2011年5月28日土曜日

2006年6月カナダ人ドーンの帰国

今度こそ、カナダ人のドーンさんのはなしである。柔道をしつつ、有田でお世話になった大勢の人々と再会するのが彼女の目的だ。彼女は、タイでの人間関係(同僚の女性に嫌われていた)に疲れきっていた。その1年前の2004年12月26日に、彼女がリーダーでALTがタイ旅行に行った際、地震と津波があり、そのときにまつわる諸々のことも彼女の心に影を落としていた。そして、タイのボランティアの後、西洋人ばかりが集まって出かけたプチ旅行にも疲れていた(タイからカナダへ帰国する途中に、パプアニューギニアと日本に寄った)。パプアニューギニアそのものはとても楽しいところで、現地の方もいい人たちばかりだったらしいが、一度に大勢と付き合って人疲れしてしまったらしい。息せき切ったようにしゃべるかと思えば、「タイでの私、変だったでしょう?ごめんね」と落ち込むなど、心身ともに思わしくないようだった。我々は、出来るだけドーンさんを静かに見守った。折りしも、近所のピアニストの女性、かおりちゃんと、フレンチかイタリアンのコースを2人だけで(私のおごりで)食べに行く予定であったが、「来月来るはずの外国人が急に来たから、申し訳ないが3人で食事でもよいか?」と彼女に尋ねたところ、「知らない人に気を使うから止めておく」と言われ、落胆のあまり、ドーンと食べに行くこともあきらめ、家で簡素な食事を取った。2回ほど一緒に温泉に連れて行った後、韓国、済州島のハルラ山登山に旅立っていった。その間は、我らが“離れ”を気楽にコンドミニアムのように借り切って自炊しているはずであった。ところが、帰国してみると、疲れがどっと出たのであろう。風邪をこじらしてひっくり返っていた。その間すべて、有限会社の社長が面倒を見てくれていた。
帰国すぐに熊野古道、海南―宮原間を歩く予定だった。菰池は済州から帰国したてで疲れていたし、彼女も病み上がりだった。古道歩きは中止して、かわりに社長の勧めで「和歌浦のお茶会」に出ることになった。ドーンさんは社長にとても恩義を感じ、まるで親子のように信頼していたので、「お母さんに喜んでもらおう!」とおお張り切りだった。社長も、かわいいドーンさんのために、おしゃれなサンダルをプレゼントすることにした。というのも、登山用の大きなトレッキングシューズしか持ち合わせていなかったからである。いくら外国人とはいえ、着物で正装している人が多い中、ドタ靴では笑われる。日本語ぺらぺらのドーンさんは、お茶会では人気の的だった。つぎつぎと和歌山県のお茶界のおえらがたが挨拶にみえ、にこやかに会話する様子は、まるで、カナダから来た“大使”のようだった。
殿様が使ったという茶碗を見せてもらった。茶碗へ、亀が3匹と殿様自身が描かれていることなど、詳しい説明をしてもらえるのも、ドーンさんとくっついていたご利益だ。日本らしいお庭でたくさん写真を撮った。なぜかドーンさんは着物女性の後姿ばかりを好んで撮った。本人は、帯の柄だけを撮りたかったらしいが、モデルの女性陣は、自分の顔が写らないので怪訝そうだった。後日、柔道の練習で、「ドーンさんはお茶会で“カナダ大使”だった」と言うと、真顔で「ドーンさんのお父さんは知事なのか、市長なのか」ときく人があり、勘違いに気づくまで私は、知事や市長に相当する英単語を思い出そうとして、必死になってしまった(後で大笑いした)。
人気ぶりは近所でも発揮された。近所の50代の○さん(ニックネームはネコちゃんcatman)は娘くらいの年のドーンさんに酒の飲み比べを申し込んだ。しかし、2戦とも彼女の勝ちであった。日本に来るまでビールが嫌いで、学生時代はあまりお酒を飲まなかった彼女も、酒好きの我々のお陰で、すっかり日本酒と焼酎のファンになっていた。しかも、ドイツ系の強い肝臓のため、鍛えるほど強くなっていたのだ。負けた○さんは、「かわいいドーンちゃん」のためにイカを釣って来て、自ら目の前でさしみやてんぷらにして振舞ってくれた。ドーンさんも、手作りクッキーでお返しした。
もちろん柔道も、週に3回、6時半から10時まで練習し、まるで柔道を仕事にしているようででかけていた。新しく入った小さな子ども達ともすぐに仲良くなった。ドーンさんと滝川柔道場に久しぶりに行くと、私のことを忘れてしまった道場の子どもたちに聞かれたものである。「あなたは何人(なにじん)?」「日本語うまいね」ドーンさんの流暢な有田弁に惑わされ、2人とも外国人と勘違いしているのだ。確かに、外国人の片言日本語の域をすでに超えていた。そして、一ヶ月のうちに私はそのたどたどしいしゃべり方を、かなりうつされたんだと思う。
その後、ドーンさんは帰国を6月12日に決めた。自分の誕生日を日本とカナダで2回祝おうという魂胆。まだまだ、誕生日がうれしいお年頃らしい。そして和歌山は、6月6日にたつことになった。その1週間前、私達は一緒に熊野古道を歩いたり、龍神温泉にキャンプに出かけたりした。龍神はちょうど蛍が見頃で、静かな山道を月明かりの中、2人で一緒に散歩するのはなかなか“おつ”であった。日本に来るまで、歌も彼女の苦手のひとつだった。自分は下手と思い込んでいて、あまり人前で歌おうとしていなかっただけなのだろう。お気に入りのアメイジング・グレースを繰り返し歌ううちに、歌がみるみる上手になっていった。カナダにいたころの彼女は、内向的で失敗を恐れて積極的にはチャレンジしない性格だったようだ。日本に来て、音痴と方向音痴が直り、酒に強くなり、明るく社交的に変身した。きっと、カナダのご両親とお友達は、彼女の変身ぶりに驚くことだろう。
最後の日、お好み焼き屋へみんなで出かけた。私たち家族4人のほか、一番の仲良しの2人、そして湯浅の近所の“おばあちゃん”2人もかけつけてくれていた。仲良し2人組は、手作りのアルバムをプレゼントしていた。3週間の日本の思い出がぎっしり詰まっている。おばあちゃんたちは、和風の巾着をプレゼントした。そういえば、前回の日本訪問のときも、浴衣を2着もらったり、いろいろ持ち帰れないほどもらっていた。皆がドーンさんに好意を抱いていた。ところが、私達はといえば、何も用意していなかった。誕生日が近づいていることを知っていながら、少々白状だったかもしれない。宿と食事を提供しているからいいや(事実、毎日魚を大量に買い込んだため、定期預金の100万円を解約して、食費や交際費にあてていた)と、記念に残る物を何も考えていなかったことを後悔した。お好み焼きを食べたその足で、和歌山駅まで行き、東京行きの夜行バスを待った。ドーンさんが空港行きのバスを見るなり、真剣な顔で私と義兄にハグをし、お別れの言葉をいった。さあ、乗り込もうとするので、そのバスは違うよというと、顔を真っ赤にして散歩に出かけてしまった。最後まで、おっちょこちょいでサザエさんのような人だ。本物のバスが来て、彼女はもうお別れは言ったからと、だまって乗り込んでいった。おもちゃ箱をひっくり返したような彼女との生活(毎晩2時や3時まで飲み明かした日々。実際、彼女が居候した部屋は、足の踏み場もないほどだった!)が、ゆっくりと去っていく。落ち着いた日常が戻ってくることが信じられない。ドーンと相思相愛になった義兄は、この3週間で英語がぺらぺらになっていた。私はといえば、説明のために日本語と柔道が上達した気がする。彼女が滝川柔道場にもたらしたものは、計り知れない。孫のような彼女の帰国を一番悲しがっているのは、きっとそう。滝川先生に間違いない。    

2006年5月20日韓国済州道ハルラ山登山

今回は、再びカナダ人のドーンさんの話、と言いたいところであるが、しばしお待ちいただきたい。タイからカナダへ帰る途中に、日本の和歌山までわざわざ寄ってくれるドーンさん。連絡がないと思ったら、翌日の5月15日にようやく来た。成田についてすぐに乗るはずの高速バスに、乗りそこなったらしい。あわてて、受け入れ準備を始める。まだ、帰国日を決めていないという。おそらく、6月前半まで日本にいるらしい。しかし、我々はすでに他の予定を入れていた。韓国、済州島のハルラ山登山である。沢部のそうさんが音頭をとって、11人もの参加者のあったツアーであった。原さんは登山道の資料を集めたり、尾埜さんはツアー会社を調べ、義兄は格安飛行機を調べる。日程に土日を挟むのがご希望の会社員もいたので、5/20から4日間、大韓航空で行くことが決まった。
済州島は、韓国の南西に位置する香川県ほどの大きさの島で、中心に1950mの休火山、ハルラ山がそびえている。関空からたった1時間半、まるで国内旅行のような近さだ。実際、韓国籍のそうさんにとっては、方言の違いこそあれ、母国語の島へ行くので国内旅行のようなものであるし、我々は親しみある済州に「帰る」といった気分だった。私と義兄は2度目の済州旅行で、前回は信州の友人(元波田町町議と脳性麻痺で車椅子の行田氏)と4人で食い倒れた。そのときに泊まった民宿のおじさん、高明俊氏とは、メル友となっている。さらに大阪の生野区育ちの菰池にとって、済州(チェジュ)は特別なところだ。同級生の何割かが、済州出身の2世や3世だからである。友達付き合いの仕方も、お互いの思うことははっきり言う、けんかして仲良くなっていく感じ。他人と意見や習慣が違うことはさほど悪いことではない。他の小中学校よりもずうっと、多文化が尊重されていたように思う。そして、みんな精神的に大人だった。私がどんなに金持ち風を吹かし、教師の息子と言うことで自己中心的に振舞ったとしても、仲間はずれにすることなく、それなりに付き合ってくれる包容力、度量があった(初めて生野区以外にある府立住吉高校に通ったとき、同じ日本であるのになぜかカルチャーショックを受けた)。田舎に帰省した友達に済州のお土産をもらったり、簡単なハングルを教わったり、学校で朝鮮半島の歴史や歌を習ったり、済州に行ったことはなかったものの、小さい頃から自然に慣れ親しんできた。
その“古き思い出”の済州に、私は20日に降り立った。そのころ、日本は5月とは思えないほどの涼しさだった。ところが、済州はすでに夏だった。さわやかな暑さで、これは山登り日和だと思った。ところが、天気予報は下り坂だという。3日目は雨で登れないかもしれない。2日目に登ろうということで全員一致した。1日目、とりあえず近所の散策、ということで、宿のホテル周辺や市場を見て回った。魚市場は、和歌山の黒潮市場を思わせる、太刀魚の並んだ風景。名物のあわびもたくさん見られる。食料品の市場は、まるで生野区の鶴橋を大きくしたよう。どちらも活気があって、お客さんでにぎわっている。市場を掃除するにいちゃんが、店のおばちゃんたちに「うわあ、むっちゃひさしぶりやなあ」と言って周りのおばちゃんらを笑わせていた。おそらく、昨日かあるいはさっき来たばかりなのに、冗談で言っているのだろう。大声でわっはっはとわらうおばちゃんは、まるで「大阪のおばちゃん」みたいで親しみがわく。前回、済州に来たときも、ゲートボールをするおばちゃんたちの笑い声に驚いたものだった。日本では、ゲートボールというと勝ちたい一心で怒鳴り散らすイメージがあるが、済州では敵も味方もみんなニコニコ、お互いのプレーに大笑いしながら楽しくやっている。
元銀行役員のそうさんの通訳に、快適な気候についつい名所をめぐっていくうちに、われわれはすっかりくたびれてしまった。明日に備えて寝よう!と思ったら、宿はオンドル部屋。5月というのに床暖房だ。頭が暖まって寝れなくなる人も続出。さらに共同の風呂、トイレ、洗面でおおぜい雑魚寝。まだ初日というのにわれわれの疲労は早やピークになった。
翌日、ハルラ山に登るためにタクシーをチャーターした。誰がどのタクシーに乗るかで時間がかかった。3台のタクシーのうち、日本語が話せる運転手は一人きり。ハングルの出来るそうさんが残り2台のどちらかのタクシーに乗ることになった。ホテルとタクシーの運ちゃんのお勧めで、ツツジの美しいコースを登ることになった。当初の岩場のコースは標高差1500mだったが、ツツジのコースは1000mほど。私は術後初の登山にわくわくだった。普通の観光よりも地元の人と交流できるところが登山のいいところだ。気候のよい土日ということもあり、登山道は半島からの旅行者で数珠繋ぎだった。お年寄りや子どもも多かった。途中で、果物やきゅうりなどをくれる人もあった。道はきれいに整備され、枕木が階段状に積まれていて、サンダルでも登れそうな感じだった。まるで、上高地の河童橋周辺のようだ。本格的にザックを担いでいったわれわれは、少し浮いていた。
肝心のツツジはまだまだで、ただの枯れ木野原だったが、かわりに、開山祭のようなお祭りを見ることができた。伝統的な衣装に身を包み、踊ったり、お茶をたてたり、山の神にお供えしたりする。まるで、NHKのドラマ、「チャングムの誓い」の世界だった。くだりも人の列について歩くばかり。結局、岩登りらしいところはなく、普段、けわしい山に登りなれている面々には少し物足りないものになった。「まだ、歩くのに余裕がある!」私は、ひざの回復に自身が持てて、満足だった。下山してから、竹平さんらと近くのサウナに行ってきた。サウナといっても、いろいろな温度の蒸し風呂、石の風呂、砂の風呂などがあり、老若男女、服を着たまま家族皆いっしょに楽しめるところだ。この日の夜は、オンドルを切ってもらったので、みんな眠りやすかったようだ。サウナでうたた寝し、湯冷めした私はちょっと寒い夜になった。
3日目、もう一度登山したい人と観光したい人と、それぞれ別行動の予定だったが、やはり雨の心配があると言うこと、さらに3日目の宿がまだ決まっていないなどの理由から、結局、全員で観光することに決まった。 “12時”にある済州市を出発し、島を時計回りに東側を観光する。そして、“6時”の位置にある西帰浦(ソギポ)市に泊まるのだ。洞窟やカルデラなど、火山地形を堪能したり、ドラマや映画のロケ地をめぐったりする。そうさんの通訳のお陰で、普通のツアーでは出来ない細やかな心遣いの旅となった。途中、突風と大粒の雨に見舞われたが、観光を満喫できた。夕方になり、前回に泊まった民宿のおじさんのところに寄った。メールも電話もつながらず、なんだかいやな予感がしていた。近所の人に聞くと、家族が入院して、しばらく帰ってきていないと言う。それも、済州市にいると言う。入れ違いだ。もう、会うのは無理かもしれない。置手紙をし、別の宿を探そう、そう思ったとき、一台の車が止まった。助手席にあの、民宿のおじさんが乗っていた。偶然にもわれわれは、10日間の入院から退院してきたところに出くわしたのだ。まるで、約束をしていたかのように!映画のような、涙の再会だった。おばさんの腰が悪く、入院していたらしく、二人ともお元気そうだった。われわれ11人は、おじさんの民宿に泊まることになった。今度は、3部屋取ってもらったので女性が2部屋使わせてもらい、広かった。ただ、青唐辛子を丸呑みした竹平さんの体調がどんどん悪化していて、とても苦しそうだった。無事に日本に帰れるか、皆、今度はそちらが気がかりだった。
4日目、最後の日。上野さんの看病の甲斐あって、竹平さんの体調は持ち直してきたようだった。がんばって皆と島の西側の観光に行くという。有限会社の私と義兄は、同じくみかん仲間である民宿のおじさんの畑を見せてもらいに、べつ行動をとることにした。民宿のおじさんは、もと高校の英語教諭で、定年後に済州で温州みかんをつくっている。メールでも農薬のやり方だの、熱心に質問がある。まず、おじさんのご自慢のみかん畑を見に行った。除草剤を使わず、牧草(なぎなたがや)が一面に生えている。花の季節だが、花がほとんどない。聞くと、去年の豪雪で収穫が出来ず、生らせっぱなしにしていたと言う。果実は傷んでジュースにしかならなかった。さらに木からはいっせいに新芽が吹いた(みかんは、2年目以降の枝に花芽がつき、実がなる。1年目の枝は葉のみ)。だから今年は新芽に負けて花がつかないのだ。この様子では、今年の収穫も期待できないだろう。2年連続の凶作では、おじさんの手間賃は出るのだろうか、心配になった。Aコープのようなスーパーや、共同選果場も見せてもらった。セトカという、赤くて清美よりも甘い品種が、箱詰めされていた。農業視察のようで、とても面白い体験だった。おじさんは、本当は農業よりも済州がいかに発展しているかなど、都市化の部分を見てほしかったようだ。西帰浦市(そぎぽし)と有田市と、どちらが大きいかと聞くので、「(和歌山県の)有田市にはこんなにたくさんホテルが建っていない、西帰浦のほうが大きい」と答えておいた。実際、西帰浦市周辺の一部は大手のホテルや観光施設が並び、ハワイのようにリゾート化している。かつてサミットが開かれたのもおじさんの自慢だ。2002年には、サッカーのワールドカップが開催され、大きなスタジアムもある。古くは朝鮮半島の人々から差別され、日本占領後、戦争後は日本人から差別されてきた済州の人の、誇りのよりどころは美しい自然でなく、こうした“はこもの”だ。ガラス張りのコンベンションセンターは、国際会議が開かれるよりも、観光客へのアピールといった要素が強いようだ。「ここは、あなたがたの第二の故郷です」おじさんが言う。親切なおじさん夫婦が住んでいる限り、巨大ビルはなくても私にとっては済州は自慢の“故郷(コヒャン)”だ。出来るだけ多くの人々に訪れてほしいところだ。
夕方、観光グループと合流。みんな、名所に買い物に時間がたつのがあっという間だったようだ。帰国すると、体重が増えていた。焼肉、さしみがしっかり身に付いたようだ(筋肉になってくれたはずである)。柔道はやりやすくなった。ふふっ!

2006年5月14日県連の救助訓練

さて、2006年5月14日になった。カナダ人ドーンストルバーグさんから連絡がない。何か手違いがあったのだろう。私たちは家で待つのをあきらめ、県連の救助訓練に向かった。紀北の雲山峰で、無線を使って遭難者を救出する練習をするのだ。7時過ぎに菰池が、県連救助隊長と現地に着いたときにはすでに、中継隊のお2人が青年の森(尾根にある広場で、谷筋からの電波を受けやすい水)に向かわれていた。遭難者役は理事長の雑賀さんがかって出てくださった。無線の数が約10台あったので、本部1、中継1、遭難者1、残りの7台を捜索班に配った。後で考えると、中継に最低2台は必要であったが、そのときは予想だにしなかった。私も、みちくさの小橋さんたちの井関峠を通るグループに混ぜてもらい参加した。前夜の雨の予報は一転、とても気持ちのいい天気だった。本物の捜索ではないので、気楽なハイキング。普段はなかなかご一緒できない他の山岳会の皆さんと歩くのは面白い。それぞれの近況に始まって(たまたまであるが、同じ角谷整形に通っている方とご一緒した)、かつて起こった実際の事故の話など、話に花咲いた。特に、以前救助隊が動いた話は、リアルで参考になることが多かった。地震などの災害では、過去の話を子孫に伝えた地域は、伝えない地域よりも防災意識が高く、いざというときに被害が小さくなるという。地震の津波の前兆や、逃げ方を伝授していた和歌山県有田郡広川町では、浜口御陵の「稲村の火」のように、津波から速やかに避難することが出来た。人類が栄えたのは、高齢者を大切にし、過去の経験を子孫に伝えてきたからという生物学者もいる。話はそれたが、救助訓練という機会がなければ、貴重な体験談を聞くことはなかっただろう。それだけでも山狩りは有意義な時間だった。
さらに有意義な実体験が待ち構えていた。無線がつながらないのである。緊急時、一斉にかける安否確認で電話が使えなくなる、あの状態が無線で起きてしまった。たった1台の中継地点で、本部1台+7台の無線と交信するのは、神業だった。青年の森にいらした山入さんと堺は最初から最後まで休憩なしだったようだ。やがて、全員が青年の森に集合し、いよいよ本格的な山狩りをする班と、救急講習会をする班に分かれた。私はみちくさの高瀬さん(かなり精力的に本格登山に行かれている。もう、お孫さんがいておばあさんとは、聞くまで信じられない方だ)と一緒に広場に残った。「竹やぶで、こっちが遭難しそうだ!」という無線も入り、捜索は難航した。1時間を過ぎたころに「笛の音が聞こえた」という一報が入り、皆でもう見つかったかのように喜んだのもつかの間。その後、笛の音の方角をめぐって混乱が始まり、雑賀さんが一人寂しく登山道に自力で出てきて時間切れとなった。遭難者用の笛と言うのは、聞き取りやすい音がするが、遠くまで広く良く響きわたるため、どこから聞こえてくるのか、どのくらい近くから吹いているのか(指向性や距離)が、まったくわからないのである。教訓。自分(たち)の身は、自分らで守れ、何事も人に頼ってはならないのである。 

2011年5月16日月曜日

葛城山のツツジハイク(2004年5月12日)

葛城山のツツジハイク
2004年5月12日
大和葛城山
寺下L、松原、坂口、菰池(記)

今年に入っての紀峰沢部は、スキーに雪山に、岩、沢、ハイキングと多彩な活躍だ。昨年から恒例の桃ハイク(桃山町の桃を上からお花見)に続いて、今回は新企画、つつじを見るハイキングが行われた。場所は大和葛城山。てっきりかつらぎ町に葛城山があるのだと思っていたが、どうやら葛城山は2つあるらしく、かつらぎ町のは和泉山脈の葛城山であり、ロープウェーはないそうだ。ツツジで有名な葛城山は、金剛山のすぐ北隣りの金剛山地、奈良と大阪の県境に位地する山と知ったのはごく最近だった。
メンバーの誰もが初めての山。正確には、私は小学生の頃の遠足に、葛城山に大阪側から登ったはずだが、教師手作りのパンフレット頼りに歩いたためか、ルート等、さっぱり覚えていなかった。そもそも遠足は大和葛城山であったのか?(和泉葛城山かもしれない)。小児喘息のあの頃は、炎天下の遠足が大嫌いだったのだから、無理も無かろう。ただ、大阪の南の方の村から登ったというイメージしかない。今回登る奈良側はロープウェーがあるため、観光化されているようだ。見頃の土日はかなりの人出だろう。先週行った人(有限会社末広みかんの大橋末子氏)の情報によると、すでに満開のピークは過ぎているという。平日でもあるし、きっと空いていると信じて向った。
12日朝、7時にいつもの田井ノ瀬橋に集合。紀の川沿いに東へむかい、五條から御所(ごせ)へ北上。途中でコンビニに寄り、いつもの沢やハイクのようにビールを購入しようか迷うが、リーダーの決意は固く、真面目にビール無しで登ることになる。しかし、この日の天気は暑く、みるみる体の水分が失われていくよう。フライパンのような熱気と照り返しの駐車場からロープウェー駅に向かううちに、早くもその気力はくじけ、始めのビールを購入する。
もたもたしているうちに、つぎつぎと観光バスがやって来て、まだ人の気配のなかった登山道に行列が出来はじめていた。ありのようにゆっくりぞろぞろと進む。くじらの滝、二の滝も、休憩する人であふれている。「リーダーぁ、そろそろビール開けませんかぁ」たびたびの誘惑に、ついにリーダーも根負け、休憩の間に2本も開けてしまうが、こういうビールのうまさは格別だ。開けるたびに、今日初めてのビールのように新鮮で、冷たいのどごしに酔いしれてしまう。汗もみるみるひいていく気がする。実際は、飲めば飲むほど血行が良くなって汗が噴き出、いっそう消耗していくのだが。人里離れた山奥へ向かうわけでも無し、「たかが2時間のハイクよ」というおきらく加減で、よいよいのまま山頂に。
かつらぎ山頂は生石山の上のようなだだっ広い影のないところ。ビールとアイスクリームが飛ぶように売れている。我々も冷や酒を試飲した後、ビールを購入する。トラックも上がって来れる。電気が来ていて、屋台のなかには冷蔵庫も電子レンジもある。ロッジには温泉まである。山=アルプス、へりでの荷揚げ、なんて思っていると拍子抜けだ。そういえば、標高960mというのは、信州の白樺湖よりも低いんだっけ。当然といえば当然か。イヌ連れも5~6組みあり、近所の公園のサクラ祭りといった雰囲気だ。眺めは、下り坂の天気でガスっていて、大阪側はさっぱり。奈良側はかろうじて平野が見える程度で、大台ヶ原もかなり薄っすらだ。ビールを飲みつつ昼食を食べたら、いよいよつつじに期待。だがやはり、つつじは木に1割ほどしか残っておらず、ぱらぱらといった様子。あわいピンクや紫のような色から咲いて、すでに散っている。風の弱い谷間に濃いピンクや鮮やかなオレンジ系の物がやや残っている。花が咲いているところでは、まるで飛び出す立体画像のように、周りの景色からぽこっと浮き出ていて、これが満開だったら幻想的で見事だろうなあと残念だった。ただ、1本だけ、満開の木があって、その周りに人が群がり、携帯電話でデジタル写真を撮っては知人に送っていた。なんか、時代だなあとみょうに年寄り臭く思ってしまった。
そうこうしているうちに、ロープウェーで大量に人が輸送されてきた。頼りなげに杖にすがる白髪の老人、ベビーカーにへそ出しのギャルママ。山頂の幅2~3mの舗装道路は人であふれ、まるで繁華街のようになってきた。その人達の大部分が、歩いて下山しようとしてる。何かが違う。このままロープウェーで下山して、近くの当麻寺に転戦することになった。
ロープウェーは混雑しているものの、なんとか30分待ちで済みそうだった。その間に、今日の山行のメモを取っていると、リーダー寺下さんが携帯に映っている3人の人物を見せに来た。右端に寺下さん、真ん中にいるのは、寺下さんに似た雰囲気の人で、親戚のおじさんか?左端の小柄な女性は誰だろう。愛人か?どぎまぎして返答に詰まっていると、「この端っこは妻です」と言う。「真ん中の人に見覚えない?」と聞くのでよくよくみると、かの有名な間 寛平(はざまかんぺい)氏であった。テレビ(ちちんぷいぷい)の生中継に、たまたま遭遇したときに撮ったそうだ。「真面目な人で、ちっとも冗談を言ってくれなかったよ」とまあ、寛平ちゃんにかこつけて、寺下夫婦あつあつのショットも見せていただいた。ごちそうさまである。
当麻寺も小学生の頃に電車で行ったはずだが、当時はなんでこんな古いお寺が面白いのだろうと思ったものだ。興味関心が無いと、しんどい思いでばかりで、風景の記憶が全然ないのが残念だ。大きくなって古文を習った頃、教科書に当麻寺が出てきて有名だったことをようやく知った。牡丹で有名というのに、今年はどんな花も早かったらしく、すでに散っていた。ツツジと同じくいつもは5月中旬なのだそうだ。2日後の14日(2004年時、本年はまた、各自お調べください)に中将姫のお祭りがあるとかで、本堂の周りに特設の廊下が設置されていた。中将姫といえば、和歌山県有田市のお寺が有名だ。奈良にも「ゆかりの寺」があると知って意外だった。中将姫の像も現代風でおもむきがなく、牡丹園のゲートは虹の柄でまるで田舎の遊園地のよう。せっかくの伝統的なお寺なのになあと、ため息をついた。散ったボタンの代りに、シャクナゲとシャクヤクの園を見てきた。水琴窟(すいぎんくつ)という、つぼを逆さに半分埋めて反響させる風流な音色も聞こえて、なかなかよかった。
奈良盆地は和歌山とはまた、風景が違う。柑橘の果樹があまりない。平野が多く、畑の作物も、ネギやマメが多い。なにしろ、土が川砂の様で、白っぽく痩せている。葛城山の途中に、「婿洗いの池」というのがあって笑った。説明書きによると、「水不足を解消しようと、龍神に祈るために、他の町から来た婿養子を池に突き落として半死半生の目に合わせた」というが、むかしの食糧不足はさぞかし深刻だったのだろう。その池も、いまでは観光名所。春のツツジと秋のススキで、葛城山は賑わい、ふもとの御所の人々も、観光客の落していくお金で潤うのだろう。かつて体を張った婿どのは、現代でも感謝されているのだろうか。
和歌山市から車で一時間半、登りもたった2時間ほど歩けば行ける手近な葛城山。来年は開花をよく調べて、身頃に山行をもって行きたいなあ、それも、ロープウェーでいろいろ持ち込んで宴会だ!と、寺下さんはやる気満々。人が多いのは大変だけど、人込みを押して出かけた甲斐があった山行だった。

時間経過は以下の通りである。

7:00 田井ノ瀬発(和歌山市)        14:10 ロープウェー山頂駅着
9:00 ロープウェー駐車場着            (ロープウェーは30分待ち)
9:30 ロープウェー駐車場発         15:45 当麻寺着
10:10 二の滝(行者の滝)          16:00 当麻寺発
11:30 山頂                 17:30 田井ノ瀬着
  (昼食、つつじ散策)

この文章は、2004年に和歌山県勤労者山岳連盟「紀峰山の会」の会報に掲載されたものの、転載です。

沢部、交流山行スキーツアーの巻(2002年1月19日)

沢部、交流山行スキーツアーの巻
2002年1月19日 白山瀬女スキー場
    20日 白山中宮温泉スキー場
重栖、山鹿、山路、宮田、寺下、東、矢田、上野(純)、宮村、
加藤、瀧谷、南本、川瀬、岡、鳥居、浅井、大橋、菰池(記)

沢部といえば、腰まで水に浸かったり、滝の水しぶきを浴びたりと、やたら水にまつわる山行が多いのですが、今回は凍った水、「雪」のスキー山行でした。そして沢部といえば米や麦の水、「酒」。今回も、もれなく、楽しい宴会付きの民宿泊でした。
朝の4時に田井ノ瀬集合で、矢田さん運転のバスでレッツ・ゴー。目的地は石川県の白山瀬女スキー場と白山中宮温泉スキー場です。いい天気で順調で、9時半ごろにはスキー場の近くの峠に到達しました。
ところが、早朝の峠は、凍てついていて、目の前でノーマルタイヤの車がくるっと回転するような状態でした。さっそく装備係(=チェーン装着係のことらしい)の山路さん、加藤さん、浅井さんの3人が中心になって、バスの後輪のダブルチェーンの装着にチャレンジ。誰も、そんな大きなタイヤに装着したことがなくて、四苦八苦。時間がないので、ダブルは諦めて、シングルチェーンを一個づつタイヤに巻いて、峠を切り抜けました。一時間はロスしました。
その日、瀬女スキー場は快晴で、土曜ということもあって、関西からの客がたくさん訪れていました。そして、その6~7割が、スノーボード。瀬女スキー場は初心者コースが少なく、初級中級コースも、幅が狭くてコースの端が切り立っていることもあって、馴れない人には難しいスキー場のようでした。それが、あとでふりかえると、スキーとボードとの、衝突の原因の一つだったと思えます。
当初の計画では、3班に分ける予定でしたが、南本さんを中心とする初心者、初級者の班と、重栖さんを中心とする中上級者の班とに、分かれることになりました。重栖グループの9人は、一気にゴンドラとリフトで上までいって、ボーゲン、シュテムの練習となりました。1本のコースを20~30mくらいずつ区切りながら、重栖さんを先頭に、全員並んで滑っていきました。信州穂高での自由滑走に慣れている私は、人が多いのと雪質が悪いのに泣かされました。
最初の20mで、上の方から私の足元にむかって、加速しながら突っ込んでくるスノーボードがあり、気がつかなかった私は、倒されてしまいました。20歳くらいの小柄な女性で、「ごめんなさい、だいじょうぶですか」と丁寧に謝ってくるので、こちらも「だいじょうぶです」といいながらたちあがると、また滑っていってしまいました。足に軽い打ち身が出来た程度だったので、そのまま滑りましたが、そのあとはスノーボードが恐ろしくて、きょろきょろ上を見ながらの滑走となりました。私だけでなく、思いはみんな同じで、スノーボードの一群が通り過ぎてから、見計らって滑る人が多かったです。滑りだして10分頃、300m下った斜面の途中にみんなで立っていると、またもやスノーボードの女性が突っ込んできました。今度の被害者は沢部部長の大橋。左肩付け根にあたって、180cm80kgもある巨体が、3mもふっとばされたのです。もうすこしで、首を負傷するところでした。あわや惨事になるところでしたが、危機一髪助かりました。
こうして午前中は、高速道路を横切る自転車の気分で、重栖先生のスキー講習を受講しました。寺下さんと東さんは、すぐにパラレルの練習に入り、浅井さん山路さんはシュテムの練習に熱心でした。皆さん、みるみる上達していくのに対し、初級者グループの私は、斜面と人と雪質に泣かされ、ボーゲンが精一杯でした。我々負傷者2名は大事を取って、午後は食堂横の休憩室で、休養を取っていました。午後の講習はなく自由だったそうです。せっかくのスキーで滑らないのは残念でしたが、のんびりと過ごすのも、素敵な休日でした。
その日の夜は、温泉に入ったあと、かに鍋を囲んで宴会。炭火で焼いた鮎やしし肉なども、たいへんおいしく、すっかりお酒が進みました。そして、部屋に帰ってからも酒盛りは続くのでした。
翌日20日は、中宮温泉スキー場に移動しました。ここは、温泉と名がつくだけで、実際には、ごく普通の銭湯あるのみ。瀬女のスキー場が半額セールをしていたお陰か、こちらは比較的人が少なく、滑りやすそうでした。「滑りやすかった」と言えないのは、またまた大事を取ってスキーを諦めたからで、回りの人たちがとても楽しそうに滑っている中、白山を見るために普通の格好でリフトに乗って、山頂まで行ってみました。谷向こうの白山は、快晴ではっきり見えて美しく、写真日和でした。ただ、逆光だったので、記念写真を撮るには、少しこつが必要だったようです。リフトを乗りながら下っていくのにも、こつと勇気が必要でした。乗り降りするときは、いつもの手前の乗り場でなく、リフトを避けながら横切って逆から乗らねばなりません。スキーヤーの好奇な目の中、心臓を鍛えて風景に見とれていました。面白い体験でした。
瀬女も中宮も、どちらも施設が新しく、信州よりも近くて安くて、おしゃれに感じました。ただ、ちょうど晴天が続き、みるみる雪が解けていく最中で、アイスバーンが多く、それが少し残念でした。これが積もったばかりならば、どんなにか快適だったことでしょう。来年もこんなスキーツアーがあればいいのにと思います。もし、実現できたら、興味のある方、参加してみませんか?重栖さん、来年もまた、どうぞよろしく!!


この文章は2002年和歌山県勤労者山岳連盟「紀峰山の会」に掲載されたものの転載です。

穂高岳沢での、雪崩目撃談(2001年5月2日~6日)

穂高岳沢での、雪崩目撃談
2001年5月2日~6日
信州穂高岳沢コル
大橋L、浅井、松原、玉置、菰池(記)

このゴールデンウィークに私は、大橋一寛氏、松原正泰氏、浅井文倫氏、玉置淳子氏と5人で信州に行ってきました。普段テレビや新聞でしかお目にかかれない出来事、アクシデント等を、いろいろ体験しました。行楽への行き帰りの長い渋滞。今にも引火しそうなガソリン臭い対向車線を、冷や汗たらしながら通り過ぎた、自動車事故の数々。さらに、岳沢に入ったら、民間ヘリが滑落者を救助するところも目撃しました。その人は奥穂、吊り尾根から600m以上滑落し、足首骨折しているところを、翌朝、登山者に発見されました。滑落したのが不運なのか、落ちて骨折で済んで、しかもすぐ発見されたのだから運が良かったのか。運不運は、表裏一体です。
我々は幸運にも、誰も怪我することなく、事故に巻き込まれる事もなく、無事に行って降りてこられました。それは、運もあったでしょうが、時間帯に適したルート選択にあったと思っています。もしも、判断ミスで、5日午後の天狗沢を降りていたら、テレビや新聞で報道される事態となったことでしょう。
松原、玉置、浅井、大橋、菰池の5人は、5/2の夜から信州に入り、5/3に岳沢入りをして、ベースキャンプをはり、まず雪上トレーニングをする予定でした。5/4は奥穂南稜を登って、奥穂山頂に抜けたあとは稜線を西側に伝って、午前中にジャンダルム、天狗沢を通って岳沢キャンプに戻り、さらに5/5はこぶ尾根を登る計画を立てていました。しかし、仕事の都合で松原、大橋両氏が5/3昼に松本で合流する事となり、予定は1日ずつ遅れて、5/4にアイゼン歩きやアックスビレーのトレーニングとなり、南稜は5/5早朝3時に向かう事になりました。
私は、高山病がはかばかしくなく、風邪で微熱もあったため、涙のテント番に任命されました。5日はよく晴れ、星降る空の下、4人はさっそうと出発していきました。私は、4人の登る姿をよく見ようと、7時ごろに東向の奥明神沢を上り下りしました。しかし、南稜に4人の姿を見つける事は出来ませんでした。10時30分より、1~2時間毎に、無線連絡をする約束でしたので、テントにこもり、降りてくるはずの天狗沢を凝視しながら、無線でやり取りしていました。後で分かった事ですが、そのころ4人は間違って南稜より西側のルートを登り、時間がかかりすぎて、ジャンダルムに行く時間が無くなったそうです。そうとも知らず、天狗沢に人影を見つけては、あれがそうかと人数を数えていました。誰かはわからないが、何をしているかくらいわかる1.5~2kmくらいの距離でした。
やがて、午後になると南風が強まり、テントの周りに干したシュラフ等が飛ぶほどになってきました。2時を回った頃、ドーンという音が響き渡るようになり、天狗沢をみると、ぱらぱらと落石のように雪のかけらが落ちてきました。そのころ、天狗沢には1人で降りはじめている人と、稜線にいる4~5人のグループとがいました。雪の粒は2回ほど、落ちてきました。2時半の無線の時間が来て、4人がジャンダルムと天狗沢をあきらめ、吊り尾根を通って重太郎新道か奥明神沢かを通る事にしたと、連絡してきました。「向かいの天狗沢の雪も緩んでいるようですので、下りは気をつけて降りてきてください。湯を沸かして待っています」そう連絡を終え、湯を沸かそうとテントに入ったとたん、大音量の山鳴りが谷に響き渡り、あわてて外を見ると、目の前の天狗沢の右斜面、畳岩あたりが大きく崩落していくのが見えました。4~5人グループの歩いているすぐ右斜面の位置で、一人が、あわてて上に引き返し、ぎりぎり雪崩を避けていました。下はと見ると、まだ雪崩に気付かずに、歩いている人が1人見えます。グループの一人が、「雪崩!」「逃げろ!」と、下の人に向かって叫びました。彼はようやく見上げ、大量の雪が自分めがけて落ちてきている事に気付き、あわてて左斜面のブッシュに向かって走りはじめました。しかし、雪崩はもうすでに10mと離れていないところまで来ていました。「逃げろ!走れ!」と、私も必死になって、天狗沢に向かって叫びました。「早く!危ない!」。とても雪の急斜面とは思えないスピードで、それこそ天狗のように、その人は大股で走っていました。しかし、雪崩の方が早く、見る見る追いつかれていきます。彼がブッシュに飛び込んだ瞬間、そのブッシュの上を、雪崩が覆い過ぎていきました。私は、更に下を歩いている人がいないか、もしいたら雪崩を教えようと、外に出ました。岳沢を横切る人もなく、巻き込まれたのは天狗沢を通った人だけのようでした。雪崩は、天狗沢の次に岳沢を下って、テント場の数百m下でようやく止まりました。巻き込まれた人の救出のお手伝いが出来るよう、隣のテントにも声をかけ、ブッシュの周辺を見守っていました。やがて、しばらくしてから、雪の中からもぞもぞと人が這い出てくるのが見えました。木に捕まって助かったのでしょう。雪崩が止まったのを見届けると、またもや天狗のようなスピードで、ひとり駆け下りてきました。
もし、予定通りさっさと南稜を登って、午後の天狗沢に向かっていていたら雪崩に遭っていたのではないかと思うと、背筋の凍る思いがしました。前兆が始まったのが2時10分、雪崩が始まったのが2時40分。天狗沢は、山のベテランの間では、「雪ぴが崩れるから午後2時以降に通るな」と言われています。本当にその言葉通りの崩落でした。ベテランは、午前中におりるか、さもなければ夜6時以降の冷えて固まったところを、ヘッドランプをつけながら降りるそうです。雪山では、時間によって刻々と状況が変わります。状況に応じて、さまざまに対処する能力が、登山では要求される事を、この雪崩でしっかり胸に刻みこみました。

菰池 環

2001年度の文登研講習会に参加して

文登研講習会に参加して
2001/8/2~8/6の5泊5日(前夜泊)、富山県立山町の文部省登山研修所(以下文登研)にて、岩登りの講習を受けてきました。リーダー育成を目標とし、最新の指導法を学んだ受講生は、それぞれの会に戻ってから、自分の山岳会のレベルアップに貢献するよう、期待されています。以下は、講習会の要約及び、その感想です。

<立山の印象>
私にとって北アルプスは、信州で暮らして以来、とても馴染み深い山ですが、日本海側の立山に入るのは生まれて初めてでした。室堂、剱沢に入った第一印象は、「スイスみたい!」でした(立山は、スイスに比べて緯度や標高が低い割に、日本海側気候ということもあって積雪量が世界的に見て多く、夏の残雪が多い。このため、山の上に行くほど、木は低く枝は垂れ下がり、頂上周辺は木が生えていない。雪渓の深いところは、8月に入っても、まだ3mはあった)。テント場の周りには広い雪渓、そして険しい岩山が360度囲むようにそびえています。とりわけ、剱岳は重量感がありました。スイスを意識した、立山駅周辺の町並み、車を置いてケーブルカーに載るシステムも、海外にいるような、素敵な雰囲気でした。しかし、生活している人の立場からすると、立山駅周辺は大きな郵便局も無く、カードが使えず、コンビニも無くて不便です。一方で、美女平や室堂は観光化されていてなんでもあり、雄山山頂に於いては、150円も出せば自販機でジュースが買えて、神社の宮司さんが「拝観料500円!」と叫んでいます。そんなちぐはぐしたところが不思議でした。

<講師や受講生の印象>
講師陣は、指導員の資格はもちろん、日本でトップクラスの集団だそうです。私の担当のY先生は、沢登りから岩に転向した人で、酒やつまみをテントに毎日差し入れして下さる、心やさしい方でした。他の講師も、スポーツ系のおおらかな方が多く、文部省という事で堅苦しいのではないかとびくびくしていた私は、拍子が抜けました。
受講生は、岩歴10年以上のベテランばかりかと思いきや、参加者15名の内、岩をほとんど触っていない初心者が4~5人ぐらいもいて、私と同じ岩歴3年ぐらいの人がもう一人。講師によると、本当にバリバリ岩をやっている人は、わざわざ受講しに来ないそうです。

<講義>
机上の講義は毎日あり、「確保理論」「登山の医学」「緊急事態策」「実技についての質疑応答」の4種類ありました(確保理論は省略します)。
「登山の医学」では、熱中症(熱失神、熱疲労、熱けいれん、熱射病)について、なり易い温度や対策を学びました。私達は、熱中症というと、昼間、炎天下に長時間いると起こるイメージを持ちますが、実際は、急に暑くなったときに急に激しい運動するときに起こるため、運動し始めて1時間以内という短時間で、すでに事故全体の8分の1を占め、2時間以内で、3割を占めます。また、発生時刻は午前中10時~12時ごろが一番多く、意外に早い感じがしました。対策は、「夏の始め」や「山行の初日」に起こりやすいので、特に気を付け、暑さに慣れるまでは短時間の運動から徐々に増やしていく工夫が必要です。気温の高いときには、運動する前に、250ml~500mlを先に補給しておき、運動後は、30分置きに500mlの水分が必要であるといわれています。暑さに対する抵抗力は、個人差が大きいので、今のスポーツ医学では、飲みたいときに飲みたいだけ飲むように指導しているそうです。
また、水分補給が大切なのは誰もが知っていることですが、大量の水と主に、0.2%程度(1リットルにつき2gの食塩)の塩分補給も意識することが必要です。熱けいれんをすでに起こした人には、更に濃い、0.9%の食塩水を与えるとよいそうです。
「緊急事態策」では、ヘリの呼び方が大きなテーマとなり、発言が相次ぎました。消防署員の受講生によると、最近、携帯電話で119番をかける人が多く、携帯の場合は一番近くのアンテナにつながるため、例えば吉野で起こった事故の連絡が、田辺の消防署につながってしまい、対応が遅れるという事例が増えているそうです。119番は出来るだけ事故が起こった県側のそなえつけ電話でかけること、山小屋でかける場合は、山小屋の住所と事故現場の位置をよく確認し、管轄が違う場合は事故現場の管轄にかけるようにとのことでした。また、他人の事故に遭遇した時、ヘリを呼ぶ前に、怪我人にヘリを呼ぶかどうか必ず確認をして欲しいそうです。でないと、怪我人が支払を拒否した場合、気を利かせてヘリを呼んだ本人に高額の請求書がきます。
それから、実際にヘリが来てからの注意点ですが、ヘリには絶対に手を振らないこと。手を振るのは、もう来なくていいよ、さようならという合図なので、来て欲しいときには、両手を挙げ、手のひらを内側に向け、大きく広げたまま動かさないようにするといいそうです。それから、ヘリから地上は意外にみえにくいので、色の着いた布を広げておく。火を炊く。あれば発煙筒をたくのが一番いいそうです。煙は、ヘリが着陸するのに必要な、風の流れを教えてくれます。手元に何も無ければ、カメラのフラッシュをヘリに向けてたくのも効果的だそうです。

「実技についての質疑応答」では、6つの班毎に、受講生側から講師に質問しました。
Q1:オールマイティなくつが欲しい。氷、岩、縦走、何でも使えるものはないか?
A:オールマイティは結局どっちつかずになることが多い。使い分けが一番。技術さえあれば、同じくつでいろいろなところに行けるはず。
Q2:ハーネスのギアラックが細くて切れそうで不安
A:ハーネスにあまりぶら下げないこと。ウエストベルトなど、出来るだけ上半身につけること。整理整頓も大切
Q3:救助法が学びたかったのに、ちっとも教えてくれなかった。指導者になる人には、救助法は必要なのではないか。八ツ峰はしんどくてつまらなかった。
A:岩場でだれかを救助しようと思えば、救助法を学ぶ前に、岩の技術がまず必要である。救助法は、岩登り講習会ではなく、救助講習会で学べる。指導者は、相手の喜ぶメニューを考えるべきで、難しいところに連れて行くよりも、やさしくとも感動を伴うところへ連れて行くべきだったのではないか。

<実技>
●やぐらで60kgのタイヤを確保器(ATC)によって確保、40kgのタイヤを、肩がらみにて確保。
●ボルトやハーケンを打ちながらの、懸垂下降時のセッティング、アンカーのセッティング
●ハーケン、ナッツ、フレンズを使って支点を取り、ダブルロープによりリード登攀。
●アイゼンで、雪渓歩行。上り下り、トラバース(ひし形歩行)。滑落停止訓練。
を行いました。基礎を繰り返す、比較的やさしい内容でした。

<感想>
この講習に向けて、ランニング、膝のリハビリを兼ねたスクワットなど、体力強化を図ってきました。20kgのボッカだけでなく、前々日に、早めに立山に入り、一人雄山に登って、高所順化もこなしてきました。講習中は、かなり速やかな懸垂下降をこなし、岩登り講習でも、四足走行のごときスピード登山では、体力に自信がありました。しかし、講習で評価されるのは、ボッカ力があり、装備を多めに持ってくる人でした。当初の参加目的の一つだった八ツ峰登攀を果たす事が出来ませんでした。
私の参加の熱意が、指導陣に伝わらなかったのは、とても残念です。今回の日山協協賛の講習会も、似たようなものでした。得るものはたくさんあった今回の講習会でしたが、生ぬるい実技講習をきっかけに、逆に、もっと勉強しよう、勉強して、紀峰から自力で八ツ峰に行こうと決心しました。
菰池 環

この文章は、2001年に和歌山県勤労者山岳連盟「紀峰山の会」に掲載されたものの、転載です。
最近の文登研とは異なりますが、ヘリの呼び方など、災害救助に役立つ情報は、現在でも通用すると思われますので、是非、ご参考になさってください。