2011年5月28日土曜日

2006年12月ビオラジョーク

クリスマスに有限会社より現物支給の冬のボーナスにてビオラを買ってもらった。
クリスマスに買ってもらったビオラのお話。バイオリンより大きく、チェロよりちっちゃい弦楽器、ビオラ。義兄は最近、チェロを始めてはまっている。借りて弾いてみたが小柄な私には大きすぎた。かといって、バイオリンは幼少のころより体で覚えないといけない楽器だ。弾くなら中間のビオラがいいなあと思っていたけれど、「もうすぐビオラが来るよ」と年末に言われたときは、てっきりジョークだと思っていた。金額も半端ではない。「ははは、まさかあ~、、、」と答えていたら、本当に来た。その後は、柔道日記その1を彷彿させるような展開だった。音の出し方から弓の動かし方、義兄の手取り足取りの厳しい指導(実を言うと、初日に早くも音を上げてしまったのだが、、、)。その後少しずつ弾けるようになるのがおもしろく、毎日のように弓を動かす基本を続けた。
ビオラという楽器は地味で、オーケストラでも中くらいの音程のさほど難しくない?リズムを刻んでいるパートだ。他の楽器の人たちからは、「ヴィオラジョーク」として親しまれ、かわいがられている。ヴァイオリンを弾く人よりもヴィオラを弾く人は脳みそがちっちゃい(弦楽器と頭の比率を考えると、バイオリンの人より頭が相対的に小さく見えることから)だの、そこから派生して、ビオラを弾く人は、「右手に弓」「左手に楽器」というメモをいつも持っていないと弾けないだとか、むちゃくちゃなことを言われている。演奏の腕のいい人は、きかせどころの多いバイオリンを選ぶことが多いから、損な役回りのビオラであるが、音色はきんきんとしたソプラノではなく、アルトやテノールの歌声のように落ち着いているし、重厚なオーケストラらしい和音を生み出すために不可欠の楽器。ようし、義兄と一緒に合奏してやるぞ!またもや、むきになる、菰池であった。
1月になって、初心者用のビオラ教本(そんなの、私以外に買う人いたんか?と、逆に驚く!)を和歌山で買いこみ、手探りで弾いていると、バイオリンを習っている義妹が、正しい楽器の構え方、指使いなどを丁寧に教えてくれた。家族に弦楽器を弾ける人がいるというのは、音楽上達の早道だ。練習曲をたくさん聴くことができ、耳を鍛えることができる。わからないこともすぐに聴けるし、なにしろ仲間がいるというのは張り合いがある。
最初に教わる練習曲と言うのが、なぜか「日の丸」であった。バージョンがいっぱいあって、弾きごたえがあるが、ちょっと難点がある。外国受けしないことだ。話が飛ぶが、この1月末に(義兄がインド旅行中に)実家の父と70歳の祝い(本当は今度69歳であったが)にタイに行って来た。そこで、路上でバイオリンを弾く少年に出会った。私は早速、少年を捕まえて弾かせてくれと頼むと、快く貸してくれた。そこまではよかった。だが、私が曲として格好がつくのが、まだ「日の丸」だけだということに気づいた。ここタイで日の丸?まず、歌を知らない人か、いっそ日の丸が嫌いな人が多いかもしれない。くそ!帰ったらきらきら星を練習してやる!と後悔しつつ、へたくそなきらきら星を演奏した。彼は、礼儀正しくほめてくれた。その後、少年の流れるような演奏が始まったとき、人々から拍手喝さい。少年の前のバイオリンケースにチップが弾んだことは言うまでもない。私は意図せずに「さくら」になっていたようだ。彼の演奏を際立たせて、もりあげたのだ。

2006年日本の「復活」

復活復活と唱えながら、何に復活すんねん?!とお戸惑いの皆様。私、菰池 環の場合の“復活”というのは、病気や怪我で中断していた生活、人生を取り戻すことです。具体的に書きますと、膝の手術のあと日常生活に復帰できたことがまず一つ。そして、勉強やスポーツ、芸術活動を再び開始したことなのです。というわけで今回のテーマは“復活”。

この日本がやり直しのきく社会かどうか、あるいはやり直しはきかないように、うわさ通りに変わってきたのか。いろいろな方向からチャレンジして確かめてきた、菰池。
「何に復活すんねん?」というのは、私の個人の問題でもあり、はたまた日本の問題でもあり、たいそうな言い方ですが、人類共通の問題でもある!新聞をひもとくと、「まともな社会」への“復活”を期待する記事が多い。「まともな仕事へ“復活”!―景気がよくなって欲しい。非正規社員の者、失業中の者、子育て中の女性が正規雇用の再就職を夢見ている記事。経済格差が広がっているから、差を無くそうと呼びかける」。「まともな家庭へ“復活”!―少子高齢化を考えよう。子育てや介護のノウハウ記事。どんどん結婚して、出産して、少子高齢化を緩和しようと呼びかける」のか。何がまともで、どうあるべきなんだろう。
実際は、正規雇用されつつ、結婚して子どもを持つと、自分の夢はあきらめて子どもに託し(勉強のしりを叩き)、自身は非人道的な長時間労働にあえぐことになるのだが。日本は進んだ模範的な国として、世界に貢献することを期待されているというのに、今頃「まともな社会」への“復活”をみんなが期待する羽目に陥っているのは何故なんだろう。
大人たちは、子どもの成長に必要な健康的な食事のための金を惜しむ一方で、子供たちに高額な携帯電話を与え、有害なホームページに気軽に立ち寄らせる。「先生、●●の国の人って、首を絞めても死なないんだって!」と真顔で答える子どもに出会った。「ぼく、確かに何かでみたんだ!」といってきかない。戦前から続く外国の人々に対する差別的感情が、教育により正しく導かれるのではなく、間違った情報でゆがみ、悪化しているらしい。「それは、マジックかなあ?白人も黒人も、みんなからだの仕組みは同じなんだよ。もちろん、首の細い人と、ボブサップのようにトレーニングした人とでは違うかもしれないけど、それは民族の違いではないよ」というと、ようやく納得した。彼は特別な子どもではないと思う。学力に関係なく、子供の知識は偏り、実体験よりもテレビや雑誌、ネットの世界のほうにリアルさを感じている。レベルの高い私立に行かせれば、全てが解決すると信じる裕福な保護者たちは、将来自分の子供がどんなふうに育つことを夢見ているのだろうか。あまり裕福でなく、勉強の出来る子と出来ない子が両極化していく公立学校の子どもたちは、過酷な競争社会の中に、どんな希望を抱くのだろうか。
これまでの世の中は「進んでいる」というのと「遅れている」という意識が重要らしい。進んだ地域というのは快適な生活が出来て、かっこよくて、遅れた地域はそれをまねて学ばねばならないらしい。日本はアジア、アフリカの多くの町や村より「進んだ地域」として期待されていて、新鮮な水や食料が手に入るよう、医療が受けられるよう、自然を保護するよう、農業や工業を発展させるよう“教える”ために海外に出かける。じゃあ、振り返ってみて、和歌山は?菰池の暮らす有田を例に持ち出そう。日本一便利で豊かと信じられてる東京よりもずいぶん暮らしやすそうだ。東京より自然豊かで、新鮮な食料が手に入る。公害や交通渋滞もほとんどなく、子ども達もまっすぐ育ちやすい環境にある。特急と高速道路とインターネットのお陰で、物資や情報も手に入れやすくなった。東京の人が思いこんでいるよりずうっと、有田は快適でかっこよい「進んでいる地域」のはずである。問題は、有田は年々快適さを失っているのではないかということだ。有田に来て今年で10年になるが、地元の新鮮な水や食料がいっそう手に入りやすくなっただろうか。医療は充実しただろうか。自然は豊かになっただろうか。産業は発展しているだろうか。振り返ってみると、「道路が拡張されて便利になった」→「信号が増えたぶん移動に時間がかかる。交通量が増えて子どもやお年寄りの事故が増えたかもしれない」。「農業の大規模化で大量生産、大量選果、大量出荷」→「農作物の値段は下降傾向」。「漁業は立派な船に魚群探知機を備えた」→「肝心の魚は減りつつある」。そして近年、人々の間の教育の格差、経済の格差が東京と同様に、この有田にも襲い掛かっている。これらのことは、有田も地球レベルの環境破壊や世界規模の競争社会(機械化と人件費の削減のあらし)に巻き込まれていることを意味している。戻るべき「まともな社会」をここで見失わないために、世界と我が家を二つの目で同時に見つめていこう。

大阪生まれの菰池が、各地の引っ越し先で心がけてきたことは、地元の言葉を使い、地元の文化を尊重しつつ、より質の高い生活を送ることであった。質が高いというのは、物の無駄のない生活、趣味の豊かな生活、人権の守られる生活であり、私の思う進んだ生活である。
いきなり失敗例から書こう。環境問題は刻一刻を争う状態にある。温暖化で温州みかんのできばえも変わってきた。美しい水と空気を手に入れるのに、お金がかかるようになってきた。理想を言えば、人類、生き物、地球全体のことを真っ先に思えたらいいのだが、まず、自分の足元、我が家から。菰池はかつて信州で一人暮らしをしていた学生時代、洗濯に風呂の湯を使ったり、米のとぎ汁を植木にやったり、家庭排水に気を使っていた。家の周りに大きくなる木を植えたり、窓のそばに影になるつる植物を植えたりし、光熱費を浮かし、緑化を計ろうとした。今でもごみを減らすために、食料は大入りのものをまとめ買いし、買い物袋の持参をこころがけてはいるが、便利さに慣らされ、以前ほど環境を心がけなくなった気がする。物の無駄のない生活、環境にやさしい生活をまずは“復活”したい。(具体的なお話については、クマコラムにお譲りいたします)。
いろいろな学校で、非常勤講師していると、いろいろな家庭の子どもに出会う。この、豊かなはずの日本で、文具代に困る子どもがでてきたとわかったとき、そのことを知っていても家庭の問題として講師の先生はなにもできないということがわかったときは、昔の日本社会のほうがやさしかったなあと思う。寺子屋があり識字率の高かった日本。貧しかったり戦争のために教育を受けられなかった子どもがいても、受け止めて育てる心が残る社会。誰でも学び、学びなおせる世の中から後退していないだろうか。子どもの教育がひもじくなったのは、働きたい親に適切な仕事がない(または労働に見合った給与のない)家庭、逆に仕事があるが長時間労働のため、幼児期のしつけに時間をかけられない家庭との両極化がすすんだせいかもしれない。子どもの権利が踏みにじられている原因に、大人の労働者の権利が守られていない現状があるということか。子どもの問題の真の原因は、国際競争力をつけるために行った、人件費削減(海外進出も)、機械化、コンピュータ化が大きい。人間らしく学び、働ける国に“復活”したい(農業はその点おすすめである。子沢山の家が多く、子育ての時間がある)。
国外では、人口増加の抑制と、貧富の差を縮めるために、女性の経済的自立、産む産まないの決定権をもてるよう、女性の教育が進められている。女性や障害者、老人の権利が守られている「進んだ国」にするために。幸いアジアでは、年長者を大切にする風習が残り、ところによっては(おうちによっては)カカア天下も続いている。学校や会社では男女差別が目立たなくなってきているのに対し、日本の家庭では、逆に女性の選択肢が狭まってきている気がする。働きたいのに家庭で子育てしか選択できない女性、産みたいのに経済的に苦しかったり、子育ての時間がなく産めない女性。客自身がカードを選んでいるつもりになって、実は意のままのカードを引かされている「マジック」のようだ。農家の女性もそうだ。昔に比べて生活の自由は増えた。一方で、豊かな農家ほど子どもをたくさん持つ経済力がある。昔は子育てしながら農作業するのがあたりまえ、今は、農作業せずとも子育てしながら外で働くのがあたりまえ。日本中の女性が、自分で生き方を自由に選択できたらもっと幸せになれる。社会がもっと元気になるのにと思う。
有田で暮らす農家のお年よりは、いくつになっても自分に見合った仕事があり、生きがいを感じつつ大切にされてきている。みかん産業が衰退したときは、これらお年寄りの人権も侵害されてしまうだろう。スタートの時点で不平等なまま、高齢者も障害者も、日本でも海外でも、同時に「平等に」競争させられている。平等という名の元に生じる不平等。人らしく生きる権利については年々退行していると思う。人権の守られる生活を、“復活”させて欲しい。和歌山は和歌山のやり方で、誰しもが尊重される世の中になって欲しいと願う。自然を守りつつ、第一次産業を大切にし、程よくローテクで続けていく国。子どもも大人も夢のたくさん抱ける国に“復活”して欲しい。

2006年みなもっちの見舞い

あの、“みなもっち”が倒れたと聞いたのは、そう、2006年8月の中旬だった。第一報では、「生徒の引率で甲子園にいった帰りに倒れたそうだ。今、入院しているが、意識が戻ったかどうかまだわからない」という驚く話だった。その一週間前に、紀峰のミーティングで出会い、旅行の話など楽しく会話したばかりだったので、とても信じられなかった。義兄ら山の会の人々が見舞いに行ったときは、入院して1週間もたたないころで、意識がまだはっきりしない状態だった。お母さんがずうっと付き添っていらした。そして、倒れたいきさつから、救急車でJR阪和線六十谷駅から運ばれる様子、出血が止まったので手術をしないで済んだ話を聞いてきた。
個性強い菰池の場合、敵も味方も両方多いが、やさしい“みなもっち”は誰からも愛されている。復活すべきは、まず“みなもっち”のほうだ、と私はいたたまれなくなって、病院へかけつけた。入院後10日経っていた。和歌山城近くの病院の、ナースステーションの隣の部屋に行くと、昏々と眠るみなもっちがいた。なんともいえない響きのいびきをかきつづけていた。おかあさんが「菰池 環さんが来たよ」とみなもっちの耳元に語りかけたが返事がない。そうだ、日記の名前、「しもたまき」ならわかるかも!彼女は、この「紀峰の仲間」の編集歴が長く、2002年の柔道日記の頃からお世話になっている。「しもたまきですよ~みなもっち、聴こえる?聴こえたら手を動かして!」。その前の日に見舞った人の話によると、聞こえるときは手を振ってくれるらしい。残念ながら、私の見舞った日はたまたま眠っている時間のほうが長い日だったらしい。眠りながら無意識に右手右足が動くばかり。ようやく、帰り際にかすかに手をもちあげて振ってくれたときは、うれしくて涙が出て来そうになった。しんどいのにがんばって振ってくれたんだね。無理言ってごめんね、みなもっち。
8月末にもう一度お見舞いに行ったときは、首を自力で動かせないものの、もう意識が完全に回復していた。関東にお住まいのお姉さんが来ていらした。9月初めには、右半身がかなり動かせるようになっていて、起き上がって挨拶してくれた。会うたびに良くなる人のお見舞いは、行く方も心が軽い。目を見張る回復は、本当にうれしい!9月30日に大山に行く前に病院に寄ると病室が明るくにぎやかだった。手ぶり交じりだが、話しをしてくれた。10月中旬に行ったとき、車椅子に座りながら、少し固めのおかゆを食べるみなもっちがいた。いっしょに山に登れるかも!私は希望がわいた。みなもっちはきっと復活する。むやみにみなもっちを励ましたり、頑張れとかいうのは良くないことだとわかってはいるけど、私はおせっかいながら、みなもっちの復活を信じて、これからも応援していきたいと思う(みなもっちは元気に復活されていると聞いている)。

2009年3月四国八十八ヶ所第4弾愛媛県

四国八十八ヶ所参りシリーズの第四弾。今回は飛ばしていた愛媛県。思い返せば、2006年10月(36歳)にひとりで徳島県(1番から23番)。2008年4月(37歳)に町内のツアーで高知県(24番から43番)。同じく2008年の10月(38歳)に香川県(66番から88番)をまわり、すでに四国の四分の三をお参りしている。
3月28日深夜つまり、3月29日早朝の0:30出発。和歌山県有田郡より、バスで四国、愛媛に向かう。大阪、神戸、淡路島経由。早朝に着いた愛媛県の松山市北部の53番、円明寺というお寺がスタートだ。ここのお寺には、なんとマリア像がある。かつて、隠れキリシタンがお寺参りを装って、十字架に見立てた石塔に彫ってあるマリア像を拝む。異教徒の礼拝を許す懐の深いお寺が、昔から四国にはあるということに驚かされる。
続いて竹林を縫った参道を登ったところにある52番太山寺。まだ2つ目が終わったばかりと言うのに、昼食の時間となる。当初の予定では続いて険しい岩屋寺であったが、時間のかからない寺、44番大宝寺に先に向かうこととする。これは、少しでもお腹がこなれてから登山しようという、幹事のご配慮であった。
難所の岩屋寺は、文字通り岩盤に張り付くような小さな本堂であった。岩盤といっても、河原の丸石が大小そのままくっついたような、でこぼこの穴ぼこだらけの岩である。そして、左側に離れたところにある太子堂の方が大きく、初めて行くと、どっちが本堂で太子堂か、見間違えそうである。46番浄瑠璃寺では、だっこ大師というかわいい男の赤ちゃんの像があり、交替で、皆で抱き上げた。この日は時間が無く、47番の八阪寺までしか行けず、その日の宿坊、香園寺(こうおんじ)に泊る。外から見ると、どこかの市民ホールを思わせる、鉄筋の大きな建築物。内部もまた、コンサートホールのような折りたためる固定椅子。しかし、センスの良いことに、黒っぽい木目調の落ち着いた内装に、立派な舞台の上の堂々とした仏像が並び、和洋の良いところがうまくとりいれられ、なるほどと感じさせられた。中央では火をくべることが出来る。煙は下部の送風機と上部のファンで吸い上げられ、ろうそくや線香などの煙が、ちっとも客席まで来ない。ここのお寺の食事は、精進料理で質素であった。一日目はこのようにあっという間に過ぎて行った。
2日目は同じツアーの人とゆっくり会話出来た一日であった。集落のご近所さんから、初参加の喫茶店のマスター(箕島の有田警察署近くのサテン)のまで、色々な出身の異業種の人々との交流もまた、お遍路の楽しみの一つと言えよう。今回有難かったのは、20代の頃からお遍路に行きまくっているという大ベテランの「大先達(だいせんだち)」さんから、改めてお作法を教わったことだ。輪袈裟を留めるネクタイピンのようなクリップは、これまで、背中の中心線にそって、わざわざ首の真後ろに留めていたが、それを少し中央から右にずらすべきであるとか、特にお蝋燭は、灯りをともす時に、仏像に御尻を向けないようにすべきであるとか、今回初めて聴く注意が多かった。さらに、慢心になりつつある私を諌める出来事が一つあった。輪袈裟留めの位置に気をとられ、トイレに金剛杖を置き忘れてしまったことだ。前回、我流でまわっていたので、雨の日の作法や食事の作法など、適当であった。一度やり方を崩して身につけてしまうと、バスツアーの流儀を思い出すのに神経をかなり使う。金剛杖を忘れたのは、まったくの初めてであった。その直前まで、杖を間違う人や、杖を忘れる人を、皆といっしょにけらけらと笑っていたものだったが、いざ自分が忘れてみると、とても情けなく、恥ずかしくなった。身を引き締め、謙虚に拝まねばと、肝に銘じた。すぐ近くであったので、杖はバスの運転手さんが取りに走ってくださった。大変なご迷惑をかけてしまった。
2日目の寺も、個性豊かであった。左手を石に翳すと願い事が叶うという51番石手寺。今治市にある54番の南光坊では、太子堂のぐるりに、十二支が彫られている。美しい枝垂桜のある59番国分寺では、入り口に石があり、痛いところを擦れば、例えば「腰」という字が彫られている部分をさすると腰が治るという具合だ。こうして2日目が終了し、旅館に泊る。トイレはウォシュレット、風呂は天然温泉(沸かし湯)、とてもくつろげる宿であった。私は、他のツアー客が旧館の風呂に入っている間に、歩いて5分ほどの新館に行き、一人ゆっくりと湯船に使った。リゾート風の新館は、自然で高級感があふれ、お風呂の設備がまた素晴らしかった。
旧館の土産売り場にて、みかん売りの30代くらいのお兄さんと、みかんについての話で盛り上がった。四国愛媛のみかんも売れ行きが悪く、関東からの観光客が不況で減ってきているらしい。お遍路も個人旅行が増えてきている。団体客専門の大規模経営が成り立たなくなる日が、近いのかもしれない(そして、2011年3月11日の東日本大震災で、それは現実のものとなりつつある)。
3日目、旅館から小さなバスに乗り換え、6時58分発で60番横峰山に向かう。山の上の駐車場へ着いたら曇ってはいたが、案外眺めが良い。息が白くなるほど寒く、指先が冷える。それもそのはず、お寺に参る前に、冷水で手と口をお清めしてから参っているからだ。一度濡れた手はなかなか温まらないのであった。3日目にまわった寺は、平日のためか静かであり、アトラクションに富んで楽しかった。63番吉祥寺(きちしょうじ)では、金剛杖を持ち、目を瞑って石の穴に向かって歩いていく。うまく穴に杖が入ると、願いが叶うと言う。なかなか、大人の男性向きなアトラクションではないか。数人がやってみて、棒を穴にうまく入れたのは女性一人であった。しかも、彼女は何もお願いしないでトライしたという。つまり、心が乱れていては、穴に集中できないのだ。奥の深い「遊び」である。64番の前神寺では、イタリアのトレビの泉のようなところに向かって、コインを投げる。1円玉で行い、うまく岩に張り付けば願いが叶うと言う。思わず、むきになって、張り付くまで投げそうになる。なんだか、ゲームセンターの感覚で、ストレスが発散できる。65番三角寺では、入り口に鐘があって、一人ずつ鐘を撞いてから入場する。珍しい桜が色々植わっていた。こうして、無事に88ヶ所を巡り、懐かしの66番の雲辺寺にやってきた。まだ半年前に来たばかりの寺だ(日記その62を参照)。その時は一人旅で、初日の早朝、下から2時間かけて登ってきたものだった。今回は、ツアーなので、北部にあるロープウェーを使って登る。景色が良く、これまたよかった。懐かしの名水、工事中の本堂、ただただ懐かしい。最後の大興寺でおおきなカヤの木に再会し、今回の旅は終わった。八十八ヶ所は初めは寺の違いも分からず、作法の大変さばかりがのしかかったものだが、終わってみるとあっけなく、日常の一部のような何気ないものであった。日常が日常か、旅が日常か、もはや境目があって無くなっている自分があった。下山して新たな旅が始まる。

2008年4月四国八十八ヶ所第3弾香川県

四国八十八ヶ所の第三弾、今回は愛媛を飛ばして香川県の旅。テレビでは、おしゃれで有名な卓球選手が春と秋に少しずつ歩いていて、「歩き遍路」もブームであるが、私の場合は車で廻る、三泊三晩の旅であった。
この2008年4月に町内のツアーで高知県をまわり、すでに一番から四十三番まで四国の南半分をおまいりしている。団体の旅はお作法や読経の勉強になるうえ、連れて行ってもらいラクチンだ。来年4月には四十四番から六十五番(愛媛県)の続きが行われる。それまでに個人で六十六番から八十八番まで廻っておくと、4月にいったときに一周できることになる。北東の香川県は、和歌山から近く、お寺もかたまっているため、一人でも廻りやすい。予め、高松市内にビジネスホテルを2泊予約しておき、そこを拠点に3日で廻ることにする。

10/2 21:35和歌山港発 - 23:25徳島港着(南海フェリー)
23:45ごろ徳島インター - 0:45ごろ井川池田インター(徳島自動車道)
10/3 六十六番 雲辺寺 - 七十五番 善通寺 高松市内泊
10/4 七十六番 金倉寺 - 八十五番 八栗寺 高松市内泊
10/5 八十六番 志度寺 - 八十八番 大窪寺 
13:30徳島港発-15:40和歌山港着(南海フェリー)

軽くラーメンで腹ごしらえをし、18時に紀峰のミーティングにでかけた。班会議の途中で20時ごろ抜けて、フェリーの切符を買うために和歌山港に向かった。ここで、しっかりと2時間眠って、早朝の登山に備えるのだ。ぐっすり寝て目覚めると、四国、徳島。2年前は地図が無く国道55号を探しても見つからず、一番目のお寺(霊山寺)まで迷って大変だった(あとで、南に行くなら55号だが、北に行くなら国道11号でよかったことを知る。そもそも、当時は小松島港に着くと思って下りたのだが、実際着いたのはもっと北の徳島港だったではないか)。今回はそのときに買った四国の道路地図があるので大丈夫、と思いきや、やはり徳島インターまで迷う。夜中のため車がすいていて、地図を見る間もなく進めてしまうからだ。途中、道端に止めて地図を眺めながら、国道11号にたどりつく。徳島自動車道もがらがらで、時速80km以上出せたので、徳島県の最西端、井川池田インターへ1時間弱で到着する。ここで、登山道を見つけるのに苦労する。歩き遍路が行く登山道。車で廻る人は、たいていロープウェーで行くので、登山道を示すわかりやすい道路標識がない。県境の「境目トンネル」の手前という漠然とした唯一の手がかりをもとに、32号阿波別街道や192号伊予街道をうろうろする。ようやく、伊予街道のわき道途中に、それらしき小さな看板を見つけたのが、深夜一時半ごろ。大型トラックがぶんぶん行き交う国道沿いの小さな交番を見つけ、そこの前で3時間半仮眠する。セーターにヤッケに、着られるだけ着る。まさか、交番の前で何も起こらないだろうとここでも熟睡。どこででも寝られる菰池は、便利である。
5時前に起床するが、あまりに暗く朝もやで迷いそうであった。家にヘッドライトをおいてきたことを後悔する。さらに、小さなリュックサックすら持ってこなかったことを非常に後悔する。しかたなく、へんろの白い肩掛けかばんに、黒い手提げかばんという、登山ド素人のいでたちで、標高200m地点より900mの雲辺寺をめざす。薄暗がりの5時15分に登り始める。車へんろ地図には3.5km徒歩2時間とある。それを信じ、7時ごろに登頂予定である。始めはアスファルトの舗装だったが、次第に浮石ゴロゴロの紀州の登山道らしき斜面となる。登っても登っても、中腹に出る気がしない。白いズボンのすそはどろどろ、全身汗だくで、かばんの紐からしたたる黒い汁が白い装束(おいずる)にすじをつけていく。右側から朝日が昇ってきた。もやが消え、空が澄み渡ってきた。1時間ほどたって2km以上歩いた気がした。平らな草原が現れ、アスファルトになり、歩みを速める。このままでは、午前中がこの寺でつぶれてしまう。3日で88番まで行けなくなってしまう。焦りが功を奏し、7時15分ごろ、六十六番雲辺寺に到着。携帯で寺の写真を撮り、メールに添付して家族に送る。1200年前の昔から、現代につながる瞬間だ。
今回は、般若心経以外のお経の節回しも覚えているので、ちょっぴりバージョンアップした気分。「納め札」という願い事を書いた紙を箱に入れた後、さも、ずうっと参っているかのように、もったいぶって朗々と唱える。が、最初の寺ではやはり、気恥ずかしさが先立ち、声にならない。不思議なことに、小さな声でぼそぼそ唱えると、だんだんと喉に負担がかかるらしく、この日は喉がかれた。翌日から、腹の底より力をこめて声を発すると、声は良くなり疲れにくくなった。さて、本堂と太子堂とそれぞれお参りした後、いよいよスタンプをもらおうと「納経所」というところに出向いた。ここでも、以前の失敗を生かし、きちんとスタンプ帳(納経帳)をたたんで渡し、お坊さんが、「ロープウェーでこられましたかぁ」と御陰影を手に尋ねられたので、「いいえ、歩いてきました」と言うと、ええっというなり手が引っ込められてしまった。下から歩いたにしては、どうやら早く着きすぎたようだ。納得してもらえず、ついに、その御陰影を下さいと言いそびれるしもたまきであった。あとでこの日記にうだうだ書くぐらいなら、その場で「ところで御陰影(ごいんえい)も欲しいんやけど」と言えばいいのに言えない。我ながらなさけない。帰路でも、軽トラに乗った若いお坊さんに、駐車場に車ないけど、どこに止めたのかと聞かれ、下から歩いたといってもすぐに信じてもらえず、懸命に、交番の前で泊まり、神社の空き地にとめたと無実を訴え、ようやく、そんな下から歩いたんですかぁと驚かれた様子だった。山の会の人なら、たいしたことのないミニ登山であるが、なにせ、街中を歩くような軽装だったもので、誤解されてしまったのであろう。
下山は、速や足で速歩のように駆け下り、1時間少々で車までたどり着く。あまりにどろどろなので、次の寺に行く前に身を清めることにした。朝から温泉だ。次の六十七番の寺に行く途中に、たからだの里「環(たまき)の湯」というふるさと創生一億円で建てた施設があると調べてあったので、そこにむかった。名前の怪しさと同じくらい、外見も風水に凝った贅沢で怪しい施設であった。風呂はもったいないほど空いており、“後期高齢者(もはや、死語か)”と思われるグループがちらりほらり。やはりここも赤字経営か?体がさっぱりして、次はおなかがすいてきた。昨夜はラーメン、朝は5時におにぎり。運動量の割にボリュームが軽すぎる。炭水化物ばかりだ。ここで腹ごしらえと思っていると、うまい具合に手作りパン屋、モーニング450円パン食べ放題とかいう看板を見つけた。トースト、サラダ、卵、ソーセージ、コロッケ、ブドウ、コーヒーゼリー、ホットコーヒーのセットに、プラス食べ放題の菓子パン。翌日、翌々日の朝食のパンも買い込んでおく。ここで、すかさず現在地を店の女性に確認しておく。それでも、迷い、六十七番大興寺についたのは、かろうじて午前中という有様だった。3日間のたびで、初日の午前中に2ヶ寺とは、間に合うのか。以後、遠回りであっても、道路標識どおりに行くことにする。
その後は、寺と寺の距離が近く、あっという間に廻れた。個性あふれる寺の数々であった。七十一番の弥谷寺では、200段近くの階段を昇降し、帰りに名物のあめ湯を飲んでみた。あめ湯は特別うまいというわけではないが、しょうがたっぷりで疲れが癒され、店のおばちゃんと、餌付けしている小鳥の話で盛り上がった。「鳥は話ができるんやろか、一羽が餌場に来ると仲間が集まってくる」とか「カラスは、仲間思いで、一羽が撃たれると、仲間がおそろしいほど猟師を取り囲んでしまい、猟師が3000円もらっても、もう二度とカラスは撃ちたくないと言うほどやった」とか、おばちゃんの話は、実際の観察にもとづいており、「動物の行動」のお勉強にもなった。
その日最後の七十五番善通寺では、ビルマやタイの寺院のような建物もあり、外国の寺めぐりをしているようであった。大勢の観光客に賑わい、親子連れも多数いた。線香をたてているとき、遍路の男性が「スズメバチや、危ない、子どもが刺されたら大変や」と、そばの若い母親に注意した。みると、煙に吸い寄せられるようにスズメバチが旋回し、子どもたちの2mくらい上空で、遊ぶ子どもの振る手が蜂に対する攻撃かどうか、迷っているかのように近づいては遠ざかって警戒を強めていた。母親はへんなおっさん、なにいってんのといったかんじで、にこにこ見守るばかり。ついに蜂が子どもの手の1m前まで近づいたとき、菰池は見ていられなくなり、駆け寄ってその子どもを抱えて、その場にしゃがみこんだ。蜂はようやく子どもから離れたが、まだ、上空を旋回している。20代の母親はようやく子どもの危機を知り、私に「どうもありがとうございました」と過去の出来事のようにお礼を言いに来た。スズメバチがまだまだ私たちのすぐそばを旋回中にもかかわらずである。「まだ、蜂はそばにいますよ」と声をかけたが、その場を急いで立ち去る様子も無く、いたって気楽そうであった。もし実際に2~3歳の子どもがスズメバチに刺されたら、パニックになってやれ救急車だ、寺を訴えるだの言いそうにも見える。まれに、2回目に刺されて、毒のアレルギーでショック死することもあるのだ。そうなる前に、それぞれが予防できればいいのだが。蜂の怖さは耳で聴いて覚えるものではないのだろう。自然と親しむことは、身の安全を学ぶことだと思った。

お遍路の初日(2007年10月3日)はなんと10ヶ寺も廻ってしまった。香川県西部は金刀比羅宮(こんぴらさん)の周辺で、神社仏閣のひしめく地域と言う感じ。高松市内のビジネスホテルは、インターネットで予約した。お遍路割引というのがあり1泊4000円という格安だ。宿代が浮いた分食事にまわそうと思い、夕食は宿の近くの韓国風石焼の焼き鳥にいき、生ビールまで頼んでしまった!お遍路=酒禁止ではないことを、団体のツア-で学習済みであり、普段着に着替えてどうどうと注文できた。疲れていて、寝つきも良く、目が覚めると6時前であった。寝坊だ。
翌日10/4はやや曇りがちであるがよい日和。顔が日焼けで腫れてくるほど、紫外線が強い。七十六番金倉寺も、携帯電話で写真を撮りメールで送る。一人旅なので、家族や職場にいつどこにいるかの連絡が欠かせないが、こんなとき、メールが手軽にできる携帯電話は便利だ。金倉寺は住宅街の中の、静かなお寺だ。ずうっと近くに寺が続き、5ヶ寺まわると、まだ10時半という具合だった。次から山の上の何もない寺が続くことが分かっていたので、やや早いが昼食をとっておくことにした。というのも、朝、国道沿いにベルギーチョコソフトの旗がはためくコンビニをみつけたが、「朝っぱらからソフトクリームはないよな」と思っているうちに、暑くなってきたころに限ってまったく見当たらなくなって悔しい思いをしていた。昼食も、取れるときにとっておこうと、国道を10㎞も戻り、坂出市内のインド系シェフが2人いる本格派インド料理のレストランに行き、マトンサグ(羊肉とほうれん草のカレー)を注文した。緑色のカレーで、久しぶりに緑黄色野菜たっぷりのおなかに優しい昼食となった。
13:10、八十一番のお寺白峰寺に行く。瀬戸大橋を眺め、またもやメールに添付して送る。天気が下り坂で、かすみ始めており、送った写真もどこからどこまで橋だかよくわからない駄作だった。2年前の屋島からの瀬戸大橋は、とてもくっきり見えたのだが。そこの百万ドルの夜景に、今度は昼間に来て参るぞと、誓ったものであった。ここ白峰寺で、高知県ナンバーの観光バスとかち合うようになった。バスから大勢のお遍路さんが降りてきて、拝むのも納経所もスムーズに進まなくなってきた。唱えるお経も違い、拝みにくいなあと思っていたところ、次の根香寺で美しい御詠歌の響きが聞こえてくるではないか。近づいてみると、高知の団体だった。そばでいっしょに唱えたところ、向こうも喜んでくださり、その後の一宮寺でも一緒におまいりすることになった。高知のどこからか聞いたところ、高知県の北部、さめうらダム(全国ニュースで貯水率が流れる)の近くからという。話し方はもちろん高知弁。なんだか、高知出身の祖母と一緒にお参りしている気がして、つい、懐かしい感じがしてしまった。次もご一緒かと期待していたら、今日はここまでという。残念、屋島寺には一人向かうことにする。
八十四番屋島寺は4年前、実家大阪の祖母が96歳になろうというときに、生まれて初めての四国参りを試みて、救急車のお世話になって強制入院。無念の帰阪。涙を呑んだ寺だ。老衰で亡くなり、屋島寺が最後の寺となった。今度こそ、祖母の話を聞いてみたい。ドライブウェイで壇ノ浦を見下ろしながら登り、観光客とカップルでにぎわう山頂に向かう。昼間に来ると、ますます、こけるような石段のない、平坦な普通の寺だ。納経所で女性に、4、5年前95、6歳の祖母がころんでここで救急車を呼んでもらったのですがお世話になりましたというと、「私は当時土産物屋にいて、救急車のことは覚えています。確か、東門の石段で、足を踏み外して仰向けにこけたのです。お元気でいらっしゃいますか」とおっしゃった。「祖母はお陰さまで軽傷で済みました。その後老衰で亡くなりました。ここが最後のお寺でした」述べたところ、そばのお坊さんも、「そのおばあさんなら、こけた後自分で立ち上がれないほどだったので救急車を呼んだのですよ」と、まるで言い訳するかのように言った。女性は「おばあさんは亡くなられたのですか。きっと、満足なさって、成仏なさったことでしょう。こうして、お孫さんが参りに来て、よろこんでいらっしゃることでしょう」ととりなしてくれた。「あのとき、台風の近づいてくるまま倒れていたら、大変なところでした、ありがとうございました」ようやく私は、祖母に代わって、お礼を言うことができてとても満足だったが、お寺の側は、善意でしたことがお参りを妨げたと、心境複雑だった様だ。帰り際、東門の石段を踏みしめながら降りた。二メートル間隔に10㎝降りる程度の、たわいもない階段だけに、手すりも無い。旅で疲れた祖母の足はもつれてしまったのだろうか。傾斜がない分、背の高さだけ思いっきり、後ろに転んだことだろう。95歳一人旅の老人を見て、寺の人はどれだけ心配してくださったことか。
もう一ヶ寺廻っておきたい。そうすれば、早いうちに和歌山に帰れる。そう思い、無理を承知で八十五番、八栗寺に行った。16時45分のロープウェーで上がり、しまる直前の納経所で判を押してもらう。それからゆっくりお線香とおろうそくを立て、お経を唱える。一人静かに唱えるのは気持ちがいい。しんみりした気持ちで、帰りは歩いて30分かけて下山した。さすがに、旅も二日目で、足が筋肉痛になっていた。適当に入ったうどん屋がいまいちで、明日こそはおいしい讃岐うどんを食べるぞっと誓う。
10/5は早朝から雨が降り始めていた。八十六番に着くと、本降りになってきた。実は、雨のお参りは初めて。お作法を知らない。つたない記憶を頼りに、金剛杖にビニール袋を掛け、傘を差して寺に行く。ツアーだったらきっとヤッケを着るように言われただろうか。志度寺は香川県東部の海辺の街中にあり、日曜だからか雨だからか、とても静かであった。八十七番長尾寺では、雨の中、ママちゃりで参拝する男性に会った。この時期、ツアー客は少なく、普段着にかさをかぶった学生さん風の若者が多い。自転車バイク組みも、山道は大変だろうに、健在だ。「車はええなあ。でも、もうすぐ満願や」うれしそうに次の寺へ走っていった。次は最後の八十八番、大窪寺。他の人は、一周したうれしさで終わった寂しさで、記念撮影している。私はまだ、愛媛県が22ヶ寺残っている。残っていることがまだ嬉しい自分がいる。終わったら二週目に駆られる人がいるのは、こんな心境だったのかもしれない。こういうのをはまるというのだろうな。
さて、ここからは標識がない。自分で進路を決めなくてはならない。八十八番までは、決められた線路の上を通るだけだったが、この先は、それぞれのふるさとへ、案内板も無く、めいめい帰っていくだけなのだ。東かがわ市にでて高松自動車道―淡路大阪経由でもよし、徳島自動車道に出て南海フェリーで戻るでもよし。ここで、私はフェリーでのんびり充実帰路を選ぶことにした。県道2号の山道をゆっくりくだり、途中の12号ぞいのスーパーでなるとわかめを購入。そこで、近くにおいしいうどん屋さんを教えてもらう。板野にある丸池という手打ちうどん屋だ。高松市の「るみおばあちゃん」と言う有名な方から伝授されたと言うふれこみの本格派。釜揚げを頼んだところ、目の前でこねてスライスして、10分かけてゆでてくれた。こしがあって、いくらでもおかわりしたくなる味だった。
徳島港では、いきつけのといっても2度目であるがケーキ屋により、二種類のチョコレートケーキを頼んだ。フランス菓子のお店らしく、ウィーン系の油こってりザッハートルテよりも焼き菓子風のガトーショコラのほうがおいしかった。フェリーの中には、アメリカ人らしき、バイクの集団がいて、ここも地中海(瀬戸内海とか、陸に囲まれた海)らしいで、めっちゃ近いなあ、などとたわいもない会話をしていた。私はと言えば、わすれないうちにこの日記の下書きをメモし続けていた。今も、こうしてワープロで打って入る間に、かやの巨木の連なる寺、天井の彫り物のきれいな寺、千体ほどの像がまつられた洞窟、弘法大師の生涯を絵にして飾ってある、まるで西洋の教会のキリストの生涯を描いた絵画風の寺、、、さまざまな寺の風景が次々と思い出されるが、寺の正しい名前は、ガイド書と首っ引きで、ひとつひとつ名称を思い出さねばならない。遍路ツアーなら、メモを手に歩きながら、先達さんに解説をしてもらえて、記録に残しやすい。一人旅の欠点は、観光バスの車内で、拝観後に寺院名のメモを取ったり、地図で調べる余裕がないことだろうか。そのかわり、道中の思い出は、ツアーよりも鮮明である。迷って苦労した寺ほど、記憶に強く残っている。一人旅のほうが、いろいろな人が声を掛けてくれる。人生もそうなのだろうか。
例えば、ベルトコンベアーにのっているかのような学生、結婚育児と追われる女性は、じっくり考える間が無いようでいて、かえって人生を振り返ったり、将来設計しやすいのかもしれない。
あたかも、子どもを見て、自分の子ども時代を振り返り、子どもの成長や家族の定年で、自分の人生も左右されるとか。つきあいは、家族や親戚が中心になりがちである。
独身の場合は、自由なお金と時間があるようで、その日を生きることに追われ忙しい、人生についても自分で設計し切り開いていかねばならない。そのかわり、得るものも大きいし、かかわってくれる他人も多いのではないか。どっちが得とか幸せとかではなく、一人遍路か団体ツアーバスかといった違いなのではないか。自転車で参っている人を見ると、歩くでもなく、ツアーバスでもなく、拝み方も自己流。しかし短期間に自力で一周できるその達成感の大きさを考えると、山中の苦労を考えると、すごい生きかただ。歩かねばお遍路ではないとか、先立ちがいないとお遍路ではないとか、そんなしがらみから開放されている気がする。さまざまなお遍路さんを見ると、そんな風に人生が見えてきたのであった。

2007年4月四国八十八ヶ所第2弾高知県

一昨年の10月に、四国お遍路に行ったが、続きをこの4月に行くことになった。今度は高知県だ。祖母のふるさとであり、徳島の寺のちょうど続きということもあり、とても楽しみである。前回は車で手探りの一人旅。今度は町内の「大師講」という団体のツアーで、本格真っ白装束。せっかくであるので、普段も着れそうな白ジャージや白トレーナーを買うべく、大阪の某格安チェーン店と、泉南のアウトレットモールに出かけ、上から下までそろえた。職場のスーツの下に合う白セーターやフリースを買ってしまったため、ついつい授業で着ていってしまい、すでに着古した状態である。当日、本当に真っ白のままであるのか、多少、不安になってきた。お遍路ツアーはもちろん観光バス。寺ごとの“ハンコ”も係りの人がもらってきてくれる。楽チン旅行のかわり、寝食すべてが修行。お作法を一から教えていただき、般若心経だけでなく本格的にさまざまなお経を唱えることとなる。1月20日に顔合わせがてら集会に参加したところ、大歓迎を受けてしまった。優しそうな方ばかりで、居心地がよさそうなのがとても気に入った。お遍路にも年代の流行があるようで、60歳前後の人はすでに四国を一周してしまっているのでかえってツアーの参加が少なく、まわり始めた50歳前後とベテラン70-80歳の女性が多い感じである。
あらためて思うのが、合唱や登山。50、60代の方が多いのは何故だろうか。人口比率が大きい、子育てが終わって時間の取れる人が多い、という説のほかに、戦後の合唱、登山ブームのためだという説もある。安くて皆で楽しめるため、学校の授業でも合唱、趣味でも合唱。週末はお弁当を持って近くの山へハイキングというのが、流行っていたというのだ。その世代の人たちが、昔懐かしく、山や音楽へ帰ってきているのではないかという。もし、その説が正しければ、今の40代の人はグループサウンド世代、少人数のフォークやロックバンド。30代では、ブラスバンドなど、多人数のバンド。スポーツは男子は野球、女子はバレーの時代が過ぎ、多様化しつつある世代。こぞって合唱や登山をしに入会してくれそうな気配はない。それでも、まだ、希望がある。いまの孫世代を、ハイキングや合唱へ連れ出すのだ。殺伐とした子ども同士の関係を離れ、大人の中で伸び伸びと自分らしく過ごす。小さな頃の楽しい思い出が、大人になってから入会を促してくれることだろう。さあ、ターゲットは運動不足の保育園児や小学生。お菓子やジュースを持って、トトロの「歩こう、歩こう、私は、元気~……」などの音楽をかけつつ歩いたり、ちょっとした岩場を忍者ごっこ、探検ごっこと称して登ったり、水遊びがてら沢に行くと面白がってくれそうだ。学校の体育、音楽の成績が上がります。お受験に備えて体力をつけませんか?クラシックで情操教育はいかがでしょうか?20代~40代の親もついでに会員になってくれるかも!?そうなると、子ども部でなく、親子部をつくれるだろう。紀峰の仲間に、子どもさんの絵や作文が載るのもいい。さあ、いざ勧誘だ!
おっとっと、お遍路のお話にもどらねば。前夜発、4泊4日の旅は、深夜12時半に始まった。それは、まだ肌寒い3月31日。Tシャツにタートルネック、セーターにヤッケを着込み、最後にはっぴのような白衣「おいずる」を羽織る。有限会社社長に借りた肩掛けかばん(山谷袋)を斜交いにかけ、小さなキャスターつき旅行かばんを後ろに引きずり、義兄に付き添われながら5分前に集合場所につくと、すでに女性2人が寒そうに震えながら立っていた。暗闇ながら、2人が持っている杖が目に入った。しまった、金剛杖だ!忘れないよう、2週間も前から玄関に立てかけてあった。日常風景と化してしまったらしい。玄関においてきてしまった。「すみません、すぐ戻ります!」とその場に荷物を置き、走って取りに帰る。杖を手に集合場所に戻ると、もうバスが待っていた。出発早々迷惑をかけてしまった。謝りつつ、26人乗りのマイクロバスに乗り込む。マイクロといっても、普通の観光バス並みの広さで、とてもゆったりとしていて居心地がよい。1日の疲れも手伝い、座席についたとたん、すぐにうとうとし始めた。すると、横に座ったHさんがつっつく。Hさんというのは同じ集落の方で、初心者の私にいろいろ教えるよう周りから仰せつかった先輩だ。そのHさんが、(心経を唱える)準備をするようにと教えてくれているのだ。深夜の1時半、全身白装束の集団23人がもくもくと唱える(普段なら、その異様さに驚く風景)。バスに乗り込んだ瞬間から、そこはすでに現代日本ではなく、時空を超えた巡礼の旅の中にいることを、しっかり区切りをつけるための“導入”なのだった。案内人は先達さんたちだ。
またもやHさんのつっつきで目が覚めると、もはや明るい朝であった。バスは大阪湾をぐるりと廻って淡路を抜け、徳島の海岸を南下し、道の駅「宍喰(ししくい)温泉」に停まっていた。東には伊勢志摩のような風景が広がり、緑の島々と青い海と道路わきの桜が美しかった。顔を洗いに洗面所へ向かい、朝日を浴びながら取りとめのないことを語り合う人々。その先、室戸岬までの道中は天気もよく、眺めがよい。アザラシにとびうお、とんびにウグイス、動物たちも春を謳歌している。わくわくする気持ちが高まっていった。しかし、我々はお遍路。ただの旅行気分ではいけないのであった。門で一礼し、仁王さん方に左右真ん中と3礼し、水汲み場で手と口を清める、、、橋の上で杖をついてはいけない、、、とお作法はいろいろあって、とても一度では覚えきれないので、見よう見まねすることに決める。岬の上のほうに最初の寺、24番最御崎寺があった。お寺ごとに本堂と太子堂の2箇所で、お線香を立てたり、ろうそくに火をともしたり、名前と願い事を書いた「納札(おさめふだ)」という長く白い紙を箱に入れたりする。大勢なので、空いているところへ蜂の群がるように押し寄せて、大急ぎですませると、全員でそこの菩薩なり、如来なりにあわせた言葉を3回唱え、般若心経を3回唱え、それを2セットするとようやく一つの寺が終わりである。それをその日1日で8つの寺で行ったのだった。巡礼は思いの他体力の要る旅なのだ。
27番の寺は、亡き祖母のふるさとの近くで、数年前に父と祖母と3人でお参りした、思い出の地である。
町内の「賢大師講」という団体のツアーで訪れた祖母のふるさと高知県。気候も言葉も和歌山に近く、海の幸が豊富だ。180度太平洋の室戸、足摺岬、ナスのハウスの広がる平野、田植えの終わった田んぼ、、、今はかつおと桜の盛りで、絶好の行楽日和。そこで花見酒もなく、博物館や見学もなく、ひたすら祈るお遍路の旅である。
高知市の東で室戸岬との間、祖母の思い出の寺、神峯寺は安芸市近くの山頂にある。道が狭いため、タクシーに乗り換えて向かう。庭のきれいな境内。高く長い石段。右手の湧き水。どれも懐かしい。心臓の悪い祖母が参りたい一心で登ったあの石段を、今度は20人以上の団体でぞろぞろと登る。ガイド兼運転手の2人は、一部の先達さんとともに「納経所」と呼ばれるところに向かい、皆から預かった荷物に寺のスタンプを押してもらう。スタンプを押すところは、「納経帳」と呼ばれるスタンプラリー帳だったり、あるいはお棺に入れてもらうときに着る白い着物、または、床の間に飾る掛け軸だったりする。寺の人が判を押しやすいように、本をひろげたり、着物をたたみなおしたり、とても忙しく大変な役目だ。うっかり紛失しようものなら、お詫びしようにも、同じものを2度と買うことのできないのだ。神峯をタクシーで降り、マイクロバスの中で昼食となる。バスから見上げると、歩き応えのありそうな急斜面の中腹にピンクのさくらの塊があった。同じ集落のHさんが、土産屋で寺のパンフレットがもらえると教えてくれた。店の中を探すがない。店の人に言うと、レジの後ろからごそごそと出してくれた。どうも、買い物をした人だけにわたすらしい。
申し訳なく思い、手近のお茶を購入し、バスに戻る。暑い上にお経を唱えるので、とても喉が渇く。しだれ桜の国分寺にみとれつつ、今日の最後、竹林寺でインドの仏像を拝む。そばの注釈に、仏陀の生い立ちが書かれていた。しげしげと眺めていると、寺の僧侶がそばに来て、説明してくださった。インドからわざわざ複製を取り寄せたそうだ。悟りを開いて初めて説法を説く若い仏陀の姿だ。中国をへた馴染み深い顔ではなくエキゾチックでしょう?と僧侶。表情も着物も写実的である。また、イランの宮廷画のように優美でもある。その夜、桂浜の宿では、お釈迦さんの話で盛り上がった。これもまた、普通の旅ではありえないシチュエーションであった。
4月2日、次々と厳粛に参る寺が続く。手描きの天井絵のきれいな寺やご本尊が5つもある寺など、変化がありみていてあきがこない。32番の禅師峰寺は石段が不ぞろいの自然の石でできており、登るのに注意が要った。青龍寺近くの食事どころで豪華な昼食をいただく。おいしくあいそもよく、また、いつかいきたいと思ったが、肝心の店の名前を写しそびれたのが残念でならない。道中は、個人の勝手な行動が許されないため、立ち止まってメモをとることもままならないのである。やがて、宿坊にとまる最後の寺にやってきた。日もくれかかった夕方、清める水汲み場がすぐに見つけにくい寺で、その日最後のお勤めをしていると、とんとんと背中を叩く人がいる。ガイドさんだ。外国人とご住職の会話の、通訳をしてほしいという。立派な身なりのご住職がそばにこられて言うのに、「コロンビアとかの女性で、片言の英語がよく通じない。ここはただで泊まれる。お金は要らないと伝えてくれ。それから、なにもないが、ふとんはあるとも言ってくれ」とのことだった。事情はよくわからなかったが、案内された納屋のようなところに行くと、小柄で身なりのよい女性が、畳の上で泣き臥せっていた。「ハロー」と声をかけると、大粒の涙をつぎつぎと流しながら顔を上げた。褐色の肌をした20歳前後の娘。インド系のような感じ。だいじょうぶ?どうしてほしい?ときくと、「わたしは歩き疲れただけ。宿を断られつづけてここまできた。心配しないようにと彼に伝えて欲しい」のようなことを流暢な英語でいう。先ほど頼まれた住職の言葉をそのまま伝えると。「わかった。ところでシャワーが使いたい。トイレはどこですか?」ときく。そばに立っていた住職はトイレは建物のそば(数十メートル先)にあるが、シャワーはないと答える。もちろん、宿坊の中にはトイレも風呂もあり、宿泊者には食事も出るのであるが、素泊まりの彼女には出さないということか。彼女はがっかりした様子で再び泣き臥せってしまった。たくさん歩いて汗をかいているだろうに。部屋はさみしく、とても寒そうだった。「私は近くの建物にとまっているから」と言い残して荷物を置きに宿坊へ入ったが、後で心配になり戻ってみると、「ARIGSTO」という置手紙とともにキャンディが5~6個残されていた。まだ、遠くにいっていないはず。すぐに追いかけると、リュックを背負い遍路傘をかぶった彼女に追いついた。「寒いし、シャワーを浴びたいので、旅館を探す」という。もう、あたりは暗くなり始めていた。近くの町まで十数キロはあるだろう。そこまでついていこうかというと、大丈夫という。大丈夫といいながら、その両目からは相変わらず涙があふれて止まらない状態であった。もし、見つからないときは戻ってくるようにといって、別れた。ツアーでなければ、一緒に民宿まで行って言い添えてあげられるのに、勝手な行動ができない身分がつらかった。
宿坊に戻り、食堂に案内されると、絶句した。寺とは思えない豪勢さ。刺身が山盛りのさわち料理。揚げ物にすしにと、豪華なご馳走がこれでもかと並んでいる。お遍路の作法どおり、それぞれが皿のひとつにお大師様にお供えをと自分の分をわけてよそい、それからいただく。食べても食べても無くならない料理。結局、4~5人分もの料理が余った。彼女の泣き崩れる姿が脳裏に焼きついているだけに、むなしくなった。ああ、この料理を彼女に分けてあげられたならどんなに心が楽になれたことか。大部屋に布団を20個並べて眠るとき、この中に彼女一人くらい泊めてあげることができたのではと思うと、へたくそな通訳が悔やまれた。我々のすぐそばで、同じお遍路の彼女は、ひとりさみしく、宿も見つからずにこごえているかも。ご住職とどんな行き違いが生じてしまったのかわからない。ご住職は、“文無し”で軒先でもとすがってきた彼女に布団を差し出したおつもりだった。あとでおにぎりの差し入れまで持って行かれたが、入れ違いだったそうだ。彼女のほうは、私はお金を持っている、ちゃんと支払いたいと2度も私に訴えながら、おにぎりが来るまで待てずに泣きながら飛び出してしまった。本当は素泊まりでなく、宿坊に泊まりたくて尋ねて来たのだろうか。日本へ旅行に来るくらいなら、きっといいお家のお嬢さんなのだろう。若い女性一人で、夜のお寺の片隅に泊まるのは、さぞかし心細かったのだろう。かわいそうなことをしてしまった。どうか日本を嫌いにならないで欲しいと思う。最後の日に、弘法大師ゆかりの橋に行ったときも、胸が痛む思いであった。かつて、大師が四国をまわった折、寺に断られ、しかたなく野宿したという。この「十夜ヶ橋(とやがはし)」の話を聞いてすぐに思い浮かんだのが宿坊を泣きながら去って行った彼女の姿である。大師とイメージが重なる。お遍路というのは弘法大師と一緒に歩くことであるという意味が、なるほどと納得できてくるのである。歩く人一人ひとりが、行いをなぞっている。
4月3日は長距離移動が続き、あまりたくさんのお寺を参ることができなかった。しかも途中で、舗装をしていない山道を通って「ありがたいお水」を汲みに行くことなり、山地主の案内で向かったのだが、大きなバスで行くのは無理があった。木を切り出すための私道は両側が雨水で流されて深い溝となり、タイヤの幅ぎりぎりしかなく、ときどきタイヤが半分はみ出てずり落ち車内は騒然。きゃーきゃーと悲鳴が上がったらしい。山道になれているはずの運転手が、もう二度とこんな道を通りたくないという難所だったそうだ。私も乗っていたが、熟睡してしまっていてまったく覚えていない。あの揺れるバスの中で熟睡できるはずがないといわれるのだが、一度熟睡すると蹴飛ばされても起きない菰池は、首が鞭打ちになりそうな車内で頭にうちみをつくりながら本当に熟睡してしまっていた。ちなみに、持って帰ってきて飲んでみると、確かに甘くておいしい水であった。どうしても欲しい方は、四輪駆動の軽トラにまっさらのタンクを積んでいかれたほうがよろしいかと思います。ただし、山地主のありがたいお話を聞き、健康食品をたくさんすすめられること請け合いです。
最終日、十夜ヶ橋にも立ち寄ったが、寺では43番の明石寺だけをめぐり、すぐさま紀州への帰路へつく。瀬戸内海沿いを高速道路で一気に徳島、霊山寺まで。一昨年秋にひとりめぐった最初の寺だ。あの時は、何の変哲もない寺に見えたが、こうして43箇所まわってみると、寺や庭の立派さ、観光客の多さなど、目に付くところが違って見える。2周目でさえそうなのであるから。何周もまわってみると、行く度また違った旅になるのであろう。ツアーの引率者、先達の人々は、4周以上しているそうだ。四国の石鎚山に登った話をしてくれた人もいた。わたしも紀峰山の会の人と登った話しをしたところ、とても喜んでくださった。あのとき石鎚山では、登山者として訪れたが、同じ場所に行っても、岩登りの人の眼で見るのと、観光客の眼で見るのと、お遍路さんとしてみるのでは、まったく違った風景になるのかもしれない。おおっぴらに旅行にいけない硬いお家の人や、交通の不便な昔の人にとって、四国参りは教養を深める数少ない娯楽のひとつだったのかもしれない。同じ四国参りでも、参加する人によって、感じるものは違うであろう。同じ私の体験し、感じた四国参りであっても、年齢を重ねるごとに、見えてくる風景は違うかもしれない。それでも、それぞれが何かを感じ、得てくるというところは共通しているといえるのだろう。いよいよ奥の深さを感じる、菰池であった。

2006年10月四国八十八ヶ所第1弾徳島県

2年前、実家大阪の祖母が96歳になろうというときに、生まれて初めての四国参りを試みた。家族親戚の反対を押し切って、だ。おりしも、台風が近づいてくるという初夏のある日、四国までのアクセスを事前に下調べし、徳島についたら自分でタクシーをチャーターし、道中うどんをすすりつつ、実に二十数ヶ寺をたったひとりでまわった。しかし不運にも途中の寺院(香川県の屋島寺)で階段から転げ落ち、救急車で強制入院。無念の帰阪。そして、無理がたたって数ヵ月後、心臓の病で倒れる。いっときは寝たきりに。その後、リハビリに励んで、日常生活を自力で送るまでに回復した。寿命を縮めてでも見たかったお寺とはどのようなものであるのか。祖母が転落した階段をみよう、ふつふつと好奇心が沸き、この10月に2泊3日で四国に行ってきた。
事典をひもとくと、お寺めぐりというのは、12世紀ごろに西国三十三ヶ所がブームとなり、その後、空海(弘法大師)ゆかりのお四国八十八ヶ所をまわる風習が生まれたという。それが一時のはやりでなく、今でも老若男女、あらゆる人が毎年大勢お参りしているのは、なにか特別な魅力があるに違いない。おばあちゃんの例のお寺に行くことを有限会社の社長につげると、お参りセット一式、白い装束(おいずる)、肩掛けかばん(山谷袋)、もろもろを貸してくれた。
和歌山港から13:15発のフェリー(4m以下7400円)で徳島の小松島港まで渡ること2時間。まずは第一番の霊山寺へむかった。ここで、スタンプラリー帳のような「納経帳」を購入してからがスタートだ。ところが、何度も来たことのある徳島をなめてかかったのが大間違い。港から国道55号と11号を北上し、徳島市内を抜けて寺に行くまでに標識がなく、迷いに迷う。自家用車で四国めぐりする人の多くは当然、和歌山経由でなく阪神、淡路島経由で来る。「“りょうぜんじ”はどこですか?」と道を聞いても、50代以下の人は「それってなに?どこ?」という感じ。“野生の勘”を駆使して、畑の細道をぐるぐるめぐり、ようやく4時前ごろ霊山寺へたどりついた。「みやげ屋」のようなところで「納経帳」を買おうとするが、肝心の「納経帳」という単語がとっさに出てこない。てきとうな冊子をつかんで無言でレジに向かう。が、購入後に中を開けると、すでにスタンプが押してあるではないか。まだ、お参りもしていないのに、終了スタンプ!こりゃあかん。あわててレジのお姉さんに「まだ拝んでません」と正直に言うと、「先にスタンプを押したものしかおいてありません。これでいいんです。今から拝みに行ってきてください」と言われてしまった。すでに、同じ日本にいながら、言葉が通じず習慣の違う海外へ、旅しているような気分だった。
そう、先に結論を言うと、四国参りというのは、身近で安価でありながら、装束を着て寺めぐりを始めた瞬間に、場所と時代を飛び越えたような非現実の世界へといざなう、不思議な旅なのである。いまどき、欧米に海外旅行に行っても、スーパーやコンビニ、ファーストフードは世界共通で、無言で物を買ったら日本とほぼ変わらない。韓国と台湾なら、歩いていても外国人と気づいてもらえない。異文化に来たと思えるのは、社会主義国の中国とか、旅行者にもイスラムの習慣を守らせるイランに行った時くらいだ。そのくらいの大きなカルチャーショックを、たった2時間の「船旅」で味わってしまえるのだった。
霊山寺は大きく広く、トイレの場所、本堂を探すのにも迷った。ツアーのあとにくっついていけばなんとかなるやと思っていたのに、静かで、参る人もちらほら。実は、参るマナーもあまりよくわかっていなかった。手を洗って、ろうそくと線香を立てて、納め札という自分の名前を書いた御札を入れ、とりあえず般若心経を唱えてみる。明日こそは誰か手本を探すぞ!本堂の隣の太子堂でも同じようにろうそくをともし、拝む。今度は白衣にスタンプを押してもらおうと、ふたたび土産物屋のような建物(納経所というそうな)に戻ると、スタンプの人のところには人だかりが出来ていた。みな、手に手に山のように白衣などをかかえている。私の番が来た。白衣を取り出すと、手際よく着物をたたみ直し、朱色の3つのハンコをつくと、よごれないようにと古新聞をはさんで包んで返してくれた。まるで、ビザをもらいに大使館で並んでいる気分だ。見る物聞く物、すべてわけのわからないことばかり。時計を見るともう4時半だった。これから香川県の屋島寺に行って、8時には徳島に戻り、予約してあるビジネスホテルに入らねばならない。時間はぎりぎりだ。
車に戻るとすぐに、屋島寺に向かった。高松市の中心近くの国道11号沿いらしい。50kmは離れている。あまりよく考えずに東に向かって走り、国道11号を北上していくうちに、ふと、霊山寺からまっすぐ北上していれば30分は得をしていたことに気づいた。まあ、迷うのも旅の醍醐味か。夕日に向かって、11号をひた走る。夕方の5時にもなると道路が渋滞し始め、高松市内に入ったのは6時前だった。なれない道で、目を凝らしても標識を見落とす。助手席に誰もいないので、運転と、地図と標識を見るのを1人でしなければならない。ようやく屋島寺に向かう有料道路を見つけ、登って着いたときには日も暮れた6時半だった。漆黒の瀬戸内海に浮かぶ小豆島と瀬戸大橋の明かり、まばゆい高松市内の街の灯。360度がロマンチックな夜景だった。まわりはお遍路のへの字もなく、カップルばかりだった。懐中電灯を袋にしのばせ、屋島寺にむかった。近代的な美術館のような建物から本堂まで、それはそれは立派な建物が続き、これが祖母の目指した寺だったかと納得がいった。石段を探そうという勇気も失せる暗さになてきた。ここで、石段を踏み外して転がれば、孫も一緒にお遍路中断という不名誉になってしまう。しかも、たったの2つめの寺で。ひとっけのない真っ暗なお堂にろうそくをともすと、あたりも心も明るくなる。拝む前にろうそくの理由が納得。ハンコはもらえないけれど、確かに行ったしるしにお札を置いてくる。いつまでも感慨に浸っていられない。早く、徳島に戻らなくては。チェックインの時間まで2時間を切った。
途中、高松自動車道、白鳥大内―鳴門間900円を使い、ぎりぎり8時にビジネスホテルMay upについた。駐車場を見ると、他の車は大阪ナンバーの高級車ばかりだ。インターネットで予約したので素泊まりたったの5250円。駐車代500円。フロントもそっけない対応。ところが、車のキーを預け、ホテルの人が私の車を動かしたときに、車中の金剛杖と輪袈裟を見たのだろう。夕食をとりにホテルを出ようとしたときのフロントの態度が一変した。急に私は「うさんくさい一人宿泊者」ではなくなり、いきなり「一流の上客」扱いされたのだ。まるで、水戸黄門の印籠を見せたような効果だった。そのかわり、部屋でビール飲むなどの行為が“やましい”様な気になってしまった。その後、白装束を着ているとまるでイスラム教のターバンかベールをかぶっているかのように、「私は敬虔な仏教徒」と世間へ宣言してしまっているような錯覚に陥った。
2日目、5時半おきして、早朝のトラック群の走る間を抜けて2番目の寺へ向かう。先客がいた。自家用車のグループが数組。これで、お参りのしかたを学ぶぞ!と思いきや、彼らのほとんどは普段着で、御札と納経帳しか持っていないことが多かった。賽銭を入れて拝むと、建物やお庭を見る間も惜しいように、そそくさと去っていく。休暇のうちにまわれるだけ寺をまわろうという人たちだ。足の悪そうな男性が、走り去った皆のあと、ゆっくりと歩きながらつぶやいていた。「寺は逃げん。逃げんぞお~」。
3つ目の寺は近くてわかりやすい。行くと、2番目の寺で出会った面々が帰りかけている。4つ目の大日寺は迷った。高速道路から離れた山のふもとにあり、なかなか風流な寺だった。6つ目の安楽寺でようやくツアーの観光バスと出会ったが、これもほとんど普段着のご一行で、拝み方はあまり参考にならなかった。徳島市内は、平野が広く水田が広がり、まるで新潟か兵庫県かどこかの米どころを走っているような感じだった。10番目の切幡寺についたのは11時だった。おなかが空いてきた頃に、30段以上の長い石段がつぎつぎと待ち受けていた。これまで、平野のお寺がほとんどだったので、歩き応えがある最初のお寺になった。これをあの高齢の祖母が登ったのかと思うとぞっとした。お寺参りは高齢者のイメージだったが、若く元気なうちに行くべきだ。心臓に悪い。
ここまでが吉野川の北岸沿いにあるお寺で、比較的まとまっており、ここからお寺とお寺の間隔が離れていく。国道318号沿いにはいってすぐ、スーパーの近くに、セルフサービスのうどん屋があり、290円くらいの釜揚げと100円くらいのてんぷら2つを頼んで昼食にした。好天の上にお経を唱えっぱなしで、ビールを飲みたいくらい喉が渇いているのだが、車で来ているので水で我慢する。あまりに道がややこしいので、迷う時間が増えてこの先思いやられる。ついに、本屋で道路地図を購入した。購入してから気づいたが、道が多くどこからでも目的地に行けてしまう市街地よりも、郊外のほうが一本道で運転が楽だった。和歌山で慣れた起伏の多い道が続く。11番目と12番目の間は峠越えの道で、自然の中のドライブは楽しかった。13番目の大日寺に行く途中、お遍路の観光バスが自転車の子供と接触したらしく、パトカーに止められているのに遭遇した。けが人はいなかったのだろうか、ツアーの人たちはこのあと無事に日程をこなせたのだろうか、ちょっと気になった。14番目のお寺へお参りしたあと、再び最初の霊山寺の近くに戻り、「鳴門市ドイツ館(ベートーベン第九の日本発祥の地)」に行き、第一次世界大戦の俘虜(ふりょ)の墓を参った。収容所の跡地は、ゴミであふれた公園と古い公営住宅になっており、遍路でにぎわう寺とは、対照的にとてもうら寂しかった。

秋の行楽シーズンにしては四国のお寺はとても空いていた。が、道路は朝夕混んでいた。鳴門市ドイツ館の帰り、ビジネスホテルのチェックインまで時間があったので、次の寺の下見に出かけたら渋滞にはまった。幸い、道路地図があったので、裏道をつぎつぎ縫うようにして15、16、17の寺をまわった。2番目のビジネスホテルは、センチュリープラザホテル。フィットネスと温水プール、インターネットつきが売り物の新しいホテルだ。夜7時にチェックインすると、プールなどの受付は7時までですと言われてがっかり。プールについている大浴場が目当てだったのだが。今夜もシャワーで我慢だ。前夜のホテルは眉山の繁華街にあったので、少し歩くと手打ちうどん屋があったりと便利だった。今度は国道55号沿いで、車がないと動けない。しかたなく、ホテル1階の喫茶でサンドイッチを食べて夕食を済ませる。地下には日本料理レストランがあったが、10月はマツタケ料理フェアという旗がひらめいており、豪華すぎて行く気がしなかった。せめてインターネットくらいするかと部屋のパソコンらしきものの電源を入れると、目が点。光ネットのテレビだった!自分のノートパソコンを持ち込めば、ホテルの部屋で利用出来たらしい。有限会社に、メールの代わりに電話にするっか。歩いて公衆電話を探すと、コンビニの前にあった。夕食、コンビニで買えたんだなあ。ははは。
3日目の朝。コンビニで買ったコーヒーとサラダを食べる。サラダのドレッシングを買い忘れた。ぱさぱさで半分しか喉を通らず、15番目の寺に向かう。ここ国分寺は徳島で一番お気に入りのお寺となった。15番目と言われなければそんな有名なお寺に見えない。特別庭が美しいわけでもなく、本堂が大きく豪華なわけでもない。住宅街の中の何の変哲もないごく普通のありきたりの寺で、もちろん“お守りグッズコーナー”らしきものもない。その寺の納経所に朝7時過ぎに行き、ブザーを押すと、まだ着替えを済ませていない御住職がぶつぶついいながら出てこられた。「こんなはよう、どっからきたんや。このペースなら、室戸岬まで今日は行けるで~」まったく商売っ気もかざりっけもない、率直な御住職にいちばん僧侶らしい惹かれるものを感じた。いろいろな寺を見て、何が楽しいと聞く人がいたら、私は千差万別の寺と千差万別の僧侶を見比べるのが楽しいと答えるだろう。旅館のような豪華な宿坊を抱える寺、賽銭箱のまわりにお守りや寺のロゴ入りグッズの並ぶ寺、無作法で無礼な参拝者を高飛車にしかりつける寺、低い物腰で温かい言葉をかけてくれる寺、家族経営のこじんまりした寺から、若い修行僧をたくさん抱える学校のような寺、、、ひとつとして同じ寺はなかった。
静かな寺で、あるいは観光客だらけの騒々しい寺で、お経を唱えるのは結構勇気がいる。最初に口を開くたびに、度胸試しをしているような緊張感が走る。日常生活で、これほど緊張し、集中する機会はまずない。このスリルもまた、やみつきになる。お経で鍛えた肺活量と、緊張をコントロールする感覚は、きっと役に立つことだろう。
18番の恩山寺に行こうとする朝の8時台も大渋滞で、これまた地図で調べた裏道を使って国道55号に出た。19番の立江寺は商店街の中にあり、寺経営の離れた有料駐車場300円に対し、個人経営の200円の駐車場が寺の門の正面にあるのがおもしろかった。普通の観光地は近いほど高いはず。個人のお店は、お参りの人からあまりお金をとらないように気配りしているのだろうか。19番から20番にかけて、ここ徳島県勝浦町勝浦川沿いはみかんの畑が広がり、まるで有田川周辺のようであった。ここで初めて給油する。ここまで有田から420km走った。自慢の日産パルサーは燃費がよくて助かる。20番の鶴林寺は、標高が屋島寺よりも高い山中にある。仁王門の中につるらしき鳥があった。21番目の太龍寺にいたっては、標高500mほど。立派なトレッキング系の山だ。風景は龍神村のような感じ。近くを流れる那賀川は、四国最高峰、標高1955mの剣山から流れてきている。ロープウェーもあるが、まだお昼前で時間があったので、車で中腹まで行き、1kmほど歩いた。
時間の感覚がゆったりとながれ、穏やかな気持ちになりつつ、心が真っ白になったようで新しい出来事がしみこみやすい、感受性の高まる感じもする。非日常の装束で、非日常の文化に浸りながら歩くと、外国人になったかのように、日本についていろいろなことを考えさせられる。こうして、農作業や学校での授業という“現実の世界”から切り離されるほど、有田での暮らしばかりが歩きながら思い出される。義兄をはじめ、現実世界に残してきた人々のことがいっそう身近に感じられる。さらに、時間の感覚が失われ、済州旅行とか、他の旅行中の記憶と交錯したりする。たった3日でこうなのだから、歩いて八十八ヶ所をまわるということは、旅の目的が何であれ、かなりの修行になるのだろう。普通の旅行とは違う魅力、海外旅行よりも感じる異文化の世界。瀬戸内海、紀伊水道、太平洋。水田の平野から果樹園まで、飽きのこない変化ある風景。お参りした人が、「ええで、いっぺん行ってみな」と周りに勧めたくなる理由、体験してみて納得した。
23番のお寺までは、紀南の海岸を走っているかのような風景であった。刻々と黒潮に近づいている感じだ。道のカーブは多いが峠越えはない。確かに行こうと思えばこのまま室戸岬まで行けそうだ。しかし、帰りを考えるともう戻ったほうがよい。16:35の徳島小松島港発のフェリーを目指して55号を北上する。道が狭く3時でも車が多い。港に着いたのは4時過ぎだった。乗り場前のケーキ屋で23番到達祝いのビターチョコレートケーキ(オペラ、ガトーショコラ風)、を買い、乗り込んだ。特別な達成感もないが、途中で帰る寂しさがこみあげてくる。なんだかんだいって、作法が面倒で緊張感あふれる寺めぐりは楽しかったのだ。旅というのは何事も新鮮で面白いもので、やみつきになる。それが、現実から切り離されればされるほど、心地いいのだ。海外旅行よりも現在日本社会から遠ざかるたび、お遍路。お遍路の伝統が現在にも続く理由は、これなのだろうか。あれほど懐かしく帰りたかった現実世界に帰れるうれしさも本物ならば、まだ続きを体験したい、という欲も本当の気持ちだ。
弘法大師に守られて、無事に行って来られた事をよろこび、さて、次の高知はいつにしよう。もしかしてお四国にはまった!?