たとえそれでも、田舎では「たったの1時間」の距離である。電車も、逃したら「10分も待つ」とあわてるのが大阪市内。有田では電車を逃したら次は30分後、特急なら2時間後。こうして、時間通り杓子定規に学校や会社が動くほど、車社会が加速していく)
そうともしらず、3連休のいつもより混雑した徳島市街地をうろうろ。そしてついた博物館は「第九」の映画公開直後の去年までと違って、地元坂東との歴史と、本来の「ドイツ館」のネーミングにふさわしいドイツ地ビール&ドイツ特産品会場!思ったよりも時間がかかってしまい、菰池は2人に申し訳なく、宿で飲むドイツワインを買い込んだ。大勢で行くときはやはり、下調べが肝心であります。すみません。
秋祭りのほうは、私と違い、T氏が前もって下調べしただけあって!さすが見ごたえのあるすばらしいものだった。東予丹原の出口近くの、とあるスーパーの駐車場で、4~5mはあろうかという大きな神輿(2m以上もある大きな山車だが車輪が無く、途中まで台車で運び、広場で大勢で担いでいる)が8台勢ぞろい。それぞれデザインが違い、集落ごとのちょうちんとはっぴを着込んだ10代の若者~50代が、1台につき30~40人くらい碁盤の目にならび、囃子歌とともに肩まで担いで練り歩く。他の台にけんかをふっかけては、さらに両手で万歳するまでもちあげる。上手なグループは、息もぴったり見事水平に持ち上がるのだが、へたくそな集落では、だれかがいそいで万歳するせいで、担ぎ損ねたほうに神輿が傾き、それはそれでスリルがあってみていて面白いのだった。神輿には大阪のだんじりのように1階にお囃子の太鼓、2階の屋根の下にバランスを取る身軽な若者がいて、大きく傾いたときの彼らはとても哀れであった。あるときは観客の停車中の自動車にぶつかりそうになったり、他の神輿との間に挟まれそうになったり、あやうく、バランスを崩して下敷きになりかかったり、それでもすぐそばまでベビーカーで見ている親子もいて、地元の子どもは見慣れたもの、ちっともビビらずに一緒に眺めている。われら3人はアドレナリン出まくりで、その後の道中、テンションあがりまくりだった。
石鎚山から流れ出る面河(おもご)渓のとりわけきれいな川原のそばに、国民宿舎はあった、に泊まる。どう美しいかと言うと、あたりはカルスト地形の白い大きな岩。そこに上流からながれてきた青や緑などの小石がちりばめられ、鉄分を含んだ赤い水が白い石を赤く染め、いつもならそこにブナ、カエデ、クリといった落葉広葉樹の紅葉がさらに色を添えるのである。深い淵などは、トルコブルー、エメラルドグリーンの宝石のようであった。残念ながら今年は暑さで紅葉のほうはまだだったが、木々の淡い緑の濃淡のそれは、それでまた美しい風景だった。国民宿舎には、大勢の家族連れが泊まっていた。ある、広島から来た御夫妻は、我々に駆け寄ってくると、「和歌山の方ですか?わたしも和歌山出身なんです!」聞くと御夫妻の夫は、菰池の暮す有田の近所の集落、奥様のほうはT姫とおなじ川辺出身であった。奥様とT姫は「○○さん、ご存知?」などローカルな話題で盛り上がっている。転勤で広島に定住し、娘夫婦は松山に暮らしていて、孫と一緒に泊まりに来たと言う。お互い、奇遇に驚いた。あとで奥様のほうが、広島の住所を手にして、「広島に来たときはいつでも泊まりにきてください」といってくださった。もう一人、宿で忘れられないのが、調理場のお兄ちゃんである。ドイツ館で購入したワインやビールを、厨房で冷やしてくれた上に、焼酎のロック用にと、大量の氷をプレゼントしてくれたのだ。服装や顔、外見ばかり“格好がいい”のではなく、中身も“かっこよく”“やさしく”、このスマートな気遣いの兄ちゃんがいるなら、また来たいと思わせてくれる。旅館業というのは、やはり、どんな高価な立派な設備より、心遣いと気配りだ。
今回は、メジャーなロープウェーのコースではなく、最近流行らしい石鎚スカイライン経由。宿から登山道まで、車で標高1400くらいまでのぼり、ほとんど起伏のない整備された道を4kmほどいき、ロープウェーコースと合流した後は、傾斜がすこしずつきつくなっていく。最後のほうに2つのルートがあり、本来の修験者のためのルートは、垂直に近い岩のくさり場を60mほど登る。もうひとつのルートは、下山路も兼ねた、鉄の網でできた人工の廊下と階段道。山頂には石鎚神社がそびえている。連休中のため、登山道はにぎわっていた。朝はお遍路さんの格好の家族連れ。3~4才くらいの子供が、白装束に輪袈裟でおばあちゃんの手にひかれ、元気よく「おはようございます!」と大きな声で一人ずつに挨拶する様子と歩く姿がかわいかった。個人の家族連れもたくさん見かけた。それに対して、夕方は大手旅行者の団体さんが何十人も次々と登ってきた。あるいは、ちょっと散策のつもりで、上等の革靴の“おねーさん”や、空身手ぶらで歩く“おじさん”、屋台のプラスチックパックを手に歩く“おばちゃん”など、そのまま登ったら遭難しかねないような人々も登ってきて、本当に大丈夫だろうかと気をもんだ。
神社のある山頂は、台風が近づいているせいで、晴れたり雲がかかったりで、眺めは最高とはいえなかったが、たまに天狗の鼻のような岩がくっきりと目の前に現れ、遠くに瀬戸内海が、青空の一部のようにかすんでみえた。ひと休憩した後、“天狗の鼻”の岩のほうに歩いていくことにした。左側はきりたった断崖、右側は比較的緩やかな、緑の牧場のような風景の上に、赤々と燃える紅葉がせまる。標高1900以上はもう、秋だ。みると、岩の上で確保している人物が。左の断崖の下をのぞくと、セカンドの男性が、ヌンチャクを回収しつつ、リングにアブミを交互にかけているのが見えた。この絶壁を登ってきたのもすごいが、絶壁のとりつきまで、1m以上の笹薮を藪こぎしてきたその気力に敬服してしまった。私が面白がって崖下を覗きこんでいると、そばにいたおばちゃん達数人が次々といっしょに見下ろし始め、「いやあ、かっこいいわあ!」「映画見てるみたい!」と黄色い声を上げるので、登っている人はギャラリーの多さに、きっと余計に緊張しているんやろなあと、心中を察してしまった。こうして、石鎚登山は、ほとんど雨らしい雨も降らず、暑すぎず寒すぎず、無事に終わった。
和歌山への帰りは面河を通らず、宿の人にきいた、広くて楽な道というルートを使うことになった。山道大好きの菰池が、T姫の車の運転を買って出た(松原氏や、浅井氏、玉置淳子氏らと信州など、遠出するときは、菰池が運転していた。連続4時間以上ハンドルを握ったこともある)。ギアが脚のそばではなくハンドルの横についているAT車。このタイプに乗るのは初めてだったが、何とかなるだろうと思った。ところが、その広い道に出るまでの林道がくせもので、車2台がようやくすれ違えるかどうかの道幅。そのうえ、ほとんど霧がかかっており、対向車が見づらいのである。2速にシフトダウンしてエンジンブレーキを利かせながら走っていたが、しょっちゅう対向車をよけるために、ドライブやバックに入れることになり、それがまた、操作慣れていないので、思うところのギアに入らない。みかねたT氏が横からギアを入れてあげようと手を伸ばしてくる。こんなことは、生まれて初めてだ。
びっくりして視線がT氏の手に行った瞬間、右から対向車が霧中から飛び出してくるなんてこともあり、前日の秋祭り並みにとてもスリルのある!?ドライブとなった。T氏もT姫も、自分で運転するほうがよっぽどいいと思ったに違いない。こんな山道で、後ろからあおってくるカップルがあり、菰池が道を譲ってあげると、颯爽と飛ばしていった。あまり進まないうちに、ききっと音がした。前方でカップルの車が、左カーブで対向車と危うく接触しかかっていた。道の中央を走ってきた対向車は、スポーツカーで、車幅が広く後ろが見づらい。この対向車のほうが、気を利かせてカーブをバックして道を譲ろうとして、不運なことに、対向車のスポーツカーが後輪を溝に落した。ところが、譲ってもらった若者カップルは、これ幸いに、そそくさとそばを通って去っていってしまった。唖然とする我々。それはないやろう、とT氏。菰池がスポーツカーのそばを通り際に「大丈夫ですか」と声をかけると、低い車高を道にすりながら、なんとか自力で脱出していった。ちなみにその若者カップルはこれに懲りたらしく、その後はあまりスピードを出さなくなった。そのテールランプの後をついて走るのは、霧の中でとても楽になり助かった。
気が付けば、林道は高知県内を走っており、どうやら、ひどく遠回りしているらしい(霧や、通行止めなどのせいで、かなり遠回りしないと帰れなかった)。そのうえ、ようやくたどり着いた南北の広い道は、標識がわかりにくく、どちらに愛媛の西条市があるのか、迷ってしまった。暫く行くと、高度が下がっていることに気づき、さすがに菰池は変だと気づいた。T氏に引き返すと提案。案の定、西条へ抜けるトンネルに出会った。あのまま戻らずに進んでいたら、危うく今日中に和歌山にたどり着けないところであった。途中、T氏に交代してもらうものの、その後も運転を続け、フェリー乗り場についたのは6時半、ぎりぎりだ。この後、フェリーのなかで、浅田真央や安藤のフィギアスケートの放送をじっくり楽しんだ。

10月7日のその後。目的地の石鎚山は天気も持ってくれて、楽しい山登りになった。残念なことに、帰りのフェリーの中で、緊急の電話がかかって紀州山友会の事務所に向かうことになってしまった。その事務所では、下山時刻を過ぎても連絡がないと、大騒ぎしているという。しかも、信州で岩を登っているそのグループというのは、県連の救助隊長の義兄らのグループなのだ。各山岳会をまとめ、救助隊を率いる救助隊長がいないため、留守本部はどうしてよいかわからずに、話がだんだんと大きくなって行ったと思われる。
和歌山市にいるのが好都合と、T姫と別れ、9時半ごろ、フェリーを下りたその足でT氏と2人で事務所に向かった。事務所では、男女十数人の会員がかけつけてくれていた。なにやら、張り詰めた雰囲気。いままで実際に、このような招集がかかったことがないのだそうだ。とりあえず、菰池が、現在の状況を知るべく、経過を留守本部(登山計画書には、下山報告を受ける人を、緊急用に一人決めてある)の男性に聞く。山友会から3名と紀峰から3名、計5名が穂高の屏風に登っていて、7日16時が下山予定、19時の最終時刻を過ぎても帰ってこないので、松本署や横尾山荘に、なにか事故や遭難の情報がないか聞いてみたという。これからすぐに信州に行くべきという意見もあったが、菰池が
「本格的なアルプスの登攀では、予定より1日遅れることはよくあること。明日の10時まで待とう」
と提案し、すぐに出発しようとしているのを引き止める。山友会のメンバーが、「誰か、信州に行ってくれる人はないか?」と募集をかけたが、人があまり集まらない。自営業のT氏は、「明日の月曜の祭日は空いているが、平日の火曜日がダメ」と言う。M高校の非常勤講師の菰池は、たまたま火曜日が、学校の行事の代休で休みであったので、そのことを伝えると、信州行きの有力候補に挙がった。菰池が、「現地に向かうまでに数時間かかる。それよりも、今、信州で登山している仲間に携帯で連絡を取り、彼らを見かけたかどうか、情報収集をしてもらう方が早い」と提案した。その場で、行動力のある人が、次々分業していった。穂高にいるはずのメンバーの携帯にかけ続ける人、メンバーの家族に電話をかける人、装備を用意する人、資金を用意する人など。紀峰のT氏にも、すでに涸沢にはいっている重栖氏に現場で情報収集してもらおうと、携帯電話でH氏に連絡を取ってもらう。「家族に電話するのは明日にするか、夜中に聞いたら心配するから」と山友会のメンバーの一人が言う。「そやなあ」「これからはかかってきた電話は、時間と内容をノートに記録しよう」と、菰池。ところが、「記者会見に備えるんか?」「警察に言ったらすぐ記者会見やろ」「まだ、警察に捜索願いは出してない!」。急な召集で集まった人々は、だんだん悪い方に考えるのか、話がすぐにそれて大きくなる。
冷静になってもらうには、まず、飲食して落ち着くのが一番である。近くのコンビニに出かでかけ、差し入れのペットボトルと紙コップを数本購入すると、レシートを山友会の人に手渡し、「これから、購入したものは、別のノートに記入し、レシートを取っておいたほうがよい」と助言する。そして、お茶やジュースを飲んで一服しながら、「全員起きてつめていても仕方が無いので、電話番は交替で行い、時間と内容をノートに記録して、情報を共有し、他のメンバーは休めるときに休むように」とも助言する。和歌山の県連に救助隊ができてから、一度も召集や出動はないが、今回の経験は、組織作りのとてもいい実体験となることだろう。
こうしてもろもろの役割分担、手順が決まった後、明日の7時に事務所集合ということで、夜11時過ぎに一度解散。我々は朝の出発までに下山報告の電話の来ることを祈りつつ、帰宅した。すると、夜中の12時半ごろ、菰池が自宅で信州行きの荷物をつめていた最中に、下山報告の電話があったと留守本部の男性から連絡があった。連休で混んでいて、ルートの順番待ちなどでおそくなったらしい。わざわざ有田まで、この留守本部の男性から電話(救助隊の一員としての連絡)と、義兄と同行している山友会の男性から電話(おそらく、全員にかけるよういわれて、留守本部に救助隊として詰めていたと知らずにかけてくれたのだろう)を、それぞれ下さった。こうして、朝5時に起床して、渓流散策、石鎚山登山、霧の林道恐怖のドライブ、カーフェリー内での浅田真央と安藤のスケート鑑賞、会事務所に緊急招集、信州への荷造り夜中の12時半、、、と長かった一日が終わった。

2007年9月2日復活沢登り

つ、つ、ついに!沢部のしもたまきは本来の沢に復帰しましたぞ!靱帯を切ってはや3年半、この日を待ちに待っていましたのだ。
トレーニングジムでせめて週に1日1時間半だけでもリハビリを続けようとしたが、なかなかまとまった時間を定期的に取れなかった。やりたいだけ思う存分リハビリができる人がうらやましかったものだ。というのも、手術するに当たって、医療関係者から「どうせすぐに、リハビリをやめるだろう」と言われていたからだ。くそ!絶対スポーツ復帰してやる!とむきになってした手術。ようやくの沢登り。この3年間めげずに、こつこつトレーニングを積んできた甲斐があった。
2007年9月2日の早朝、田井ノ瀬橋に着くと、激しく雨が降っていた。これは中止かなあと思っていたら、私より先に来ていた大西さんがぼそっと「そのうち止んで行けるでしょう」。大西さんの予想通り、雨はだんだんと小降りになって、東の空から真っ赤な朝日が見えてきた。この、朝日の方向に、めざす下多古川があるのだ。その後、ぞくぞくと参加者が到着。計7名(寺下、山路、池永、大西、今井、須部、しもたま)で出発。ところが、またもや雨が。途中のスーパーで一時下車。リーダーの寺下さんが「これは今日は中止やなあ」と言って、解散の打ち合わせをしていると、そんなときに限って晴れてくる。「もう、どっちや」と怒る寺下さん。そのはずである。今週は、そもそも日曜まで4日連続雨の予報。こりゃ週末はあかんかも、、、と思っていたら、実際は木曜からほとんどふらなかった。ひょっとしていけるかなあと思っていたら、再び日曜に雨マークの予報。金曜日に沢中止の連絡が全員へと回ったものの、やっぱり晴れるかもしれないので、直前に行くかどうか考えようということになった。その当日がこの紆余曲折である。寺下さん、とってもお疲れ様である。
下多古につくと、ウソの様にかんかん日和。楽しい沢登りが始まった。初級の沢ということで、みんな気楽な気分。わざと小さな滝を選んで直登してみたり、登るのを競争してみたり、遊び心いっぱい。滝によっては、水量がすごくて、手探りで岩をつかみながら水圧に逆らって登るところあり、つめたい淵を泳いで横切るところあり、下界の暑さをよそに涼しく気持ちよい。一ヶ所、前にも後ろにも進めず、お助けロープを寺下さんと池永さんに出してもらったところがあった。まだまだ、沢の修行が足りないようである。新人の須部さんは、チャレンジ精神旺盛で、お助けロープもなく、するすると岩を登っていった。ちょっとくやしかった。この沢にはカエルが多くて、いろんな色といぼのカエルが岩にへばりついていて、何度も岩と間違えてつかみかけた。ヒルがいなくて、私は快適だった。が、カエル嫌いな人はそうでなかったかもしれない。ひとつ気がかりなのは、1.5mほどの滝を登るときに、足場が崩れて須部さんが滑落してしまったことだ。私が横から話しかけなければ、すんなり登っていたはずなので、悪いことをした。あやうく、顔から落ちるところで、うまく肘から受け身を取っていた。後で肘が腫れてこなければいいのだが。
予定より30分遅く出発し、いろいろ遊んだわりに、計画書どおりの時間に最終ポイントについてしまった。時間と体力があると言うことで、更に上流のびわの滝を目指す。ここからは傾斜が少なく、スピードが上がって、足腰に負担がかかる。足がもつれるかと思ったが、8月にみかん山や、自転車、ランニングで鍛えた甲斐があり、余裕を持ってびわ滝までたどりつくことができた。いっしょにならんでの記念撮影。今井さんの手には「子どもにいい土産ができた!」と、びわ滝で捕まえたカブトムシが!
帰りに温泉につかり、疲れた筋肉を休めて、これまた予定の時刻に田井の瀬に到着。解散となった。この沢登りで、明日から仕事だということをしばし忘れることができ、楽しい仲間と過ごす喜びがあり、さらに筋力アップを果たし、満たされた気分だった。筋力アップのお陰で、職場の階段の昇降もすいすい、柔道も自分より重い子と練習しても余裕たっぷり。生活にゆとりができて、いいことずくめだった。

一度失った機能を復活させるには、地道なトレーニングが、それも日常生活以上の負荷が必要である。日常生活は、他の筋肉やもう一本の足でごまかせることも多いので、どうしてもその機能を使わずに入られない状況に追い込む必要がある。私の場合、手術で2ヶ月ほど体重を左足にかけられなかったため、筋力が低下し、必要な神経系統のバランスも体が忘れてしまっていた。さらに、かわりの靱帯を作るために太ももの裏の筋肉を2本も失ったし、手術で神経を傷つけたために、すねから下の感覚が2~3割ほどに鈍ってしまっていた。触覚、痛覚ばかりでなく、温度感覚も減った(2010年に、ようやく左足の指先まで感覚神経が全てつながり、触角、痛覚、温度感覚が8~9割まで回復した。人間の神経は再生力がある)。こういった感覚を取り戻すためにも、激しいトレーニングが必要だった。筋力のほうは、普通のリハビリで日常生活レベルになっていたが、柔道で必要な筋肉は柔道で、沢登りで必要な筋肉は沢登で培うのが近道なのだ。実際、柔道に必要な筋力と感覚がはっきり戻ってきたのは、柔道完全復帰を果たした、この夏からだ。柔道の乱取り練習で、茶帯相手に激しく動いているうちに、足先からの刺激がきっかけで、切れていた神経と神経に連絡通路が新たにできたのだろうか。足の指で大地をぐっとつかんでいると、すねにぽかぽかと暖かいものが流れてるのが感じられる。まるで凍っていた足が暖まって、“じんじん”しているかのようだ。血行がよくなったのは本当だが、温感がもどった証拠だと思われ、とても感激だ。日常生活に余裕が生まれてうれしかった。
こうして、今回の沢登りだが、思ったほど感覚を忘れていなくて、歩いてもあまりばてず、楽しむことができた。日記にようやく、本物の復活日記が書けた。また、日記の続きを書けるような山に行きたいものだ。

2007年教師のあるべき姿

またまた柔道のお話。全国大会に行ってきた5年生の女の子の結果である。小学生の体重別個人戦で優勝し、和歌山代表で四国に行った彼女は、長野代表と佐賀代表とリーグ戦で戦った。そして結果は1勝1敗。惜しくも決勝リーグに進出ならなかったものの、滝川道場の力を全国に示してきたのだった。すごいぞ滝川柔道場!しかし四国から戻ってこられた先生は、意外にも皆の前で「負けたのは先生の教え方のせいかもしれない」と謙虚なコメントであった。理想の師匠としては当たり前の態度と言ってしまえばそれまでだが、今の時代なら、自分に非があっても逆切れ!ひらきなおって言ったもの勝ちといった風潮。「こんな負けかたして、おまえらもっと練習せんか!」とすべて子ども達のせいにもできるのに、あるいはようやった、1勝したのはワイのお陰やと恩を売ることもできるのに、したでに出たら、子供や保護者になめられるといばる大人の多い中、それをなさろうとしない姿勢に打たれた。最近、なかなか目にすることがないだけに、あまりに自然になさる姿にどきっとする。
さらに先生は、柔道精神について、あらためてお話された。それはここでは詳しくは書き切れないが、要約すると、相手への思いやりだ。行動を起こす前にいろいろよく考えること。人生は自分の思い通りにならないこともあるが、だからといって他人を傷つける子どもにはなって欲しくないとおっしゃった。趣味にもいろいろあり、伝統芸能や伝統スポーツにおいては、ただ技術を極めるだけではダメな部分が大きい。柔道の先生と言うのは、学校の先生や企業の上司のようなリーダーシップに加えて、倫理的に正しい、お坊さんのような尊敬されるに値する行いが求められているのかもしれない。そして、それは道場の先生になると急に身につけるものではなく、小さな子どものころから、柔道を通じて学ぶものなのであろう。確かに、武術というのは、本来は戦い方の練習をしているわけで、他人を襲う動作を、仲間内で怪我せずにいかに身につけるかという矛盾にみちたスポーツだ。自分と相手をよく知り、相手が怪我しないように気遣いながらする練習。リーダーとはどうあるべきかと言うことを、自然と学んでいるのではないか。つまり登山のリーダーにも、通じるところは大きいであろう。経験や知識プラス人柄が、メンバーから尊敬され慕われるようなリーダー。メンバーの力量を見破り、ベテランは新人をひき立て、若者は年配者をいたわり、危険な状況でも互いの協力によって安全に努める。他のメンバーや他のグループに迷惑をかけないよういたわりあう気持ちは、山の世界でも通じるのではないか。柔道も山も未熟な私だが、互いのあるべき姿はみえるようなきがする。
滝川先生がこのように子ども達に語りかけるのは、この数年のうちに2人も若者を失ったからだと言う(ひとりは荒れた波を見に行ってさらわれ、一人はバイク事故で)。その若者たちに、こんなことも言っておきたかった、あんなこともしてやりたかったと言う思いが、今の子ども達への思いと重なっているのだろう。説教を聞く子どもらの多くは、今すぐ先生の言葉の意味はわからないかもしれないが、きっと、近い将来、その言葉に支えられたり、救われることがあるにちがいない。そのとき、亡くなった若者らの尊い命は後輩に生かされ、先生の思いは結ぶのだろう。
学校の先生が、道場の先生のように、人の生き方というものを身をもって教えることができたならば、どんなにすばらしいことかと思う。それを妨げているのは何なのであろうか。教師のリーダーシップは、企業の上下関係とは違うと聞いたことがある。一般の世界では、黒いものを白といってたとしても、白として全員が従うのが正しい人間関係だが、教師の場合は白は白、黒は黒として生徒に教えなければならない。平等、真実を追究するのが教室での正しい人間関係だとしたら、それをそのまま社会に持ち込むと、杓子定規な人、人の和を乱す人ということになってしまう。実際子ども達が社会性を磨くのは、同級生との会話だとか、クラブでの人間関係のほうが多いことだろう。授業中ではないのではないか。
いろいろな地域社会、家庭環境で育った子ども達に、社会の普遍的なルール、いろいろな価値観や家族観を学んでもらうのが、「学校」だと私は思っている(知識を詰め込むのは、その手段である。語彙や知識がないと、自分で考えたり他人に考えを語るすべを持たなくなってしまう。数学を学ぶのは数学的思考の訓練、理科は人間を含めた自然の摂理を、英語は英語圏など異文化の考え方を理解するためでもあるのではないか)。それには、先生は同質である必要はないと思う。独身の先生、子どものいる先生、孫のいる先生、離婚や再婚経験のある先生、教育学部を出た先生、会社勤めをした事のある先生、自営業の経験のある先生、いろいろな先生がいるほうがいい。お坊さんとか道場の先生と違って、もっともっと人間くさい、考えの偏った人が集まって自分はこう思うといろいろ述べたほうが、子ども達の刺激になると思う。もちろん、生徒も、いろいろな家庭環境の生徒がいたほうがいいと思う。
農家や漁師の子どもも、大会社の重役の子どもも、親子2人暮らしの子どもも、大家族の子どもも、両親が外国人の子どもも、いろいろいたほうがいい。そんな異質の人間の集まる学校の平等と言うのは、どんな宗教からも干渉されず、親の地位職業にかかわりなく学べることが平等であり、決して先生と生徒の立場が平等であると言う意味ではないと思う。先生が子どもに生き方を教えにくい理由は、教師側に時間がない、余裕がないといったこと以外に、先生はお坊さんのように道徳的に正しく同質であるべきだという周りからの圧力、「対等な」先生から家庭の問題を干渉されるようなきがして、説教めいた言葉に子どもが(実際は保護者が)反発してしまうことにあるのではないか。さらに、調子のよくお世辞のうまい子どもは増えたが、相槌のうまい「聞き上手」な子どもが減ったためではないか(道場の子ども達は、聞き上手である)。
家庭も学校も、完成された理想を実現したとすると、それは本当に人間にとっていいものなのだろうかと思うことがある。仏様のように、いつもにこにこして子どもが何をしてもまったく心を乱さない親や教師がいたとしたら、本当にそれで子どものためになるのだろうか。あるいは、そんな仏様のような夫は妻にとって、妻は夫にとって本当によき伴侶であるのだろうか。むしろ、家族の一挙一動を心配し、感情に任せてあるときは泣き、あるときは怒るのが、人間らしいのではなかろうか。いかがなものであろう、ご感想をお聞かせ願いたい。

2007年出世欲のない子ども達と努力を惜しまない子ども達

新聞によると、最近の日本の子どもたちは出世欲がないそうである。人を蹴落としてまでがんばりたくないというのは正常な感覚の気もする。しかし一方で、あの山を登ってみたいとか上達したいとか、しんどい思いをするのを嫌うのは子どもながら“年寄り”くさく、寂しい気もする。紀峰山の会や他の山岳会では、年々体力が低下して登りたいところに行けないと嘆く声がきかれるが、今の多くの若者たちよりも、上達したいという欲があり、山登りをする体力と根性がある“お若い方”が多いように思う。
知り合いがこんなことを書いていた。「学習塾をしているが、ほとんどの子どもが人に言われたから(しかたなしに)来ている……新しい課題を与えると、成績の上位の子供でも、問題を読まずに、わかりませんと頼ってくる……1時間あまりの時間でさえ集中できない子どもが多い」などである。私も同感だ。子どもたちは忙しすぎて自分でじっくり考える時間がない。原因とその結果をよくかみしめるまもなく(日ごろ考えたこともないので、どれが「原因」でどれがその「結果」かを混同してしまう子も少なくない。よって、反省も精神的成長もできない)、親切な大人が手順と答えを用意してしまう。なにかに疑問を持った“正常な”子どもがいても、先生に質問するような目立つ行為はひんしゅくを買い、友達にいじめられる(だから、人前では不真面目を演じ、努力するなら影でこっそりするようになる。友達には気を使い、神経をすり減らし、大人の前でたまったストレスを発散、暴言を吐いて気ままに振舞う子どももいる)。植木ひとしの演じるような、“口から先に生まれた無責任男”のほうが、「普通の人」の世の中だ。子どもは大人を映す鏡だとよく義兄言うが、そのとおりだ。
だが、幸いなことに、こんな子どもたちが増えているのも本当なら、課題にじっくり取り組み、人より上手になろうと努力を惜しまない子ども達が今なおいるのも本当である。そう、われらが滝川道場にはイノシシどもが何匹もいるのだ。練習でも、猛烈に突進していく子ども、大人相手でも真剣に投げようとかかっていく子ども達。どうやったら勝てるか自分の頭で考え、さらに技を磨こうと、日々努力を惜しまない。以前の道場なら、たらたらと練習していた子どもが多かった。試合でもたんたんとして、有田の気質かなあなんて勝手なことを日記に書いたものだった。今、その言葉を否定しなくてはならない。近頃の道場は、以前に増して活気がある。彼らの上達はおもいのほか速い。この子たちが茶帯になったら、さらに黒帯になったら、どんなにいい選手になることだろう。楽しみだ。そう思うと、自分の柔道はさておいて、そばで見守っていたくなるのだった。
思い返せばこの2年、柔道にできるだけはやく復帰しようとかなり力んでいた。3年のブランクということが頭の隅にこびりついていた。いまさら2年も3年も、よく考えれば変わらないのだ。元通りに完全復活しなくったって、新しい自分になればいいのだ。小さいころからしていたわけでないから、何十歳で再開しようが、たいしたことはないのだった。失われた貴重な試合勘や、大学生にも負けない体力は、もはや元には戻らないが、、、今のところ、茶帯や黒帯と普通に練習できる。ぼちぼちと、でもじわじわと練習するぞ!いつの日か、一生を振り返って、私は一生懸命に生きていて良かったと思うのだ。たとえ、自分自身は出世もせず、1番になれなくてもいいじゃん。私が存在したために、私のムキになる性格が刺激となって、周りの誰かがすごいことを成し遂げてくれたら、十分に存在価値があるじゃないか。この復活日記などを読んで、何ぞ成し遂げてくれたらうれしい。踏み台にでもなんでも使ってくれ!というひらきなおった感じだ。

2006年12月ビオラジョーク

クリスマスに有限会社より現物支給の冬のボーナスにてビオラを買ってもらった。
クリスマスに買ってもらったビオラのお話。バイオリンより大きく、チェロよりちっちゃい弦楽器、ビオラ。義兄は最近、チェロを始めてはまっている。借りて弾いてみたが小柄な私には大きすぎた。かといって、バイオリンは幼少のころより体で覚えないといけない楽器だ。弾くなら中間のビオラがいいなあと思っていたけれど、「もうすぐビオラが来るよ」と年末に言われたときは、てっきりジョークだと思っていた。金額も半端ではない。「ははは、まさかあ~、、、」と答えていたら、本当に来た。その後は、柔道日記その1を彷彿させるような展開だった。音の出し方から弓の動かし方、義兄の手取り足取りの厳しい指導(実を言うと、初日に早くも音を上げてしまったのだが、、、)。その後少しずつ弾けるようになるのがおもしろく、毎日のように弓を動かす基本を続けた。
ビオラという楽器は地味で、オーケストラでも中くらいの音程のさほど難しくない?リズムを刻んでいるパートだ。他の楽器の人たちからは、「ヴィオラジョーク」として親しまれ、かわいがられている。ヴァイオリンを弾く人よりもヴィオラを弾く人は脳みそがちっちゃい(弦楽器と頭の比率を考えると、バイオリンの人より頭が相対的に小さく見えることから)だの、そこから派生して、ビオラを弾く人は、「右手に弓」「左手に楽器」というメモをいつも持っていないと弾けないだとか、むちゃくちゃなことを言われている。演奏の腕のいい人は、きかせどころの多いバイオリンを選ぶことが多いから、損な役回りのビオラであるが、音色はきんきんとしたソプラノではなく、アルトやテノールの歌声のように落ち着いているし、重厚なオーケストラらしい和音を生み出すために不可欠の楽器。ようし、義兄と一緒に合奏してやるぞ!またもや、むきになる、菰池であった。
1月になって、初心者用のビオラ教本(そんなの、私以外に買う人いたんか?と、逆に驚く!)を和歌山で買いこみ、手探りで弾いていると、バイオリンを習っている義妹が、正しい楽器の構え方、指使いなどを丁寧に教えてくれた。家族に弦楽器を弾ける人がいるというのは、音楽上達の早道だ。練習曲をたくさん聴くことができ、耳を鍛えることができる。わからないこともすぐに聴けるし、なにしろ仲間がいるというのは張り合いがある。
最初に教わる練習曲と言うのが、なぜか「日の丸」であった。バージョンがいっぱいあって、弾きごたえがあるが、ちょっと難点がある。外国受けしないことだ。話が飛ぶが、この1月末に(義兄がインド旅行中に)実家の父と70歳の祝い(本当は今度69歳であったが)にタイに行って来た。そこで、路上でバイオリンを弾く少年に出会った。私は早速、少年を捕まえて弾かせてくれと頼むと、快く貸してくれた。そこまではよかった。だが、私が曲として格好がつくのが、まだ「日の丸」だけだということに気づいた。ここタイで日の丸?まず、歌を知らない人か、いっそ日の丸が嫌いな人が多いかもしれない。くそ!帰ったらきらきら星を練習してやる!と後悔しつつ、へたくそなきらきら星を演奏した。彼は、礼儀正しくほめてくれた。その後、少年の流れるような演奏が始まったとき、人々から拍手喝さい。少年の前のバイオリンケースにチップが弾んだことは言うまでもない。私は意図せずに「さくら」になっていたようだ。彼の演奏を際立たせて、もりあげたのだ。

2006年日本の「復活」

復活復活と唱えながら、何に復活すんねん?!とお戸惑いの皆様。私、菰池 環の場合の“復活”というのは、病気や怪我で中断していた生活、人生を取り戻すことです。具体的に書きますと、膝の手術のあと日常生活に復帰できたことがまず一つ。そして、勉強やスポーツ、芸術活動を再び開始したことなのです。というわけで今回のテーマは“復活”。

この日本がやり直しのきく社会かどうか、あるいはやり直しはきかないように、うわさ通りに変わってきたのか。いろいろな方向からチャレンジして確かめてきた、菰池。
「何に復活すんねん?」というのは、私の個人の問題でもあり、はたまた日本の問題でもあり、たいそうな言い方ですが、人類共通の問題でもある!新聞をひもとくと、「まともな社会」への“復活”を期待する記事が多い。「まともな仕事へ“復活”!―景気がよくなって欲しい。非正規社員の者、失業中の者、子育て中の女性が正規雇用の再就職を夢見ている記事。経済格差が広がっているから、差を無くそうと呼びかける」。「まともな家庭へ“復活”!―少子高齢化を考えよう。子育てや介護のノウハウ記事。どんどん結婚して、出産して、少子高齢化を緩和しようと呼びかける」のか。何がまともで、どうあるべきなんだろう。
実際は、正規雇用されつつ、結婚して子どもを持つと、自分の夢はあきらめて子どもに託し(勉強のしりを叩き)、自身は非人道的な長時間労働にあえぐことになるのだが。日本は進んだ模範的な国として、世界に貢献することを期待されているというのに、今頃「まともな社会」への“復活”をみんなが期待する羽目に陥っているのは何故なんだろう。
大人たちは、子どもの成長に必要な健康的な食事のための金を惜しむ一方で、子供たちに高額な携帯電話を与え、有害なホームページに気軽に立ち寄らせる。「先生、●●の国の人って、首を絞めても死なないんだって!」と真顔で答える子どもに出会った。「ぼく、確かに何かでみたんだ!」といってきかない。戦前から続く外国の人々に対する差別的感情が、教育により正しく導かれるのではなく、間違った情報でゆがみ、悪化しているらしい。「それは、マジックかなあ?白人も黒人も、みんなからだの仕組みは同じなんだよ。もちろん、首の細い人と、ボブサップのようにトレーニングした人とでは違うかもしれないけど、それは民族の違いではないよ」というと、ようやく納得した。彼は特別な子どもではないと思う。学力に関係なく、子供の知識は偏り、実体験よりもテレビや雑誌、ネットの世界のほうにリアルさを感じている。レベルの高い私立に行かせれば、全てが解決すると信じる裕福な保護者たちは、将来自分の子供がどんなふうに育つことを夢見ているのだろうか。あまり裕福でなく、勉強の出来る子と出来ない子が両極化していく公立学校の子どもたちは、過酷な競争社会の中に、どんな希望を抱くのだろうか。
これまでの世の中は「進んでいる」というのと「遅れている」という意識が重要らしい。進んだ地域というのは快適な生活が出来て、かっこよくて、遅れた地域はそれをまねて学ばねばならないらしい。日本はアジア、アフリカの多くの町や村より「進んだ地域」として期待されていて、新鮮な水や食料が手に入るよう、医療が受けられるよう、自然を保護するよう、農業や工業を発展させるよう“教える”ために海外に出かける。じゃあ、振り返ってみて、和歌山は?菰池の暮らす有田を例に持ち出そう。日本一便利で豊かと信じられてる東京よりもずいぶん暮らしやすそうだ。東京より自然豊かで、新鮮な食料が手に入る。公害や交通渋滞もほとんどなく、子ども達もまっすぐ育ちやすい環境にある。特急と高速道路とインターネットのお陰で、物資や情報も手に入れやすくなった。東京の人が思いこんでいるよりずうっと、有田は快適でかっこよい「進んでいる地域」のはずである。問題は、有田は年々快適さを失っているのではないかということだ。有田に来て今年で10年になるが、地元の新鮮な水や食料がいっそう手に入りやすくなっただろうか。医療は充実しただろうか。自然は豊かになっただろうか。産業は発展しているだろうか。振り返ってみると、「道路が拡張されて便利になった」→「信号が増えたぶん移動に時間がかかる。交通量が増えて子どもやお年寄りの事故が増えたかもしれない」。「農業の大規模化で大量生産、大量選果、大量出荷」→「農作物の値段は下降傾向」。「漁業は立派な船に魚群探知機を備えた」→「肝心の魚は減りつつある」。そして近年、人々の間の教育の格差、経済の格差が東京と同様に、この有田にも襲い掛かっている。これらのことは、有田も地球レベルの環境破壊や世界規模の競争社会(機械化と人件費の削減のあらし)に巻き込まれていることを意味している。戻るべき「まともな社会」をここで見失わないために、世界と我が家を二つの目で同時に見つめていこう。

大阪生まれの菰池が、各地の引っ越し先で心がけてきたことは、地元の言葉を使い、地元の文化を尊重しつつ、より質の高い生活を送ることであった。質が高いというのは、物の無駄のない生活、趣味の豊かな生活、人権の守られる生活であり、私の思う進んだ生活である。
いきなり失敗例から書こう。環境問題は刻一刻を争う状態にある。温暖化で温州みかんのできばえも変わってきた。美しい水と空気を手に入れるのに、お金がかかるようになってきた。理想を言えば、人類、生き物、地球全体のことを真っ先に思えたらいいのだが、まず、自分の足元、我が家から。菰池はかつて信州で一人暮らしをしていた学生時代、洗濯に風呂の湯を使ったり、米のとぎ汁を植木にやったり、家庭排水に気を使っていた。家の周りに大きくなる木を植えたり、窓のそばに影になるつる植物を植えたりし、光熱費を浮かし、緑化を計ろうとした。今でもごみを減らすために、食料は大入りのものをまとめ買いし、買い物袋の持参をこころがけてはいるが、便利さに慣らされ、以前ほど環境を心がけなくなった気がする。物の無駄のない生活、環境にやさしい生活をまずは“復活”したい。(具体的なお話については、クマコラムにお譲りいたします)。
いろいろな学校で、非常勤講師していると、いろいろな家庭の子どもに出会う。この、豊かなはずの日本で、文具代に困る子どもがでてきたとわかったとき、そのことを知っていても家庭の問題として講師の先生はなにもできないということがわかったときは、昔の日本社会のほうがやさしかったなあと思う。寺子屋があり識字率の高かった日本。貧しかったり戦争のために教育を受けられなかった子どもがいても、受け止めて育てる心が残る社会。誰でも学び、学びなおせる世の中から後退していないだろうか。子どもの教育がひもじくなったのは、働きたい親に適切な仕事がない(または労働に見合った給与のない)家庭、逆に仕事があるが長時間労働のため、幼児期のしつけに時間をかけられない家庭との両極化がすすんだせいかもしれない。子どもの権利が踏みにじられている原因に、大人の労働者の権利が守られていない現状があるということか。子どもの問題の真の原因は、国際競争力をつけるために行った、人件費削減(海外進出も)、機械化、コンピュータ化が大きい。人間らしく学び、働ける国に“復活”したい(農業はその点おすすめである。子沢山の家が多く、子育ての時間がある)。
国外では、人口増加の抑制と、貧富の差を縮めるために、女性の経済的自立、産む産まないの決定権をもてるよう、女性の教育が進められている。女性や障害者、老人の権利が守られている「進んだ国」にするために。幸いアジアでは、年長者を大切にする風習が残り、ところによっては(おうちによっては)カカア天下も続いている。学校や会社では男女差別が目立たなくなってきているのに対し、日本の家庭では、逆に女性の選択肢が狭まってきている気がする。働きたいのに家庭で子育てしか選択できない女性、産みたいのに経済的に苦しかったり、子育ての時間がなく産めない女性。客自身がカードを選んでいるつもりになって、実は意のままのカードを引かされている「マジック」のようだ。農家の女性もそうだ。昔に比べて生活の自由は増えた。一方で、豊かな農家ほど子どもをたくさん持つ経済力がある。昔は子育てしながら農作業するのがあたりまえ、今は、農作業せずとも子育てしながら外で働くのがあたりまえ。日本中の女性が、自分で生き方を自由に選択できたらもっと幸せになれる。社会がもっと元気になるのにと思う。
有田で暮らす農家のお年よりは、いくつになっても自分に見合った仕事があり、生きがいを感じつつ大切にされてきている。みかん産業が衰退したときは、これらお年寄りの人権も侵害されてしまうだろう。スタートの時点で不平等なまま、高齢者も障害者も、日本でも海外でも、同時に「平等に」競争させられている。平等という名の元に生じる不平等。人らしく生きる権利については年々退行していると思う。人権の守られる生活を、“復活”させて欲しい。和歌山は和歌山のやり方で、誰しもが尊重される世の中になって欲しいと願う。自然を守りつつ、第一次産業を大切にし、程よくローテクで続けていく国。子どもも大人も夢のたくさん抱ける国に“復活”して欲しい。

2006年みなもっちの見舞い

あの、“みなもっち”が倒れたと聞いたのは、そう、2006年8月の中旬だった。第一報では、「生徒の引率で甲子園にいった帰りに倒れたそうだ。今、入院しているが、意識が戻ったかどうかまだわからない」という驚く話だった。その一週間前に、紀峰のミーティングで出会い、旅行の話など楽しく会話したばかりだったので、とても信じられなかった。義兄ら山の会の人々が見舞いに行ったときは、入院して1週間もたたないころで、意識がまだはっきりしない状態だった。お母さんがずうっと付き添っていらした。そして、倒れたいきさつから、救急車でJR阪和線六十谷駅から運ばれる様子、出血が止まったので手術をしないで済んだ話を聞いてきた。
個性強い菰池の場合、敵も味方も両方多いが、やさしい“みなもっち”は誰からも愛されている。復活すべきは、まず“みなもっち”のほうだ、と私はいたたまれなくなって、病院へかけつけた。入院後10日経っていた。和歌山城近くの病院の、ナースステーションの隣の部屋に行くと、昏々と眠るみなもっちがいた。なんともいえない響きのいびきをかきつづけていた。おかあさんが「菰池 環さんが来たよ」とみなもっちの耳元に語りかけたが返事がない。そうだ、日記の名前、「しもたまき」ならわかるかも!彼女は、この「紀峰の仲間」の編集歴が長く、2002年の柔道日記の頃からお世話になっている。「しもたまきですよ~みなもっち、聴こえる?聴こえたら手を動かして!」。その前の日に見舞った人の話によると、聞こえるときは手を振ってくれるらしい。残念ながら、私の見舞った日はたまたま眠っている時間のほうが長い日だったらしい。眠りながら無意識に右手右足が動くばかり。ようやく、帰り際にかすかに手をもちあげて振ってくれたときは、うれしくて涙が出て来そうになった。しんどいのにがんばって振ってくれたんだね。無理言ってごめんね、みなもっち。
8月末にもう一度お見舞いに行ったときは、首を自力で動かせないものの、もう意識が完全に回復していた。関東にお住まいのお姉さんが来ていらした。9月初めには、右半身がかなり動かせるようになっていて、起き上がって挨拶してくれた。会うたびに良くなる人のお見舞いは、行く方も心が軽い。目を見張る回復は、本当にうれしい!9月30日に大山に行く前に病院に寄ると病室が明るくにぎやかだった。手ぶり交じりだが、話しをしてくれた。10月中旬に行ったとき、車椅子に座りながら、少し固めのおかゆを食べるみなもっちがいた。いっしょに山に登れるかも!私は希望がわいた。みなもっちはきっと復活する。むやみにみなもっちを励ましたり、頑張れとかいうのは良くないことだとわかってはいるけど、私はおせっかいながら、みなもっちの復活を信じて、これからも応援していきたいと思う(みなもっちは元気に復活されていると聞いている)。